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57 ※モブユン

                      『い、今、…か……()()と、…セックスしてる、…んだ……』     「……、…」    俺は唖然(あぜん)とした。端的にいえばショックだった。  ――硬直した俺が耳にあてがったままのスマートフォンからは、さらにユンファさんのすすり泣いているような、しかし無理やりに笑っているような、どうも取り繕っているとしか聞こえない明るげな声がこう言うのが聞こえた。   『昨日、……心配して…家に、来てくれて…、それで……――つ…付き合う、ことになった……』   「…………」    俺は黙っていた。  なんと答えればよいのかもわからない。――しかし少なくともユンファさんに、そしてその人の彼氏だとかいう男に侮辱されていることはよくわかる。  ……同じ行動をした俺のことは迷惑そうに「もう帰れ」と拒んだくせに、俺のことは追い返したくせに、俺が何度「恋人になって」といっても首を縦に振らなかったくせに、……他の男であればそうやすやすと心を許し、招き入れ、まさか交際にさえ応じたというのか。    かててくわえて、その付き合いたての彼氏とやらとイチャイチャセックスをしているさなか、自分を想っている男の俺に電話をかけて、あたかも二人の馬鹿みたいな熱い愛を俺に当てつける――?    さすがに許せない。  もう言葉もないよ。俺のことを馬鹿にしすぎだ。   『…だ、…だから……もう、…』   「…………」   『…………』    俺が何も答えなかったせいだろうか、ユンファさんがそこで黙る。ギ、ギ、ギ、ギ、ギ、と耳障りなベッドスプリングの悲鳴ばかりが聞こえてくる。俺は(しゃく)であったのでこの沈黙をやぶらない。  しかし見かねたらしい男が『早く言ってくださいよ。言いやすいように止まってあげるから』と言うと、その通りベッドスプリングの音がやんだ。――するとさすがにもう言うほかにはない状況にまで追いやられたユンファさんは、ややあってから、か細い声ながらも精いっぱい声を明るませてこう言った。     『……だ…だから、僕、彼氏…出来たから…、……っもう、もう…――、……もう、…君に…好きだとか、言われても、…付き合ったり、とかは…で、出来ない……』      ところが――どうもユンファさんと男とのあいだで事前に取り決められていた俺への用件というのは、彼の言ったこれではなかったらしいのである。  男は彼が勇気を振りしぼって言ったかのようなそのセリフを聞いてもなお、…むしろそれをふっと鼻で笑うと、彼を侮蔑(ぶべつ)しているような笑いを含ませた声でこう言った。   『ねえユンファさん、違うでしょ? どんだけバカなの。』    彼は『ごめん…』とまた男へしおらしく謝る。  ――その実俺はさすがにユンファさんに呆れていたし、男とその人のどちらにも憤りを感じてはいた。  何なら彼らの俺への当てつけたるこの侮辱行為にはほとほと呆れ返り、要するに彼が言いたいのだろう「もう終わりして」というのに、「わかりました、さようなら」と彼のお望みどおりその決別に応じようとさえ考えていた。  ……しかし惚れた美男子へのせめてもの情けに、俺は呆れと怒りから低い声ながらも、   「…ねえユンファさん、本当にそんな男でいいんですか。」    と最後に彼のことを心配してやった。  すると彼はほとんど吐息のような声で「うん…」と答えたが、……とはいえ、明らかに彼を幸せにしてくれるような「彼氏」ではなさそうである。   「本当に? だって今も貴方のことを馬鹿にして…」   『っもう…だ、だから……もう……』    とユンファさんが慌てたように俺の心配を遮ったので、俺は「ええ」ともはや恬淡(てんたん)な声で相づちをうつ。   『あ……、……』   「…………」    しかしユンファさんは「あ」と言ったきり絶句した。   「…………」   『……、…』    黙り込んでいるユンファさんの、ず、すず、と鼻をすすっているような水っぽい音が聞こえてくる。   『…、……』   「何です?」    しびれを切らした俺がその先を要求すると、…苛立(いらだ)たしそうに急かされたことで覚悟が決まったか――ユンファさんはすーっと息を吸い込み、泣き笑いしているような声でやっとこう言った。 『…あ、あのねソンジュ…――』   「ええ。」       