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ユンファさんの家のリビングのベッド、その黒いベッドのふちに彼と並んで座っている俺の肩に、彼の頭がもたれかかってきている。あいかわらず彼の桃のタルトのような甘いフェロモンの匂いは濃かったが、それの匂いの濃さにいまや鼻が慣れている俺は、その匂いそのものにはもう噎 せそうとも何ともない。
ただ当然俺の情欲はある一定のところからまるで下がる気配がないが、むしろその欲望というものは、相手をより美しく愛らしく見せるものでもある。
それだから俺は、俺の肩にもたれているユンファさんの腰を抱いて、その人の目を伏せた幸福そうな微笑をただ眺めて微笑んでいた。
「……へへ…、…ねえソンジュ…」
とユンファさんが俺に話しかけてくる。
「…うん…?」
「…僕…抑制薬、飲んだほうがいい…?」
「……、…」
俺は返答に迷ってすぐには何も言えなかった。
諸々の事情をかんがみれば、ユンファさんはその抑制薬を飲んだほうがいいに決まっていた。しかし俺は、この甘い幸福がそれで終わってしまうことを惜しんでもいる。――いや結局のところそれはユンファさん次第であろう。飲むのは俺ではなく彼なのだ。
そうして俺は最善の選択を考え抜くことを放擲 してしまった。
「…俺はどちらでもいいよ…。ユンファさんがしたいようにして…」
「……じゃあ…ソンジュと一回だけえっちをしたら、飲もうかな…、……」
とユンファさんが頭をもたげ、俺の目を見て、可愛らしくニヤリと目を細めた。――そして彼は背後のベッドへとさ、とその背をあずけると、俺へむけて両腕を伸ばしてくる。
「…えへへ……来て…? えっちしよソンジュ…」
「……ふふ…、……」
今のユンファさんはとても無邪気だった。
実直にいって可愛かった。可愛くてたまらないと思うほどに、今はあまりにも無邪気なユンファさんが愛おしかった。
――ユンファさんはベッドの縁に脚をかけたまま、黒いかけ布団の上にその上半身をななめに寝かせている。俺のほうを見上げているうれしそうな彼の群青色の瞳を見下ろす俺は、彼の黒い横髪を撫でながら、その人の耳にかける。
「…やっぱり、えっちは…しない。…」
「……おい、この嘘吐 き。」
とユンファさんがムッとしたが、俺がこう言った理由は二つあった。
一つは彼が言った「俺とえっちをしたら抑制薬を飲む」というのが、俺の耳には、現状が自分のわがままで俺に迷惑をかけているという彼の控えめな認識から、何か彼が健気 な遠慮をしたように聞こえたためである。
しかしまったくそうした遠慮をする必要はない。
実際俺はユンファさんに迷惑をかけられているとは少しも思っていないし、むしろ俺に頼ってくれているユンファさんが愛おしく、嬉しい、幸せだとさえ感じている。むしろこの現状は俺にとっての幸福の時間であり、俺は今しがたも終わってほしくないと思っていたくらいなのである。
もしユンファさんが無 言 の 遠 慮 でそう言っているのならば、俺はその遠慮に無 言 の 拒 否 を返すべきだった。――そしてさらにもう一つの理由は、俺が彼に優しい語調で聞かせたこれである。
「今貴方を抱いてしまったら、俺はそれこそ貴方に何をしてしまうかわからない…――今の貴方は、俺の恋人なんでしょう…?」
俺のこの甘い確認をうけたユンファさんは、とろんと恍惚げにその切れ長のまぶたをゆるめると、艶のある真っ赤な唇の両端をすこし上げて、「うん…」と甘い吐息で鼻をならすように答えながらうなずく。
「…はは、そうでしょう…。だからこそですよ…だからこそ、今はユンファさんを抱かないんです。…俺の愛する恋人の貴方に、今の俺はともすれば乱暴なことや、無責任なことをしてしまうかもしれないから……そんなことをしてしまったなら、誰よりも俺が後悔をしてしまうとわかっているからです。…だから……」
「…別にいいよ。」
と俺の言葉を笑顔で遮るユンファさんは、軽率な満面の笑みを浮かべて俺を見る。
