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56 ※モブユン
――その後どうなったか、というと、……
俺は一週間ぶんの着替え諸々 を取りに一旦家に帰り、そして三十分ほどでユンファさんの家にまた戻った。
しかしそうして俺が彼の家に戻れども、…残念ながら、彼はもう俺のことを家に入れてはくれなかった。
何度インターフォンを鳴らしてもユンファさんは出てこない。
それも普段は俺が無用心だと思うほどなかなか家の鍵をかけないユンファさんが、このときばかりは鍵をかけていたのだ。…というのも、俺は「ならば」といつも通り彼の家に勝手に入ろうと――目の前の玄関扉を開けようと――バー状のドアノブを掴んでそれを試してはみたが、しかし俺のその目論見は、ガチ、とめずらしくその扉にかけられていた鍵に阻まれ、あえなく失敗してしまったのである。
「……、…」
俺はその唐突ともいえる拒絶の気配にその扉の前で立ちすくみ、キャリーバッグの取っ手を片手にもったまま一瞬茫然 として固まった。――しかし次の瞬間にはハッとした。
いや、オメガ排卵期を迎えている彼が家の鍵をかけるということはあくまでも当然の自己防衛である。ましてやいくら抑制薬は飲んだとはいえども、例の危険な男が家に訪ねてくるかも来ないかもわからないこの状況下で、家の鍵をかける、インターフォンに応対しないというのは、かえって英断とさえいえる対応だろう。――そもそも思えばユンファさんは先ほど、俺の「(その危険な男が)訪ねてきたらどうするのか」との問いに、「別にどうもしない」と答えていた。
すなわち彼がいっていたその「どうもしない」というのは、まさしくこの無反応なのではないか。
……しかし、そうしたあたかも筋の通った理屈に思いいたってもなお、なぜかしら俺は嫌な直感をして胸さわぎがしていた。――それだから、俺はこみ上げてくる焦慮 から荒々しい手つきで肩からかけたショルダーバッグのなかをあさり、それのなかから慌ててスマートフォンを取り出した。そしてユンファさんに電話をかけた。
すると彼は電話にばかりはすぐに出てくれた。
俺はつながった電話に多少安堵しつつ、彼に開口一番「もしもし? 鍵を開けてください」と言った。俺の声にはおよそ隠しきれない焦りと不安がにじみ出ていた。
……しかし、案の定――抑制薬を飲んだ彼は普段どおりの冷々 としたものを取り戻しており――、彼は電話越しに『悪いけどもう帰って』と低い声で俺に言うなり、それだけでブツリと一方的に通話を切った。
……俺の嫌な直感は当たっていた。俺は自分の予想どおりだった彼のその断固とした拒絶にもかかわらず、動揺したままに何度も彼に電話をかけ直した。
しかしそれっきり、ユンファさんはもう電話にさえ出てくれることはなかった。
「……、…」
俺は再び茫然とその場に立ちすくんだ。
……今に思えば、ユンファさんは例の「恐れ」からこうしてまた俺のこと、ひいては俺の優しさ、俺の愛を拒んだのであろう。
しかしこのときの俺がまさか彼のその事情、心情を知っているはずもなく、俺は俺をこばむ鍵のかかった扉の前に一人さみしくただ佇みながら、愛する美男子に拒絶された悲しみに胸中を曇らせた。
ともすると、ユンファさんはもう俺とは会ってくれないつもりかもしれない。
俺は胸の中にみるみると形を成してゆく暗雲のその核心に、雨にも似た冷や汗をかくようないやまさる焦りを感じた。
しかし俺はその次には「何て身勝手なんだ」と、その胸中に立ちこめた暗雲のなかに怒りの雷を生じさせた――が、…思えばユンファさんは端から「もう帰って」と俺に言っていたところを、俺がなかば強引に「(心配だから)一週間泊まる」と一方的に話を進めていたことにはたと思い当たり、…いくら彼への善意やら愛やらが動機とはいえ、むしろ身勝手であったのは俺のほうかもわからない、…と結果、俺のその雷雲から稲妻が地へとすばやくかけ落ちてゆくことはなかった、すなわちその稲妻が何かしらを壊すにはいたらなかった。
俺は踵 を返した。
そしてこのときはそのまま大人しく家に帰った。
――これは自分にとってかなり都合がよい考えだとも我ながら思ったが、なるほどこれもまたきっとユンファさんの「威嚇」だ、そうに違いない。俺は帰りのタクシーの中で早速そう気持ちを切り替えた。
ユンファさんはもう俺とは会ってくれないつもりかもしれない。と俺は彼の家の玄関扉の前でそう悲観していた。
……しかし絶対にそうはさせないぞ、との強い意志をもって俺はその閉め切られた扉に背を向けた。
このときの俺にはもうすでに、ユンファさんと再び会うにおいてのちょっとした企 みがあった。――というのも、ユンファさんには少なくともも う 一 回 は 俺 に 会 わ ね ば な ら な い 理 由 が残されていることを思い出したのである。俺はチャンスともいえるその「理由」をあえて彼のもとに残しておくために、このときは表向き素直に帰路についたのであった。
その「理由」とは何か?