『――君は、幸せになってね……、はは……』         「……、…」    さて俺は――ユンファさんのこのセリフを聞いたなり、早速心変わりを起こした。  ……「君は」? あたかも「自分はどうでもいい、君だけは幸せになって」とでも言いたげな彼のそのセリフには、所詮一時的な憤りに惑わされていただけの俺の愛、この美男子への俺の熱愛はたちまち蘇り、俺ははたと冷静になった。  そうか。…ユンファさんは俺を愛しているからこそ、(本当かどうかはわからないが)俺以外の男と付き合い、そしてわざわざセックス中に俺に電話をかけた。思えば「昨日心配して家に来てくれた、(嬉しかったので)付き合うことになった」というのだって、明らかに俺の怒りを誘うための意図的な起爆剤であったと思われる。    要するにユンファさんは、これで完全に俺に嫌われようと――俺をすっかり諦めさせようとしているのであろう。  ……おそらくは、とても自分なんかと付き合ったって俺は幸せにはなれない、とでも彼が考えているからである。   『……だから…もう、会えないから、…』    と彼はやっと「本当に言うべきこと」――おそらくは彼氏とやらと事前に取り決めていた用件、俺に本当に言わなければならなかった言葉――を言えた。  ……そもそも本当に俺に気がないのならばさっさとこれを言えばよかったものを、ユンファさんは随分とためらってためらって、何なら思いきってもはじめは「付き合ってと言われてももう無理だからね」ぐらいのことしか言えないでいたのである。  これで俺と会えなくなる――ということが、本当はユンファさんも辛いからだ。   『ごめん……』   「いいえ。俺、絶対に貴方を諦めませんから。」    俺はユンファさんへの自分の愛に毅然(きぜん)としたものを取り戻していた。  愛する美男子の自分への恋心をみとめておいて、まさか諦められるはずがない、というのがもちろん一番に大きいが――しかし、どのみちこのような馬鹿で傲慢(ごうまん)な彼氏では、俺の愛する美男子を幸せにできるはずもない。  ……まあ確かにある意味ではユンファさんは馬鹿だ。どうやら男の見る目もない。    やっぱりユンファさんを幸せにするのは俺だ。俺しかいない。    しかし俺の「諦めない」という宣言にもユンファさんはすすり泣きながら、『ごめんね』とくり返し、   『…僕最低だよね、もう忘れて、…じゃあね…』    と、また一方的に通話を切った。――        そうした出来事が起こってからさらに数日後、そう、ユンファさんからはこのメッセージが俺のスマートフォンに届いたのである。   『あの時コート忘れただろ。それだけ渡しに行く。いつ空いてる』と。    俺がこのメッセージに欣幸(きんこう)を感じたのには無理もなかった。  ……いくら俺が「絶対に諦めない」と宣言していたところで、ユンファさんが俺に別れを告げたということには変わりがない。――むしろ自分から別れを告げたセフレの私物など、俺であっても捨ててしまうかもわからないものを、彼は律儀なのか何なのか、……あるいは結局はやっぱり俺に会いたくなったのか、それを返しに俺のもとへ来てくれる、……俺に会ってくれるというのである。    ちなみにだが――「捨てられてしまうかも(本当にもうこれで彼は俺とは会ってくれないかも)」と不安がっていた俺がなぜその期間彼に連絡をしなかったかというと、…実はシンプルに、仕事のほうで忙しくしていたためである。――すると結果としては、あの日から一週間ユンファさんの家に泊まり込まずしてよかったともいえるのだが、――俺はあの日に帰宅してすぐ、世話になっている編集部の担当からある連絡を受けた。    それはコラム執筆の依頼であった。  毎月三日に発刊される女性向け雑誌のコラム、それの内容は、読者からの恋愛相談にもとづいて俺の恋愛に関する持論を展開する、というようなものである。なおその恋愛相談というのには、ちょっと踏みこんだ性にまつわる内容も含まれている(例えばセックスレスや避妊についてなどだ)。  ……俺は作家といっても、たとえばミステリー作家だとか何だとかというような、これという一つのジャンルにこだわらず、気のおもむくままにさまざまなジャンルの作品を執筆してきた小説家である。そして俺が(えが)いてきた作品の中にはラブストーリーも多くあった。    なおかつこの頃、ちょうど俺の執筆したロマンス作品が女性を中心に大ヒットしていた。  ……ちなみに、それは俺のユンファさんへの恋心をインスピレーションにして描いた作品であったので、主人公はどちらも美貌のアルファ男性とオメガ男性の二人だったのだが、(彼に恋する男の俺が書いたばかりに、かなり美辞(びじ)麗句(れいく)で飾りたてた作品だったからか)どうもあれは女性の心を掴むには十分な内容であったらしい。彼からの思いがけない恩恵を受けた格好である。    ――しかし、俺にはこの仕事を受けるか否かにおいて「ある懸念」があった。    そもそも俺が作家人生を歩むことになった契機というのは、およそ女性受けより男性受けからはじまったことであったのである。  というのも、俺はほとんど生まれつきの「獰猛(どうもう)(きば)」をもっているわけだが、俺のその欲望とはおそらく世の人にとっては「悪」と見なされるものであったために、俺は大学一年生の頃、自分のその欲望をありのまま発散したSM小説をネットにアップした。なおそれは欲望の発散につけ加えて「確証」を得るためでもあった。  そしてそれの内容というのは――もちろんユンファさんと出逢う前に書いていたものではあるが――、あるオメガ属の美男子を監禁した主人公の男が、その美男子を思うまま調教し、美男子の身も心も自分の言いなりになるように服従させる、というようなインモラルかつエロティックな内容である(なお俺がこれを書くにあたり自分の両親の「秘密」にインスピレーションを受けたとは言うまでもないことだが、…さすがにその作品が俺の自著であることはいまだに彼らには伏せている)。    そしてこれというのは、まずSMに関心のあるゲイ男性に受けた。俺が端から「ゲイのSM」を描いたものだと公言していたためである。  しかし、そのうちに調教をされる人物が美貌のオメガ属男性であることから、特にゲイやらバイではない男性にも受けはじめた。膣をもつオメガ属男性は一定数の男に「男性」というよりかは「女性」に近しい印象をもたれがちである。また世の中には「オメガ属男性」自体がフェティシズムである男もそれなりに存在している。  ……また男性諸氏ほどおおっぴらではないにせよ、こっそりと俺のそのSM作品を読んでくれている女性たちもいるようだった。――というのも、男性はコメントをくれたりブックマークをしてくれたりとわりかしおおっぴらに応援してくれていたのだが、投稿サイトの読者データを見たところ、俺は(内容が内容なのではばかられたのだろう)ブックマークなどはしないまま、しかし継続して読んでくれている女性たちの存在にも気がついたのである。    ちなみに俺は、まさか小説家になろうと思ってそれをネットに公開したわけではなかった。  そもそも俺は、ひと際性欲のたかまる高校生の頃からその小説を書いていた――もとよりゲイであった俺は、同年代の少年たちの肉体に耐えきれぬ情欲を抱えて夜な夜な身もだえていた――のだが、当然高校生がそういったエロティックな小説というのを世間に公表することは許されない。  ……よって、俺はそれが許される十八歳になったならこの小説をネットにあげてみようか、と考えていたのだ――そして俺のこの欲望というのは本当に「世間的な悪」なのかどうかを確かめてみたかったのだ――が、……受験をひかえた十八歳の高校三年生にそうした余裕などあるはずもなく、その結果として、それの公開は俺が大学に進学したのちのこととなったのである。  もう一つちなみにだが、俺の「獰猛な牙」に対する世間の判定は「悪」であった(当たり前ではあるが)。  フィクション、創作物、嗜好品としてはSMの嗜好をもつ人々には受け入れられたが、――人気作品となった俺のそのSM小説が、出版社からのオファーによって一冊の官能小説として出版されるにいたったのち、それの存在を目にする人々が爆発的にふえたことをきっかけにして、俺は現実と創作とを混同した人々からあらゆる批判を受けた。……いや、実際創作物であるからといって何を描いても許される、という考えこそは創作者のおごり高ぶりに違いないが。    ましてや何より、誰よりも俺こそが創作物と現実とを混同していたのだから――であるからこそその小説を公表して、世間的には本当に悪なのかどうかの真偽を確かめようとしていたのだから――、ともすれば、そのようなまだ夢と現実の区別もついていない子どもの気配が、俺の書いた文章にもにじみ出ていたのかもしれない。  ……そうして俺はなるほどこれというのは、――それを実行した結果「幸せになった例」というのがあまりにも身近に存在してはいるが――それをして許されるパートナーが現れるなど奇跡が起こらない限りは、まさか現実では決して実行してはならない欲望なのだなと、そうして自分の牙に廉恥心(れんちしん)を覚えるようになった。    