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                 ――『早くアサツユと結婚したい。だが……』      その頃のアルファ属の父の日記には、ほとんど毎日『アサツユと結婚したい』という文言が見られた。  なお、別段オメガ属の父が結婚を拒んでいたというわけでもなさそうだった。むしろ彼は婚約者であるアルファ属の父とは、どうせ遅かれ早かれ結婚をするのだから、今でも後でもどちらでもよい、というような感じだったようである。  しかし彼らの結婚を拒んでいたもの、それは――。    俺にとっての両方の祖父母である。  ……というのも祖父母は、早く結婚をしたい、今だってほとんど結婚をしているようなものだ、と主張するアルファ属の父に、「まだ早い。二人は婚約者同士なのだから、何も急いで今すぐに結婚する必要もないだろう。(アルファ属の父へ向けて)もう少し社会に慣れてからにしなさい。今は何かと学ぶことも多くて大変なのだから、今は仕事に集中しなさい」と言って、(今すぐの)結婚を認めなかったようである。  しかし嫉妬深いアルファ属の父は、オメガ属の父を独り占めにできるその「婚姻関係」を少しでも早く結びたかった。――親に認められた婚約者同士であるのに、誰にも取られやしないのに、オメガ属の父は明らかにアルファ属の父しか見ていないというのに、アルファ属の父は早くオメガ属の父を名実ともに自分だけのものにしたいと、一人で焦っていたのである。    そしてその同棲期間に起きた、ある出来事――。    ある日オメガ属の父は、夕方ごろ家に友人の男を招き入れ、アルファ属の父が帰ってくる夜八時半まえまでその友人と楽しい時間を過ごした。  オメガ属の父と友人は酒を酌み交わした。なおその友人はオメガ属の父の親友である。ベータ属男性で、オメガ属の父がオメガ属であることを抜きにも親しくしてくれる、彼の数少ない友人の一人だった。    しかしアルファ属の父はひどく嫉妬した。  自分が仕事をしている間に他の男と会い、無断で自分たちの家にその男を上げ、さらにはまるで性行為後のように赤らんだ顔、涙目、どこか恍惚としたその微笑と態度と舌たるさ、アルファ属の父はあらぬ疑惑に憤怒した。  ……とはいえ、別に何が起こったというわけでもなかったのだろう。日記にはオメガ属の父がこう()()()をした、と書いてあった。    自分(オメガ属の父)は親友と酒を飲んでいただけだ。あの人は学生時代からの自分の親友だ。彼には彼女もいる。まさか浮気なんかしていない。  確かに無断で家に上げてしまったことは自分も悪いと思ってはいるが、かといって、いいかと聞いても貴方は絶対に許してくれないだろう。たまには親友と会って息抜きがしたかった。結婚をするかもしれないと仕事も辞めてしまったから、外との接触がほとんどない今、貴方の仕事中は自分は家で一人ぼっちなんだ。本当に浮気なんかしていない。ただ誰にも会わずに家にばかりいると息が詰まりそうだっただけ。だから親友と会って久しぶりにお酒を楽しんだだけ。  じゃあなぜ家で飲んでいたかというと、それは自分が小柄なオメガ属であるために、外で酒を飲むのは帰り道に危険があるかもしれないので、親友のほうが気を利かせて家に来てくれただけだ――。  しかしオメガ属の父のその言い分は、アルファ属の父の耳には「不貞の言い訳」としか聞こえなかった。ましてやこのときのアルファ属の父は結婚をしたいのに認められない、オメガ属の父を早く名実ともに自分だけのものとしたいのに、あと三年は経たないと両親たちはきっと自分たちの結婚を許してくれないという、そうしたもどかしい焦燥感と葛藤に日々苛まれていた。    そしてその張りつめたアルファ属の父の精神状態に、もとよりの嫉妬妄想の悪癖が加わった結果――追い詰められたアルファ属の父は怒りのままに、オメガ属の父を同棲しているマンションのその一戸に監禁した。  ……表向き、二人の「外装」は何が変わったということもない。同棲しているカップル、それも結婚を見据えてバイトも辞めていたオメガ属の父は、監禁以前にも外との接触が格段に減っていた。   『俺はついにやってしまった。』とアルファ属の父は日記に書いていた。『アサツユの両手に手枷をつけ、彼の足首も両方鎖に繋いだ。気の強い彼が「お願いだからこんなことはやめてください」と泣いていた。』    そしてアルファ属の父は、オメガ属の父を「調教」した。その調教というのはいうまでもなくサディストとマゾヒストのそれである。  ――最初こそオメガ属の父はアルファ属の父を「最低だ、貴方は最低です」と罵り、当然激しく拒んだ。あるいは時折さめざめと泣いて「もう許してください、もう勝手なことはしませんから」と懇願した。    しかし父の日記いわく、オメガ属の父は半年にもおよぶ調教の成果か、あるいは初めの月にアルファ属の父につがいにされたからなのか、次第にアルファ属の父に従順になっていった。    ちなみに、その日記が入っていたダンボール箱のなかには、三十本はあろうかというビデオテープが一緒に入っていた。他のダンボール箱にもそれらはあったので、そのビデオテープは計百本以上はあったろう。  そしてそのビデオテープの側面の黄ばんだテープには、黒いマジックペンで日付だけが記されていた。  ――俺は好奇心からそのビデオテープを見た。屋根裏部屋にはそれを再生できる、ビデオデッキ内蔵型の古いブラウン管のテレビがあったのである。    すると赤い首輪を着けられたオメガ属の父の、今よりいくらか若い赤らんだ顔が映った。  父はカメラのレンズに涙にうるんだ水色の瞳――俺と同じ水色の瞳――を据えている。彼はテーブルか何かに手を着き、恐らくアルファ属の父に後ろから犯されていた。二人は裸だった。『私はハンジュ様だけのものです、私は貴方様だけのものです、私はハンジュ様がいないと生きてゆけません、どうか永遠に私を飼い続けてください』とカメラレンズを見つめながら、艶めかしい涙声でオメガ属の父が繰り返していた(いうまでもなく「ハンジュ」とはアルファ属の父の名である)。  そういう彼の表情はどこか儚げ、悲しげではありながらも――恍惚として、とても幸せそうに見えた。      俺は自分の両親のこの「秘密」を知ったとき、まずは「あぁなるほど」と合点がいった。  もちろん彼らは俺に隠していたが、犬を飼っているわけでもない我が家の両親の寝室に、少し角が擦れて白くなった赤い首輪があった。それはその部屋のチェストのなか、服にまぎれて隠されていた。――広い家の中を探検して回っていたところたまたまそれを見つけた子供の俺は、何の悪意もなく両親のもとへそれを持っていき、無邪気にこれは何だと聞いた。彼らは「昔飼っていた犬のものだ」と笑って答えた。  ……それは大人の嘘であった。その首輪は今も時折オメガ属の父の首に巻かれているものだったのだろう。    ――そして彼らはその監禁が始まってから半年後、結婚をした。  ……そのころオメガ属の父のお腹に、俺が宿っていたからである。    そのことを欣々(きんきん)と興奮した荒立たしい文字で綴っていたアルファ属の父であった。  ちなみにその日記を読むかぎりでは、オメガ属の父の妊娠がわかって結婚をしたあとの二人の生活は、その直前までの監禁、調教、支配、隷属という不健全な状態から、あまりにもあっけないほど――むしろ恐ろしいほど――普通の愛しあう夫々生活に切り替わっていた。  まあアルファ属の父は満足だったのであろう。身悶えるほど欲していたオメガ属の父を無理やりにもつがいにし、妊娠をさせ、その妊娠をきっかけにかねてより望んでいた結婚にまでこぎつけられた。彼の精神状態が落ち着いたのはまあ理解にも及ぶ。    しかし俺の疑問の対象はオメガ属の父のほうである。  