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                 またベッドに戻り、俺たちはまた二人でそれに腰かけている。  そして俺の隣に座っているユンファさんは、俺が手みやげにと持ってきたあのチョコレート――高級チョコレート店の、深緑の化粧箱に入った九粒入りのトリュフチョコレート――(ふた)をあけた箱を片腿(かたもも)の隣に置いて、それを白い指さきで一つ摘み、ころんと口の中へ入れる。    ……なおそれをベッド近くの床に見つけたときのユンファさんはというと、普段どおり何も言わずに平然としていた(俺は先ほどその紙袋を床に落としたあとそのままにしてしまっていた)。  彼は「あっ」とも何とも言わずにその小さい紙袋を拾いあげ、ベッドに座り、そして今しがたも何も言わず当然のように紙袋からその正方形深緑の箱をとり出し、当然のようにその小箱を開けて、当然のようにその箱のなかに九つ整列したココアパウダーのまぶされた丸いトリュフチョコレートの一つを口に入れたのである。それがいつも通り自分へのみやげ物だとわかっているからだ。    やはり愛想が良くなったようないつも通りなような、である。しかし俺は、そういったユンファさんのちょっと可愛げのないところがまたたまらなく可愛いのだ。まるで猫のようだろう。犬のようにおやつのための芸はしないが、もはやおやつを食べている、その愛おしく可愛らしい姿を見られるだけで俺はいつも満足してしまうのである。  ……ユンファさんがふと腿の横においた箱へ顔を下げる。もう一つ食べようというのだろう。 「…はは、ユンファさん、そのチョコレート好きですものね。美味しいで……」   「あーん。」    と俺の言葉のさなかに、ユンファさんが指先でつまんだ丸いチョコレートを、俺の口もとに近寄せてくる。    ……俺は口を開けた。  ころんと俺の口内に入れられたそのトリュフチョコレートは、奥歯で咀嚼(そしゃく)をするとすぐに口の中でとろけてゆく。周りにまんべんなくまぶされたコクのあるココアパウダーには(にぶ)い苦味があり、しかしなかのやわらかいミルクチョコレートにはしっかりと濃厚な甘味があるが、そのミルクチョコレートに混ぜこまれている洋酒の鋭い苦味とわずかな熱い刺激がまた、このトリュフチョコレートを甘ったるいともならない絶妙な大人びた極上の味わいとしている。  この高級店のトリュフは、チョコレートにジューシーとさえ感じられるこの口どけのよさもまた他に類をみないが、何よりチョコレート専門店ともあって、洋酒の香りにも負けない高級感のある香ばしく甘い芳醇なカカオがしっかりと香り、食べていて何とも気分が良くなる。――いや…俺がいまニヤニヤと気分が良くなっているのは、もしかすると普段ではおよそあり得ない、ユンファさんからの「あーん」のおかげかもしれないが。   「…美味しい…?」    とユンファさんが綺麗な微笑で俺を見る。   「……、…、…」    俺は口を閉ざしたままコクコクとうなずく。頬が熱い。こんなベタなほどの恋人らしいシチュエーションについ照れくさくなってしまったのである。  ふに、と俺の唇にユンファさんの人差し指の先があてがわれる。彼はうっとりとした切れ長の目で、まるでねだるかのような甘い目つきで、俺の目をじっとその紫いろの瞳で見つめてくる。   「…指についちゃった…、舐めて…」   「……、…」    ドキドキと俺の心臓が激しく高鳴る。  俺は唇をすこし開け、はみ出させた舌の先で彼の指先を舐めた。彼の熱い指先の指紋のざらつきのなか、確かにココアパウダーの苦味とミルクチョコレートの甘味がある。――ユンファさんは今オメガ排卵期のせいで発熱しているので、それでなくとも溶けやすいトリュフチョコレートを、その熱い指先でつまんだだけでも少しそれが溶けてしまったのだろう。  ……それにしても、トリュフそのものよりも彼の指先のほうが甘く感じられるのは俺の気持ちの問題か、…あるいは彼の桃の果汁のような甘い汗のせいか。――「こっちも」と今度は彼の親指を舐めさせられる。   「…ふふ…君に指舐められるの気持ちいい…。はぁ…それだけで凄く気持ちいい……」    ほのかにうす赤い顔で恍惚の微笑を浮かべたユンファさんに、俺の動悸は余計に加速する。これは男の期待が息衝いたその兆候たる鼓動であるが、今の俺はその期待を何より己自身で裏切らねばならない状況である。   