ユンファさんの家のクロゼットには、俺がはじめに彼の家に来たときに着てきたトレンチコートが残されていた。
彼はそのことをすっかり忘れていたのだろう。
そもそも俺が自宅に帰った理由というのはいうまでもなく、着替えや念のための頓服薬など、一週間の外泊に必要な諸々を取りに一旦家に帰ったという、ただそれだけのことであった。
――要するに俺は、ただそれら荷物を取りに一時的に帰宅しただけであった。
したがって俺はユンファさんの家を出るとき、タクシーも利用することだし、そのためだけにわざわざコートを着る必要もないかと判断し、そうして自分のトレンチコートを身に着けないまま――それを彼の家のクロゼットに残したまま――自分の家へと帰った。
そして必要なかぎりの荷物をもって彼の家へと戻った。ものの、しかしあえなく彼には『もう帰って』と冷遇され、憎らしいことに今度ばかりは鍵をまでかけられて、すっかり閉め出されてしまった。
……しかしそれはそう、俺の私物であるトレンチコートを彼の家に残したまま……もちろん彼は俺に顔も見せず電話口で『帰って』と言っただけである以上、俺にそれを返してはくれないままに――。
むしろこれは俺にとってのチャンスであった。
それだから俺はユンファさんが「あ、そうだ」とそのトレンチコートの存在に思い当たる前に、さっさと帰路についた。彼がそれの存在を思い出したときに俺がまだそこにいれば、そのままあっさりと返却されてしまいかねなかったからだ。
こうしてユンファさんは、少なくともあと一回は俺に会わなければならない――俺に、その俺の私物であるトレンチコートを返さなければならなくなったのである。――
そして――そのときは案外早くに訪れた。
それはあの日から一週間後、昼ごろのことであった。
……その日の前日の午後十一時ごろ、俺のスマホにはユンファさんからのこうしたメッセージが入った。
『あの時コート忘れただろ。それだけ渡しに行く。いつ空いてる』と。
彼からのこれは相変わらずそっけない、要点だけに絞られた短い文章だった。「いつ空いてる“?”」との疑問符さえ省略されている。――しかし俺はユンファさんからのこのメッセージにとび上がらんばかりの欣喜 をした。…ユンファさんが、まさか俺のトレンチコートの件を気にして自ずから俺に連絡をしてきてくれるとは、…案外俺は彼の心に爪あとを残せているのかもしれなかった。
そもそも俺はトレンチコートの件は、俺のほうから彼にメッセージを送ろうと考えていた。
まずユンファさんは自分からその件で俺に連絡してくることはないだろう、と思っていたためである。
というのも、彼は几帳面なところも多くあるように見受けられた――たとえば殺風景な自宅の一室に、まるで見たくもないというようにブランド物を追いやっているわり、彼はそれらを(床とはいえ)きちんと整列させて保管している――が、人、あるいは俺に対してはわりかしものぐさな印象もあった。
それこそ俺の家に自分が行くより、俺が彼の家に来るほうが楽だ、というような人である。
付け加えて俺に「拒絶」を突きつけた手前、いくら自若 とした性格のユンファさんであろうとも、さすがに俺と会うはもとより連絡をするのさえ気まずいだとか、あるいはプライドがあるのでもう自分からは俺に接触するつもりはないだとか、…それこそもう俺との関係は終わりにしたのだからとともすれば、わざわざ返すのも面倒だと俺のトレンチコート一着くらいあっさり捨ててしまうかもわからない、とさえ俺は考えていた。――もともと彼は合理主義者的な、冷徹なところのある人である。
いや――俺がそう考えた理由というのは、あの「拒絶」の他にもう一つあった。
その実ユンファさんはその一週間のうちに、俺に一度だけ電話をかけてきたのである。――それはあの日から数日後のことだった。
……俺はそのとき、ある案件を抱えていて多忙状態だったのだが――その着信は深夜一時ごろ、ちょうど執筆作業がひと段落ついたころのことであった。
なお休憩していた俺は作業机に向かいあったままタバコを吸っていたのだが、机に置いていた自分のスマートフォンの画面がにわかにパッと点 ったばかりか、その着信画面にはなんと『ユンファさん』と表示されているではないか。
俺はその人の名前を見たなり、あわててタバコの火を消し、その着信に応じた。
そして俺はすぐさまスマートフォンを片耳にあてがい、「もしもし」