といって俺がSMという性的嗜好を捨てられたわけでもなく、のちのちになって(マゾ)男遊びに興じるようにもなったし(もちろん俺の欲望の根幹たるところまでは実行していないが)、かえって実際のプレイにもまた創作意欲を掻き立てられて、と俺はいまだにSM小説を執筆しては世の中に発表している――といってもユンファさんをしか抱かなくなったこ近ごろは妄想かAVかに刺激を受けながら、ではあるが――。    これら行為はたしかに世の中には「悪」と見なされるべきことかもわからないが、しかしこの「牙」の疼きを最小限にまで鎮めるためには必要悪とでもいうべきか、少なくとも俺はそうした発散の手立てなしには、表向きだけでもまともな人として生きてゆける気がしない。    とまれかくまれ、俺はそうしてひょんなことをきっかけに作家デビューを果たした…――わけだが、官能小説というのはこみ上げてくる熱情なしに書いてもつまらないものであるため、俺は官能小説を書き続けるに疲れてそれが枯渇したとき、何の気なしに他ジャンルの執筆にも手を出してみた。――すると案外それらも世間受けがよかったもので、そうして今俺は二つのペンネームを使い分けつついずれにしても小説家としての成功をおさめている、というわけである。    しかし――俺のようなのが女性向け雑誌の、恋愛相談のコラムを書く?    いくらペンネームは使い分けているとはいえ、ちょっとネット検索をしただけで、俺のその二つのペンネームはいともたやすく紐帯(ちゅうたい)に至るというのに――何ならそれとこれとはほぼ一致しているような認識を世の人にもたれているというのに――俺のような過激なSM小説をも楽しく執筆している小説家が、愛だとか恋だとかに対しての綺麗事を抜かして女性たちの失笑を買わないものだろうか?    俺にはそういった懸念もあったのだが、どうもこの案件において俺が求められているのにはおおまかに二つの理由があって、まず一つには、女性を中心に大ヒットしたかのラブストーリーの作者であること――それから、俺が世の中で「イケメン・エリート・金満家」とのイメージが強い若いアルファ男であること(俺はデビュー時に作品の販促のため出版社の指示で属性別を明かしている)――、とその二つの理由から、まず俺が書くコラムの女性受けは間違いない。  …とのことで、また俺の書く官能小説はすべてが男同士のSMものであるために――また別ペンネームで書いている男女の恋愛ものにはSMを持ち込まないために――、女性たちはそれの内容がSMとはいえども、女性である自身への加害性はない男、として俺というゲイ作家のことをなかば安堵まじりにも見ている。    まあさすがに清潔な、(さわ)やかな、という印象まではもたれていないにせよ――しかし俺が官能小説も書いている、というのが案外変態だの異常だのというマイナスイメージではなく(といっても印象など人によるだろうが)、むしろそういった過激な官能小説を書いている小説家の俺は、それのみならず「ゲイ=恋愛経験豊富(かつちょっと辛口で過激)」というイメージからも、恋愛相談においてもはばからず刺激的な、ちょっと過激な踏みこんだ回答をしてくれるのではないか、との期待も集まるだろうとのことだった。  ――まして女性は性にまつわることを表立って口に出すことこそ苦手な人は多いが、といってももちろん女性だって性に興味関心がない、なんてこともなく(俺が言うのもなんだがむしろそれは健全、当然のことである)、かえって一人で読める「読み物」であるからこそ、そういった刺激を求めているものなんだそうである。    ……といったわけで俺は、月刊の女性向け雑誌のコラムを執筆することになった――のだが、その打ち合わせやら初回の執筆やらに追われていたために、ユンファさんに自分のトレンチコートを捨てられてしまうかもしれない(ひいてはもう彼は俺とは会ってくれないかもしれない)、と不安にはなりつつも、その一週間のうちに彼に連絡をするだけの時間の余裕も気力もなかった。    しかし何ともタイミングがよいことに、ユンファさんは俺のその多忙があらかた落ちついてきた頃になって、ああした『トレンチコートを届けに行ってあげる(から予定を教えて)』というようなメッセージを俺に送ってきてくれたわけである。        そうしてあの日から一週間後の昼ごろ、ユンファさんは俺の家に訪ねてきた。                  

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