「……ソンジュの舌、気持ちいいね……」   「……、…、…」    ……しかし俺の頭のなかのその理性の軸は、この恍惚の微笑に、水面のごとく揺蕩(たゆた)いはじめた。そうしてぼーっと俺が、彼のその甘い微笑に見とれているうちに――彼はその指をゆっくりと引いていった。そしてユンファさんはくっと美しいその微笑をやや傾け、   「もう一個食べる…?」と俺にさらにチョコレートを勧めてくれる。   「………、……あ、いや…。ユンファさんのお土産だから、あとは貴方が食べて…はは……」    しかし俺はいつも通りそう断った。いつにもましてニヤけていたが。――するとユンファさんはふとまた腿の横の箱を見下ろし、もうひと粒チョコレートをつまむと、また俺の唇の近くにそれをもってくる。   「…じゃあソンジュが食べさせて…?」   「…えっあは、…はは、………いや…駄目。」    俺は一瞬応じようか迷った――実に最高のシチュエーションである、この世にも美しい青年とのチョコレート口移し(キス)――、しかしそれをしたなら俺は我慢が効かなくなり、たちまち彼を押し倒してしまうことだろう。  ……しかし俺が「駄目」と拒むなり、ユンファさんはムッとした。   「じゃあいい。…」    とそして彼はつまんだそのチョコレートを自分の口に入れ、――にわかに俺はユンファさんに口づけられた。逃げようもない飛びかかってくるような素早さだった。   「…んっ……」    俺の唇にじんわりとした熱が伝わってくるほど彼の唇が熱い。  そしていつもよりももっとしっとりと濡れて、俺の唇に張りついてくるような彼の熱い唇が、俺の唇をあむ…あむ…あむ…と大きく食む。そのキスのさなかに俺のうなじを掴んでぐっと引き寄せてくる彼の熱い手は、二人の唇をさらに密着させる。    ユンファさんの顔が深くかたむき、俺の唇の両端を彼の肉厚な上唇と下唇がまったりと食む。そうして左右の口端を唇でつままれると自然俺の唇は開かれ、するとにゅるんとやわらかくぬるついた彼の舌が俺の口内にすべり込んできた。――ユンファさんの舌もまた驚くほどに熱い。…彼の舌が、すぐさま溶けてよりこってりとした甘い芳醇なチョコレートを、俺の無抵抗な舌に絡みつかせてくる。   「……ん、…」    しかしユンファさんのキスに応じもしないが拒みもしない俺は、さなか彼のこのキスに応じてよいものかどうかで迷っていた。  先ほどにも思っていたことだが、これに応じてしまえば、俺は先ほど粋がってユンファさんに「えっちはしない」と言ったくせに、その言葉をたちまち(ひるがえ)してしまいそうだった。  ……そうこう脳内で迷っているうちに、俺のうなじにはもっとぐうっと圧力がかかってきた。…俺の上体がおもむろに前のめりになってゆく。  ユンファさんのもう片手は、俺の紺色のベストを身につけた腰のあたりに添えられ――あむあむと彼の唇は、二人の体が傾くそのさなかにも俺の唇を攻め立てるように食みながら――そのままうしろへ倒れ込んでゆく彼に、俺はなかば強制的に引き込まれ、……結果、   「……っは、…ユンファさん…?」    俺は組み敷いてしまった格好のユンファさんをやさしく睨みつけた。彼は可愛い猫のような顔でニヤリと笑い、その赤い肉厚な上唇の端についたチョコレートをぺろりと舐めとってから、   「…やっぱり抱いて…?」と俺の唇を親指の腹で拭いながら微笑する。そしてユンファさんは俺を見上げたまま、その親指についたチョコレートをちゅっと軽く吸いながら舐めとったあと、へへ…と親指をあてがったままの肉厚な赤い唇のあいだに白い端整な前歯を覗かせ、屈託のない笑みをたたえる。   「…僕のこと、ソンジュの好きにしていいよ」   「……ですが……」    しかしそう言いよどむ俺に、ユンファさんは切ない悲しげな顔をする。   「……大丈夫、避妊薬は後でちゃんと飲むから…。酷くしてもいいから…ぶん殴っても何してもいいよ、ね…? これ以上はもう無理だ、もう正直おかしくなっちゃいそうなんだよ…、お願い……」   「……そ、そんなことはしないよ…、ただ…――。」    俺はふと目を伏せた。  いくらアルファ属の本能をおさえる頓服薬を飲んでいるとはいえ、一度たがが外れてしまえば、俺は自分のつがいにしたくてたまらないこのオメガ属の美男子を、どうしてしまうかもわからない。  ――(いたず)らにうなじを噛んでしまうかもしれない。本当に避妊をしない行為を勢いでしてしまうかもしれない。いつものように彼のことをきちんと(おもんばか)ったような優しい行為はできないかもしれない。……いや、それならまだよいが……そのまま取り返しのつかないことを、――本能から、魂から欲してやまないこの美男子を、俺は、俺以外の誰の目にもつかない場所に閉じこめてしまうかもしれない。    今もそうだが――俺はこのときも、生来の自分の牙を恐れていた。  これは我ながら狂ったところのある牙だった。  そして俺のこの牙の疼きは、ある「憧憬(しょうけい)」から掻き立てられているものであった。    俺のその狂った憧憬は――俺の両親に一因がある。    俺の両親は仲睦まじい。なお父と父である。  片方の父はアルファ属、もう片方の父はオメガ属である。息子である俺との関係性も決して悪くない。むしろ今も昔も俺たち親子の関係性は良いほうだといえることだろう。  ……彼ら夫々(ふうふ)の「外装」はあまりにもその関係性において理想的、俺の目から見ても社会の目から見ても完璧としかいいようがないほどの夫々であった。  アルファ属の父はある大手企業の社長、そのうえ由緒正しい名家とされている九条家の当主ともあって我が家は裕福ではあるが、しかしそれ以外は大して変わったところのない普通の家庭、彼らもまたいかにも異常性のない普通の人ら、いや、むしろ彼らは世の人に憧れられるような理想的な夫々でさえある。  俺を産んだオメガ属の父は俺にすこし厳しいところがあるが(子を愛しているからこそ躾はきっちりとするタイプの親という感じである)、一方のアルファ属の父は、俺のことを溺愛というほど愛してやまない。    しかしそれは――彼らの昼間の「外装」だ。  俺の両親にはその外装の中に秘められた、「ある夜の秘密」があった。    これは俺がまだ十代の頃、豪邸ともいえる家の屋根裏部屋にあった、アルファ属の父が過去に書いたものと思われる日記に記されていたことである。    それの内容はこうだった。  ――過去アルファ属の父が、オメガ属の父を監禁したというのである。    両親の出会いはまだ二人が高校生と大学生のころ――オメガ属の父はアルファ属の父の五歳年下である――、親同士が勝手に取りはからった見合いだった。  しかしアルファ属の父はオメガ属の父に一目惚れをした。アルファ属の父はオメガ属の父をひと目見て、『俺はこの美人と結婚するに違いない』と思ったのだという。――確かに子の目から見ても、オメガ属の父は美しい男だった。    年を取った今もなおその美貌は健在であり(もとよりオメガ属は年を取っても実年齢より若く見られやすい)、また彼の美貌は雰囲気ばかりどことなくユンファさんのそれと似ている。――とはいえ、俺の父のほうはベータ属の両親の間に生まれているので(ユンファさんとは違って)小柄ではあるし、切れ長目のユンファさんに対して父のほうはやや丸目がちにせよ、父もまたどこか幸薄げなしとやかな美人顔の男、その物憂げな透明感のある雰囲気は多少ユンファさんと似かよった印象がある。    しかもユンファさんと同じく、オメガ属の父はその大人しそうな顔のわり、結構気が強い人なのである。  ただ息子の俺に対する躾が過剰に厳しかったということではなく(俺は彼からはあくまでも当然の叱責しか受けていない)、むしろ息子の俺に対してはいつもは優しい人なのだが――彼は夫であるアルファ属の父に対しては、その小柄さや大人しそうな美人顔からは想像もつかないほど、きっぱりと駄目なことは駄目、不満は不満として言葉を選ばずに言う、ともすれば(五歳年上の、身長差三十センチ以上の夫を)手厳しく怒鳴りつけることさえある。    ――平易に言ってしまうならば、アルファ属の父は惚れた弱みからか、オメガ属の父の尻に敷かれているようなのである。…いつもアルファ属の父はオメガ属の父に話しかけられただけでニコッとする。その内容が文句であれなんであれ、である。すると彼は俺とよく似たタレ目であるので、なお柔和な人と見える(俺の輪郭はオメガ属の父似だが、俺の顔のパーツはアルファ属の父似である)。    とはいえオメガ属の父は、息子の目から見ても気立てがよく甲斐甲斐しい人でもあるのだが、家庭内のコントロールはほとんど彼が握っているといってよい。    ただしオメガ属の父のほうが、幾分かはユンファさんよりも素直な性格をしていたようだ。