アルファ属の父には、その日記からも元よりサディスティックな趣味があることがわかった。彼はしばしば『アサツユを縛り付けて……』だとか、『アサツユのあの白い肌に赤いロウソクを落とせばさぞ……』だとか、『アサツユに首輪をつけて、リードを……』だとか、嫉妬妄想中はとくに酷かったが、その苦悶の状態でなくともしばしばそれらしいことを書いていた。ある意味ではそれも()()ではあったが。    しかし……かといってオメガ属の父を監禁する前のアルファ属の父は、そこまでは決してその妄想を実行には移していないようであった。だから『ついにやってしまった』と彼は書いたのである。それからも推測するに、監禁されるまでのオメガ属の父は、アルファ属の父にあくまでも()()()抱かれていたのであろう。    つまりオメガ属の父は、ある日突然手足を拘束され、ある日突然監禁をされて自由をうばわれ、そしてある日突然SM調教を施されたのである。  それもおよそある日突然サディストに豹変したアルファ属の父に、彼は徹底的な隷属を強いられたのである。  現にあの日記いわく、またあのビデオにも見るように、彼は人の尊厳を奪われるような支配と調教をアルファ属の父から朝から晩まで受けていた。  すると、俺が彼のお腹に宿ったきっかけとなる行為にしても、およそサディスティックなそれであったのではないだろうか(調教日記やそれの様子を撮っていたビデオテープは、結婚後になってやっと途絶えている)。  しかし結婚をしたあと――恐ろしくなるほど突然に、生まれてくる子を待ち望む、愛しあう()()()()()のような生活をしていたというのである。  それもその人はお腹の子、つまり俺が生まれてくることが待ち遠しい、可愛い、と毎日少しずつ膨らんでゆくお腹をなでて綺麗に微笑んでいた。――そのビデオテープに関しては、俺は子どもの頃、両親に見せられたことがある。    もちろんその「経緯」を知らずして見たそのビデオの中の父は、幸福なだけのセックスによって俺を妊娠し、むしろ俺を望んだからこそセックスをしたような清廉さで、そして当然のように生まれてくる子どもの俺を親として慈しみ、また当然のように、その子のもう一人の親であるアルファ属の父を心から愛している――どこか神聖さすらあるその慈しみの微笑は、その膨らんだお腹をやさしくそっと大切そうに撫でているその白魚(しらうお)のような手は、子どもの頃の俺の目に焼き付いて離れず、今もなお俺は鮮明に思い出せるくらいである。    俺の父は綺麗だった。  しかしその「経緯」を知ってから、あの慈しみの神聖な微笑を思い出した俺は戦慄(せんりつ)した。    アルファ属の父の暴挙に、オメガ属の父は失望しなかったのか――?  ストックホルム症候群というやつだろうか――犯罪者、加害者を愛してしまう被害者の心理か――と俺は思ったが、しかし、今の仲睦まじい二人にはそのほの暗い病らしき気配は感じ取れない。    ただし――俺のその「疑問」は世の中に定められた常識、倫理観、それによるところの「疑問」であった。    俺のあの戦慄はあまりにもオメガ属の父が凄艶(せいえん)だったからである。俺はそうした疑問の中――決して度外視の許されない、ぞくぞくと戦慄(わなな)くほどの興奮を覚えていた。    この親にしてこの子ありというべきか、もとより俺の嗜好は彼らと同じであった。しかしこのときの俺のそれは性的な興奮ではなく、芸術に対する賛嘆の興奮であり、素晴らしい愛に感動した興奮であった。    もちろん普通であればそうはなるまい。俺は両親を恨んでも疑心や嫌悪を抱いてもおかしくはなかった。  ところが俺というのは、その二人の血を引いているせいなのか――昼間の彼らが俺に見せている普通の家庭、普通の夫々の愛、普通のお涙頂戴ものの芸術、――それらを知っておきながらに、それだからこそより二人を結びつけている夜の愛が堅固なものであると感じた。彼らの本性はまるで綺麗事ではできていなかった。    