するとユンファさんの声より何よりも先に、俺のスマートフォンのスピーカーからはにわかに「妖しい音」が聞こえてきた。
ギ、ギ、ギ、ギ、ギ、ギ、――これはベッドのスプリングが軋 んでいるような音である。
「……ユンファさん?」
俺は不安げに彼の名を呼んだ。もちろんこのときの俺は、ほとんど外れることのない「嫌な予感」を得ていた。
すると次に聞こえてきたのは、
『ほらユンファさん、ちゃんと言ってやらないと』との、男のあざ笑うようなどこかふてぶてしい声だった。その声はやや遠い。またその男の声質は若いように聞こえた。――そして、そのように男に促されてやっとユンファさんが口を開いた。
『…ぁ…、…はぁ、…そ、…ソンジュ…? ソンジュ……』
彼のこれはなまめかしいすすり泣くような小さな声だったが、しかし男の声よりも近いので、スマートフォンのスピーカーからはたしかに聞こえてきた。ユンファさんはやはり明らかに、誰とも知れない男とセックスをしながら俺に電話をかけてきたらしかった。
『ん…、そん、…ソンジュ…、…ソンジュ……』
「……、…」
ユンファさんはくり返しくり返し、そのすすり泣くような切ない声で俺の名を呼んだ。
……ぎゅっと苦しいほど胸を締めつけられた俺は、その呼びかけに応じる前に眉をひそめた。俺以外の誰かに抱かれている、それも俺を追い返したくせに、…と嫉妬したというのももちろんあったが、――「ソンジュ…」と俺の名を呼んだ彼のその声は、例の「可愛い顔」をしながら俺の名を呼ぶときのそれだった。
まるでユンファさんが俺の愛を乞うように「ソンジュ…」と俺を呼ぶときのあの声、俺の脳裏にはまざまざとユンファさんのあの泣きだしそうな顔が浮かんできた。
「……だ、大丈夫ですか…?」
しかしそれにしても状況がまるでわからない俺は、こう聞いてみるのが精一杯であった。ユンファさんは例の危険な男のことを「おじさん」と言っていたので、おそらく今セックスをしている男がその人物である、ということはなさそうである。
……といってセックス中に電話をかけてくる、というその行動が正常なそれかと言われたならもちろん違う。――ともすればユンファさんは俺に助けを求めるために、…などと考えたところで、
『…ぁ…っ♡ あっあぁ…♡ んぅ、♡ そっソンジュ、♡ あっ…♡ あぅ、あぁ…っ♡ あ、♡ あ…っそ、♡ ソンジュ、ソンジュ、…』
とユンファさんが突然甘い声を発しはじめた。
しかし先ほどから聞こえてくる絶え間ないギ、ギ、ギ、ギ、ギ、というベッドのきしむ音には、何ら激しくなった風の変化はない、…何にしても彼のそのなまめかしい声に気を飲まれた俺は、――呑気 にも少々情欲を立ちのぼらせながらも――、
「……、…ぇ、…ええ…?」
などとひとまずは応じつつ、…いや、と考える。
彼とセックスをしているらしい男は先ほど「ちゃんと言ってやらないと」と彼をそそのかしていた、…というのはまあ俺の嫉妬による邪推 としても、…何かしら俺への用件を切り出すことを彼に促していた。――とするとこれは「SOS」ではないか、いや、脅されている可能性もあるか、……
『……あ…っ、っそ、ソンジュ、ご、…ごめ…』
とそこで、ユンファさんが泣きだしそうな震えた声で俺に何かしら謝りかけたが、彼とセックスしているのだろう男が『ユンファさん。』と、彼を咎 めるような低い声でその人の名前を呼ぶ。
『……ん…ごめん…、…』
「……、…」
この「ごめん」は俺ではなく男に向けられたものだろうが、やけにしおらしい弱々しい声だった。そしてユンファさんはこうようやっと俺に話を切り出したが、
『ぁ…あのね…ソンジュ、僕…』
「ユンファさん…? 本当に大丈夫ですか…?」
しかし俺は遮った。やはりユンファさんが男に脅されているような気がしたのである。
するとユンファさんは嬉しそうに上ずった鼻声で、
『うん…、へへ……うん、大丈夫だよ、…』
と笑っているような泣いているような調子で言った。
『…そ、それで……ぁ…あのねソンジュ、僕、…』
「…ええ…」
しかし俺は依然としてユンファさんのいう「大丈夫」には半信半疑であったが――さらに彼は言いにくそうな小さな声で、
『い、今、…か……彼 氏 と、…セックスしてる、…んだ……』
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