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「…今日は生でしよ。最後だから、記念に」
「……、……っ!」
俺は――俺の手をつかむユンファさんの手から、彼の下着のなかから、断固というほどの拒否の強い力で自分の手を引き抜いた。俺はそうして自分を戒 めたのである。
今己れの甚 だしい嫉妬の炎の檻 に囚 われている俺にとって、――全身を焦がしてくるようなそれのせいで今ほとんど捨 て鉢 な俺にとって、――彼のその「誘い」は俺の自滅をそそのかす劇毒 で違いなかった。
……間違いだとわかっている。自滅の道であるとわかっている。
しかし後悔の猛烈な痛みがすでにその道の数歩先に見えていたとて、今の俺ではユンファさんの何をも顧 みずに、ただ足もとに落ちている熟 れきって醜く崩れた果実のようなその劇毒、毒を食らわば皿まで、その己れの男の快楽だけを喰らおうという蛮行 さえやぶさかではない、というのが正直なところだった。
ユンファさんは「最後だから」と言ったが、俺のほうには端から「今日で最後」というつもりなど毛頭ない。かえってこれでスキン無しで彼を抱いてしまったなら、俺の「牙」はそれをある種の「許し」と勘違いをして、彼のことをこのままこの寝室という檻に捕らえ――そして俺はあの「破壊的な妄想」を、現実にしてしまうことだろう。
だから――俺はその危険な道から目を逸らした。
ユンファさんは今オメガ排卵期が明けてすぐの体である。まだ彼の子宮内には排出された卵子が残っているかもしれない。いや、きっと彼も避妊薬は飲んでいることだろう。それでも…――それでも俺は、…それでもユンファさんのことをどうでもいい、彼がどうなってもいい、彼が不幸になろうがどうなろうが知ったことではない、などとはとても思えない。
いや、俺はそれでも――。
それでも俺は、ユンファさんに愛されたいのである。
……ユンファさんは俺が強い力で自分の下着のなかから手を引き抜くと、何かしら慌てたようにこう言いつのってくる。
「…ねえ萎えた…? ごめん面倒臭いこと言って、…違う、別にそういう湿っぽいことじゃなくて、本当に記念にと思っただけだ、…何があっても責任なんか取らなくていいし、…というかそもそももうこれっきり会わないんだから、…だから最後くらい、生で……」
「最後ですって…?」
俺は目を伏せ、ユンファさんを見ないままに眉をひそめる。
「勝手に“最後”になんかしないで。俺はこれからも貴方に会いたい。…貴方に彼氏が出来ようが何だろうが関係ない。…俺は貴方を愛している。――それでも、これからも貴方だけを愛している、ユンファ。――俺は言ったでしょう、絶対に貴方を諦めないと。」
「……、…」
ユンファさんは何も言わない。
彼のそれに若干の苛立ちを覚えた俺は、彼をなかばなじるつもりでその人の顔を見た。――年下というのを彼に感じさせない、余裕のある男ぶりを今に彼に見せつけてやろうなどと決めていたくせに――子どもっぽく、俺はまともに彼のことを睨みつけたのである。
「……、…――。」
しかし俺は何も言えやしなかった。
――やや横を向いて顎を引いているユンファさんの悲しげな無表情、その伏し目は、その伏せられた黒い長いまつ毛は、彼のこめかみは、涙で濡れている。
彼は顔をしかめるでもなく、また嗚咽をするでもなく、ただ静かに涙を流していた。それでいて彼の両頬はあえかな幸福がただようように紅潮している。
息をのむほどに美しかった。
――しかし、ユンファさんのその純然たる透明な涙は、かえって身勝手にも彼の愛を欲してばかりの俺をなじるようだった。
「……はは…、敵 わないな…、……」
俺はそう苦笑いをこぼして、下向きに垂れていた金の前髪をかき上げたのち、その前髪を掴んで、こみ上げてくる悲しみにこわばる目をぎゅっとつむった。
「…もう、帰ってもいいですよ…、……」
俺のこの声は震え、やや上ずって濡れていた。
このままでは本当に、俺はユンファさんのことをこんな薄暗い牢獄に閉じこめてしまうかもしれない。彼は綺麗だった。綺麗だ、本当に…――それだからこそ欲しくて欲しくてたまらない。
しかし俺がこう言えたのも、むしろ彼のことをそれだけ愛しているからでもあった。ユンファさんの幸せとは何だろう。――もし俺と離れることが彼の幸せだというのなら、俺は彼と離れるべきなんだろう。
「……、…、…」
俺にまだその覚悟はない。
しかし……「一途」と耳触りを良くして、ただ押し通すだけが――押し付けるだけが――愛ではない。わかっていたつもりだったが、俺はわかってなどいなかった。
ユンファさんは感情の読み取れない、かすれた声でこう言う。
「…むしろ…帰りたくない……」
「……、…」
はたと俺は目を開けてユンファさんを見下ろした。彼は斜に顎を引いたまま、涙に濡れた目を伏せたままだったが、その美しい赤い肉厚な唇の端をわずかに上げていた。
そして彼の艶のある赤い唇は、声もなくこう小さく動いた。
――『君だけのものになれたらいいのにな』
きっとユンファさんのその微笑している赤い唇はこう呟いた。
「……、ねえ、声に出して言っ…」
しかし俺のこの言葉を拒むように、ユンファさんは上へ――俺のほうへ――顔を向けた。そして彼は俺の目を、その涙に濡れた群青の瞳で見つめながらよりたしかに微笑する。
「これからもセフレでいいなら、また会ってやるけど」
「……、…」
――俺と離れることがユンファさんの幸せ、かもしれない?