両親は深く深く愛し合っている。  お互いがお互い無くして生きられないというほどに、彼らは共依存関係とまで深く深く深く愛し合っている。俺は両親が誇らしいとさえ思った。  絶対的支配と絶対的隷属という結びつきは、普通の婚姻関係の結びつきよりもより崇高で素晴らしいものだと俺は感じた。    また俺はいくつかオメガ属の父の調教ビデオを見たが、そのいずれの父もとても綺麗だと思った。  気持ち悪いとは少しも思わなかった。もちろん両親のそれで自慰をすることはできなかったし、しなかった。いや、むしろそれだからこそ、マゾヒスティックなその恍惚顔に素晴らしい芸術性を見つけられたのである。例えば美しい舞いを見ているかのような、例えば美しい絵画を見ているかのような、そういった嘆息のこぼれる美しい芸術を見ている気分だった。    そして俺は強く惹かれ、彼らの関係性に憧れた。  子煩悩でオメガ属の父にはいつも惚れた弱みか全く勝てない、家庭では優しく気遣いのできるアルファ属の父……その人の夜の暗闇、「外装」に隠されているその人の(とげ)、その甘美な棘に肌を刺されて(よろこ)んでいるオメガ属の父、あの勝ち気ですこし厳しい父が、いつもはその剣突(けんつく)な棘でアルファ属の父を刺しているその人が、「外装」のなかではアルファ属の父の棘に血を流して悦んでいる。    ――何て美しいんだろう!    俺はそれを契機として心から憧れた。  自分の両親のその「愛の形」に憧れたのである。  ――しかし俺が憧れているその「愛の形」は、残念ながら、この世の中ではなかなか認められないものである。「普通」ではないからである。諦める(ほか)はない。    と…そう現実に則した物の見方ができる大人になってからはそう考えている俺だったが、しかしその「思考」で俺の「嗜好」は、俺の「憧憬」は、「俺の牙」はだからといって死に絶え、抜け落ちるようなことはなかった。俺の「憧憬」の(うず)()は今もなおこの牙を疼かせているのである。  ――それも以前までの俺ならば、それでもその牙の身悶えしそうになる疼きを、マゾヒストたちとの遊戯で気休めでも(しず)められていた。    しかしこの美男子と出逢ってからというもの、俺は他のマゾヒストたちとの関係にさえ何ら面白味を感じられないようになっていた。つまり今俺のこの牙は獲物の、いや――この美男子の血に飢えきっている。    俺は自分の理性に自信がなかった。  俺は我ながらアルファ属の父によく似、むしろその人をロールモデルとさえしているところがあった。  俺の中ではむしろ肯定的な憧憬の対象であるアルファ属の父、彼がしたことは世間一般では決して許されることではない、それはいくら婚約者というパートナー相手であれ関係ない、言ってしまえばあきらかな犯罪行為であり、倫理観の面から見ても決して許されてはならない行為であった。――しかし理性ではそれがいけないことだとわかってはいても、俺は本能のどこかで父のその行為を「愛」だと丸ごと肯定している。   「…ただ……その……」    俺はユンファさんを組み敷いた格好のまま、どう言うべきかわからずにただ言いよどんでいたが、やがて後ろに腰を引きながら、またベッドのふちに腰かけようとした。しかしとび起きたユンファさんが――どさ、と逆に俺を押し倒してくる。  そして彼は、俺をその暗い切れ長の目で見下ろしながら妖艶に微笑する。   「…じゃあソンジュは何もしなくていいよ…」   「……、…、…――。」    俺が能動的に何もしないのなら、俺の牙がこの美男子に突き立てられることもないか……いや、やっぱり…――俺のその一瞬の油断、「やっぱり駄目だろう」と俺が思ったころにはもう遅かった。俺の唇はユンファさんの甘い唇に塞がれていた。       

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