「今はソンジュに何されても幸せを感じられると思う。…だからいいよ、乱暴にしても、…無責任に…僕を妊娠させても…――へへ、君の赤ちゃんが出来たら僕、産んじゃおうかなー…?」
「……、…」
俺は初めて見たというほど珍しい、ユンファさんのその明るい笑顔にドキッとした。彼のその笑顔はいつになく愛らしいが、やはり綺麗でもあった。
「じゃあ俺と結婚してくれる…?」
俺は下心を出してそう聞いた。彼は「いいよ」と笑った。…かといって俺は特に嬉しくもなかった。
当然今のユンファさんには、理性的な将来の設計図など思い浮かんではいないことがわかっているためである。いわば「その場のノリ」といった返答だった。
なので俺は真に受けず、「はは、なんてね…」と笑い、俺が肩から斜めにかけている斜め掛けの黒革のバッグの紐から頭を抜き、それを床に置きながら、
「……そういうことを言ってはいけませんよ。絶対に駄目。」
「何で…?」
ユンファさんがきょとんとする。普段の彼ならばその「なぜか」など俺がわざわざ説明をせずともすぐにわかることだろうが、今の彼はそれほど頭の中がふわふわと浮ついているらしい。
「…あんまり俺を期待させ過ぎると、貴方、俺に食べられてしまうかもしれませんよ。…ふふ…――まあ何にしても…取 り敢 えず俺、コートを脱いできますね。……」
と俺は腰を上げようとしたが――ユンファさんが俺のベージュのトレンチコートの裾を掴み、
「行かないで…」
とそう眉尻を下げた泣きそうな顔で言うので、俺は渋々腰を沈めなおした。
「……、俺、コートを脱いでくるだけですよ」
それもこのリビングから出るまでもなく、この部屋にあるクロゼットの中のハンガーを借りて、そこにコートを入れるというだけのことだった。それはいつものことであるので、ユンファさんとて俺がそれで彼の視界から一秒たりと消えやしないことはわかっているはずである。
「…ここでも脱げるだろ」
しかしユンファさんは拗ねた少年のようにムスッとしている。
「まあそれはそうですけれど…、別に、いつも通り貴方のクロゼットをお借りして……」
「側に居てくれるって言ったじゃないか。」
「……はは…、……」
これは嬉しい困惑である。ユンファさんの中に定められている「側に居る」の基準は、どうやら俺が思っていたよりも厳密なものであったらしい。あんまりにも可愛いので、俺はまるで幼児に対するような甘い猫なで声を出す。
「…じゃあ悪いけれど…クロゼットまで着いてきてくださいます…?」
「…へへ…うん、いいよ。」
とユンファさんがむくっと体を起こし、俺よりも先にすっくと立ち上がる。やや遅れて立ち上がった俺は彼の腰を抱き、この部屋のクロゼットへ向けて歩きだす。彼も俺の歩度にあわせて歩きはじめたが、彼は何か嫌味のない明るい声で俺をこうからかう。
「…はは、もう…。クローゼットまで行くのに、エスコートなんかする必要あるか?」
「嬉しい癖に」
俺がこうしたことを言うと、いつものユンファさんならば「別に嬉しくなんかない」と突っぱねるところであるが――この日の彼はにこっと笑顔を深める。
「うん、嬉しい。何かドキドキする」
「…はーー可愛い…」
参った、あまりにも今日のユンファさんは可愛すぎる。――しかし普段どおりの冷徹な美男子の彼もまた捨てがたいが、……俺が彼と結婚をしたなら、あるいは抑制薬を飲ませさえしなければ、この素直で可愛らしい美男子にもまた会える……――ついそうした悪巧 みが俺の内側に芽ばえて、なおユンファさんとの結婚願望から目を逸らしがたくする。
やがてクロゼットの前までたどり着くと、ユンファさんが俺と向かい合い――俺のベージュのトレンチコートのボタンを一つ一つ開けてゆく。彼は自分の手もとを見下ろしながら微笑している。
「はは、脱がせてくれるんですか…?」
「…うん」
彼は微笑したままコクとうなずき、そう多くないボタンを全て開け終えると、ひらいた前から俺の肩を撫でるようにして、そのトレンチコートを脱がせてくれる。何となし甲斐甲斐しい夫のようなその甘い所作に満更でもない俺は、そのすべてを彼に委 せるように彼に背を向けた。――そうして、する…とやさしい手つきで俺のトレンチコートを脱がせたユンファさんに再びふり返れば、彼は微笑を浮かべたまま、自分の腕にかけた俺のベージュのトレンチコートの埃 を摘 んでとってくれている。