とんでもない。
……俺は自分の先ほどの考えをもう否定した。
そして次にはこう冷ややかな眼差しを彼の微笑に向けていた。
「…ねえ、彼氏がいるのに…貴方はそんなことを言ってしまって、本当にいいの…?」
「……、…」
ユンファさんは微笑したままコクと小さく頷いた。
しかし俺はふると厳しい感情をもって小さく首を横に振る。
「…いいわけないでしょう。――正直なところ、ユンファさんは俺にどうしてほしいんです。」
俺は責めるような低い声であらためて彼の意思を確かめた。するとユンファさんはうっとりと目を伏せ、うわ言のようにこう言った。
「とりあえず…今は…抱、かれたい…、早くソンジュに…抱かれたい…」
俺は彼のその返答を聞いたなり即座、
「じゃあ彼氏と別れて。」
とくり出した俺のこの押しつけるような低い声に、ユンファさんは消え入りそうな声で「え…?」と聞き返しながら、ふと目を上げて俺の目を見る。
俺は彼のその涙目を真剣に見つめる。
「…流石にこれで美人局だとか、浮気をしただとかのトラブルに巻き込まれるのも御免ですしね。――俺に抱かれたいと仰言られるのならば、今すぐに彼氏と別れて。」
するとユンファさんは俺の目を見たまま、「でも…」と表情を曇らせる。
「…絶対…そんなことには、絶対に巻き込まないから……」
「信じられません。俺だってこの場限りの口約束を信じ切れるほど馬鹿ではないんです。――それにね、人の彼氏に難癖をつける趣味なんか本来俺にはありませんけれど、…あの男じゃ貴方のことを幸せには出来ない。貴方のためにもあんなのとは別れるべきだ。」
「……、…、…」
ユンファさんは茫然としながらも何を言っているんだ、というような疑わしい反応をする。聞き取れなかったわけではない、そうわかってはいながらも、俺はより一そう声を固くして繰り返した。
「彼氏と別れてください。――正直あんなのと付き合うだなんて、…もう少しまともな男ならばまだしも、あ れ とじゃもはや自傷行為にすら近しいですよ。あんな貴方のことを何もわかっていないような馬鹿男なんかより、貴方は俺を選んだ方が絶対に幸せになれる。」
「……なあ、その自信はどこから…」
とユンファさんは呆れ顔になったが、俺は確信をもってさらにその堅固な自信を彼に示す。
「絶対に俺の方がユンファさんを幸せに出来る。俺と付き合ってください。」
すると、はぁ…とユンファさんが煩 わしげなため息をつきながら目を伏せる。
「……何で君は、こういうときに絶対だとか何だとかって言い切れるんだ…。…恋とか愛とかには特にね、絶対なんてもんは無 …」
「自 信 に 根 拠 な ん か 要 ら な い んです。」
俺はなかばユンファさんに凄むような眉目と態度で依然そう自信満々に言い切る。
「ましてやこの場合の俺の自信というのは、言い換えれば“信念”なんだ。だから先に“絶対”と言い切っておけばいいんです。…その後は足掻 いても藻掻 いても、意地でもその通りにするだけだ。――俺は絶対にユンファさんを幸せにするだけだ。――俺にはそういう固い決意と揺るぎない信念がある。だから“絶対の自信”があるんです。」
俺は「だから」となかば怒ったような強い調子でいう。
「もうあんな最低な男とは別れてください。」
「……、…」
俺のこの意固地なまでのセリフをぶつけられても、ユンファさんはいつものようにそれをせせら笑うでもなく、またムッとするでもなかった。――ただ困惑したように目を伏せ、彼はぼそりとこう言った。
「…まあ、わかった…。とりあえずもうあいつとは別れる…」
「……、……え。」
俺はなかば凄んでいたところから、その予想外な返答にとたんに気がゆるむ。
「ま、………マジで……?」
驚くほど、動揺するほどに嬉しい。俺にとってはとび上がるほど喜ばしいことだった。が、俺は案外あっさりとユンファさんが「もう(あの最低な彼氏とは)別れる」と言ったことに、かなり拍子抜けもしていた。――いくら全ては俺に向けられたユンファさんからの「威嚇」だろうと推察していたとはいえ、これには結構驚いた。
普通ついこの前に付き合ったばかりの彼氏と、そうやすやすと「別れる」だなんて言えるものだろうか?