オメガ属の父も出会ってすぐアルファ属の父に惹かれ、数回のデートを経たのち、二人は程なくして交際を始めた。    しかし、アルファ属の父にはある悪癖があった。  彼にはある被害妄想――()()()()をしてしまう癖があったのである。  大学生のアルファ属の父は日記に『絶対にアサツユは俺以外の男とも付き合っているに違いない』と書いていた(なお「アサツユ」というのはオメガ属の父の名である)。  ちなみにこの頃の二人はまだ付き合いたて、大学三年生のアルファ属の父と、高校一年生のオメガ属の父、オメガ属の父は高校に通いながらパン屋でバイトをしていたようである。    アルファ属の父は更にこう綴っていた。『俺はきっとあいつにもてあそばれているんだ。やっぱりお見合いだったから、きっとアサツユは本当は俺のことなんか愛していないんだろう。  最近アサツユは俺と会ってくれる時間がやけに少なくなった。あいつはバイトが忙しいんだというし、やけにそっけない。まだ俺たちはキスも何もしていないし、もちろん一線だって越えていないが(どうやら父たちは、オメガ属の父の若さを鑑みて、彼が成人となるまでセックスはしなかったようである)、もしかしたらもうすでに、アサツユの体には俺以外の誰かの手が触れているかもしれない!    おかしくなりそうだ!  あれほど美しい男だ。きっとバイト先でもっとアサツユと年齢が近いほかの男と出会って、アサツユはきっとその男のほうがよくなって、俺のことを裏切っているに違いない。』    ……もちろんそんなことはなかった。  そもそもそのオメガ属の父が務めていたパン屋、初老の店主とその妻、そしてパートの中年女性が二、三人というなかに若いオメガ属の父が一人――そういった構成でも難なく店がまわる、いわゆる個人経営の小さいパン屋だったそうである(とは、オメガ属の父が嫉妬云々(うんぬん)を抜きにして俺に聞かせてくれたことだ)。  むしろそうした出会いなどほとんどない。オメガ属の父はある大学の近くに住んでいた(そこは俺にとっての祖父母の家、つまり彼の実家である)。すると近辺には華やかなカフェや、パン屋でもチェーン店のおしゃれなパン屋や、いくつかファミレスなんかもあって、わざわざバイト先に古ぼけた個人経営のパン屋を選ぶ大学生はもとより高校生など、そのほうが少なかろう。  ましてや来る客にしたってアルファ属の父と同年代の大学生か、あるいは地域の人々である。    案の定、のちのちになってアルファ属の父は日記にこう書いていた。『アサツユは俺を裏切ってなんかいなかった! 彼は俺への誕生日プレゼントを買うために、シフトを多く入れてくれていただけだったらしい。無理しなくていいのに……だが、アサツユに貰ったこの腕時計は、俺は一生使うと決めているんだ。愛してる。』    アルファ属の父の日記はしばしばこんな感じだった(ちなみに父は本当に、いまだにその安価な腕時計を大切そうに使っている)。嫉妬妄想をしてはそれが妄想だったと判明し、また嫉妬妄想をしてはそれが妄想だったと判明し……息子の俺が呆れてしまうほど、何一つとしてその一喜一憂は進歩していなかった。  あるいはその日記にオメガ属の父への愛を綴っているか、日常生活の愚痴や喜び事など日記らしいことも書いてはいたが、それもその大半にオメガ属の父の「アサツユ」という名が散見された。    終始そうした調子で綴られていたアルファ属の父の日記に、突然――「ある変化」が訪れる。  それはアルファ属の父が大学院の経営学研究科を卒業し、(俺にとっての)祖母のもとで会社経営の実践を学ぶようになったころ(祖父母は共同経営者であったので、祖母が父の教育係となった)、要するにアルファ属の父が社会人として、現場で学びながら働くようになったころ――そのころには、アルファ属の父とオメガ属の父は同棲をはじめていた。  ちなみにオメガ属の父は高校を卒業してすぐ無職となっていた。もとよりオメガ属は属性差別から就職も大学進学もむずかしいのと、彼は婚約者であるアルファ属の父がいたために、あとは結婚をして家庭に入るのみの身とされていたようである。      そして、その頃のアルファ属の父の日記には『早くアサツユと結婚したい。だが……』と書かれていた。        

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