「……凄く綺麗だ……」
と俺はつぶやいた。
古風なほど尽くしてくれる夫――今俺の目には先駆けて、俺とユンファさんが結婚をした未来の生活が映っているような気がした。…男はみなこういった些細なことで結婚を意識するものなのだろう。
……パッパと俺のトレンチコートの表面を大切そうに払ったあと、ユンファさんはガチャとクロゼットの両開きの扉の片方をあけ、丁寧な所作でコートをハンガーにかけている。
そのさなか、その横顔に寂しげな微笑を浮かべている彼が呆れたようにこう言う。
「……はぁ…ふふ、これじゃ恋人らしくはないな…」
「…え…? いえ、そんなことは……」
俺はユンファさんが卑屈になったのかと思った。その横顔の微笑に漂っている哀愁 のせいである。
これくらいではとても俺の恋人らしくはない、やっぱり自分は俺の恋人になんて向いていない、彼がそのような自己卑下を感じたのかと思ったのだ。…しかしユンファさんはハンガーにかけたトレンチコートを、クロゼットの中のハンガーパイプにかけながら、
「これじゃ…まるで君の夫だ」
「……、…」
俺は嬉しいあまりに口を開けたまま言葉を失った。
ちょうど俺もまるで今のユンファさんは俺の夫だと、そのように思っていた。――ややあって俺は少し興奮気味にこう言った。
「おっ俺も今丁度 そう思っていたところなんです、まるで俺の旦那さんのようだなと……」
「……はは…そりゃそうだろ、恋人にしてはちょっとやり過ぎだ。…」
と言いながらパタン…とクロゼットの扉を閉めたユンファさんは、その扉の取っ手に手をかけたまま、儚げな微笑の横顔をやや俯かせてこう続ける。
「むしろ夫だとしても、今の時代にこれはやり過ぎ。ここまでやっちゃう男は正直重いよ……」
「……、…」
彼は過去の誰かにそう言われたのかもしれない。
俺は愛する美男子のその辛い過去の気配により勇 んで彼にこう言う。
「…そんなことはありませんよ。…いや、仮に世間一般ではそうだったとしても、むしろ俺はそういう重い男の方が好きだな。」
しかしユンファさんはクロゼットの取っ手に手をかけ、その横顔の伏し目がちの儚い微笑に困った色をくわえると、
「……ふふ…そう言ってくれるのは有り難いが…、僕、尽くしている内に、いつも結局は肉便器にされちゃうんだよ。…都合のいい男ならまだしも、結局都 合 の い い 穴 にされちゃうの…。で、他に男か女か作られて、お前重いんだよって捨てられる……むしろ我儘 な方が追い掛けたくなるし、面白いし、大切にしたくなるし、兎に角その方がいいんだってさ……」
「…そんな…俺は絶対そんなこと……」
「あーあ。ソンジュが僕より年上だったらな」
と悲しいほど明るい笑顔で俺にふり返ったユンファさんは、俺と目が合うなりはは、と笑みを深める。
「本当に僕の彼氏になりたいなら、もっと尽くし甲斐のある男になれよ、青年。」
「……、はい…」
尽くし甲斐のある男、か。
――なるほどユンファさんが「年上がタイプ」と言っていたのは、相手が年上ならば自分が年下、その年齢差という否が応の不変の上下関係、すなわち相手が年上ならば自分は否が応でもどこかしら下の立場になるということを踏まえて言っていたことだったのか。
案外この冷徹な美男子は、尽くし体質の甲斐甲斐しい人であったらしい。…とこのときの俺は思ったのだが、しかし結婚後の俺は、そのことをつい最近まですっかり忘れていた。――しかし、むしろ俺がユンファさんに尽くして尽くして、ともすれば隷属というほどに尽くしていてもなお、彼は俺と交際をしてくれたばかりか、俺と結婚までしてくれたのである。
――そしてそれはやはり、ユンファさんの俺への愛が故であった。
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