ユンファさんが伏せたまぶたの下の紫の瞳を横へ寄せつつ、気まずそうな微妙な微笑を浮かべる。
「正直言うと…実はソンジュと縁を切るために付き合っただけだし…、一応ソンジュにはちょっとだけ情が湧いてしまったから、ここらへんできっぱり諦めさせた方が、君のためにもなるかと思って…――いや、まああの人と別れることには別れるが、ただ…」
「間違ってもセフレとしては関係を続けるだなんて…」
と、ともかく良心からユンファさんを叱るような俺のセリフ――いずれにしてもあんな男とはもう完全に縁を切ってほしい、という俺のお節介な心配――を、ユンファさんは目を伏せたまま「違うよ馬鹿」と困ったように笑ってさえぎる。
「ふ、…どこまで心配性なんだよ。というかあの人ちんこ小さいし、全然気持ちよくないからセフレとしても微妙。だからもうあの人とはさっぱり縁を切る。ただ…」
そこでユンファさんは俺を見ないままうんざりとした顔になる。
「…あの人と別れても、間違ってもソンジュと付き合うってことではないから。…やっぱり彼氏なんて面倒なだけだ…。というか別に…わざわざ彼氏だとか何だとかにならなくても、セックスだってキスだって何だって出来るだろ…? これからもそういうことは君が飽きるまで幾らでもさせてやるから、だからもう付き合ってとか何だとかって言うのだけはやめ…」
「じゃあいつデートしますか。」
「……、…はあ…?」
一拍固まり、そしてユンファさんはそう俺をじっとりとした半目で見やるが、俺はまるで長年俺のことを苦しめつづけてきた煩憂 の雨雲が今にすべて晴れたというほど清々しい気分でこう言った。
「だってもうユンファさんは事実上フリーでしょう。しかも今の口ぶりなら、結局のところは俺と縁を切るおつもりでもない、と。…ということで――何ならこのあとのご予定は?」
と小首をかしげた俺を、ユンファさんがじっとりと睨みあげる。
「いやデートなんかするか。なあ君、僕の話をちゃんと…」
「予定は無いんですね。そうだな…」
あきらかにデートプランを思案するために目を伏せた俺に、ユンファさんが慌てながら拒む強い調子でこう言う。
「あ、…有るよ。予定、…くらい、…僕これでも忙しいんだからな、…セックスしないならもう帰 …」
「では何時からどのようなご予定が?」
つと俺が目を向けた先、ユンファさんのその赤い唇の端がとっさの嘘をつけずにひくついて迷っている。
「……、…、…ぃ、……」
「無い。なるほど…そうですね、うーん……」
と俺は自分の右手首の腕時計で時間を確認した。
――十二時五十三分、…なるほど夕方までにはそれなりに時間がある。
俺はユンファさんに屈託なく微笑みかけた。
「…まさかこうなるとは思っていなかったものですから、すみません、きちんとしたデートプランはないんですが…、まあひとまずは出かけましょうか。…お互いの気の向くままに立ち寄りたいところへ立ち寄るデート、というのもなかなか乙なものでしょう。」
するとユンファさんが眉をひそめる。
「…いや、いやだからデートなんかしな、…」
「俺とデートをしてくださらないなら死んでやる。」
などと俺がユンファさんに優しく微笑みかけると、…彼はあんぐりと口を開けたまま固まった。
「……、…、…」
「さ、出掛けましょうか…――?」
俺は悠々とベッドの上から降り立った。
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