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俺がユンファさんの肩を抱いて歩き、向かっていたのはこの街の歩道の途中にある、小さいタクシー乗り場であった。
少々早めの夕飯時がすぎた頃の――帰宅する人々の少なくなった――人気 のないそこには、タクシーの車両が二台縦列 駐車されており、俺とユンファさんはそのうちの一台に乗りこんだ。
なお俺がタクシーの運転手に言いつけた行き先は、無論ユンファさんの自宅マンションである。ここからならそこまで四、五十分はかかるだろうか。――しかし、後部座席の俺の隣に座った彼はそれに対して文句を言うことはなく、また行き先を訂正することもしなかった。
……ああしてユンファさんに「ホテルに行こう」と誘われた俺であったが、
〝『いや、貴方が俺と正式に恋人になってくださるまで、俺は絶対に貴方のことを抱かないと言ったじゃないですか? これでも俺、本気で好きな人に対してばかりは非常に堅実な男なんです…――それこそ貴方と真剣交際が出来るまでは、どこまでもプラトニックなデートをするのでさえ吝 かではない。』〟
だなんぞと彼に微笑みかけた。
するとユンファさんは呆れたように、くるりとその薄紫色の瞳を上半周回しながら、はーー…とため息をつき――そしてそのままそっぽを向いて目を伏せ、それきりその件に関しては何も言わなかった。
しかし…――。
……ユンファさんの自宅マンションに向かって静かに走っているタクシーの車内、その後部座席にならんで座っている俺たちは、それこそ先ほど、二人でならび歩いていたときは沈黙をしても数十秒かそこらであったが、今は何かふしぎと長く沈黙していた。
「…………」
「…………」
それは運転席でこのタクシーを動かしている中年の男性が、親密な二人のほかに同じ空間――それも車内という少々せまい密室――にいるためである。その運転手の存在にある種の気まずい制約を感じているのである。
……しかし俺は前を見たり、窓外の流れる夜の都会の街を眺めたりしながらも、乗車してからずっとユンファさんの片手を上からやさしく握っていた。
「…………」
「…………」
そして俺が窓の外――暗い灰色の夜空の下に隙間なく建ち並ぶ派手なネオンの光をはなつビル、そのビルに取り付けられた、下劣なほど色とりどりのネオンの輝きを放つ居酒屋やキャバクラ、キャバレー、ホストクラブ、ハプニングバー、ラブホテルなどの看板と、そのビルの下の歩道ににぎわう夜を満喫するスーツ、呼び込みの黒いロングダウンコート、少々淫靡 に着飾った女の勝負服――そのある種異様な、独特な妖しさを帯びたまばゆさを、およそ他人事の目でぼんやりと眺めていたとき、
「……ソンジュ」
とふいに冷静な低声 で俺の名を呼んだユンファさんへ、俺は「はい」と応えながらふっと顔を向ける。と――彼のふっくらとした唇に、にわかに唇をふさがれた。
「ん…、……」
目をつむって俺の唇を、そのボリューミィなやわらかい唇ではさみ、揉んでくるユンファさんは、…それも俺の黒スラックスの股間をさわ…さわと優しくも、エロチックな手つきで撫でてくるのである。
なるほど、ユンファさんはやはりまだ諦めていなかったようだ。まして、運転手がすぐそこにいるというのに、股間をまさぐりながらキスをしてくるだなんて…――興奮し、また嬉しくなった俺はニヤリ――彼の片頬に手のひらをそえ、やや頭を傾けながら、その人の豊満な唇を食みかえす。
そうしてしばらくお互いに、もはや運転手のことなど気にも留めず、時おりちゅぷ…ちゅ…などという音を立てても何らはばからないで、夢中で唇をはみ合っていたが……ややあって、いよいよユンファさんの舌が俺の口内へ入ってこようとする。――俺の舌はその侵入を身を挺 してふせぐように、彼の力んだ舌先を、舌先で押し返すように舐めてそこに押しとどめる。
「……ん、♡」
すると俺たちの舌先は攻防の押し合いとなるが、…いや、そうした挺身 など所詮 見かけだけのことである。
俺はかえって、唇と唇のあいだでユンファさんのその舌をこちらへ引きよせ、ちゅうと唇で吸いついてやった。…そのまま唇でその舌を追いかけ、吸いつき、何度もにゅる…にゅる、としごいてやる。
すると力なく、ぬるん…と引いていった彼の舌、そっと離れていった彼の濡れた唇…――切なくも恍惚とゆるんだ半目開きで至近距離、俺の目を潤沢な紫の瞳で見つめてくるユンファさんは、俺の濡れた唇にこうささやきかけてくる。
「キスしたら勃起してきた…」
「はは…そうですか。」
「…ソンジュだって勃起してる癖に……」
彼は少し可愛らしく拗 ねたようにそう言いながら、俺の「仰る通りの」股間を撫で回してくる。
そしてユンファさんは甘えるような切ない目つきで俺の目をじっと見つめながら、また今にもキスの再開を思わせる――それによって俺を誘惑している――距離に唇を寄せたまま、か細い色っぽい声でこう聞いてくる。
「僕が欲しくないの……?」
「…んふ…欲しい。」
俺はうっとりと彼のその妖しい光沢のある紫の瞳に見惚れながら、さらにこう小声でつづける。
「欲しいよ…、欲しくて欲しくて堪 らない…。俺はユンファさんの全てが欲しい…――貴方の身も心も、魂をまで…――だから。」
しかし途端に俺は、そこで声をわざわざ晴れ間のように明るませ、顔を離した。そして座席の背もたれに背をあずける。
「だから、ユンファさんが俺と付き合ってくださるまで、俺は絶対に貴方を抱きません。あはは…」
「……、…」
ユンファさんはいささかムッとした。それからふと目を伏せ、彼も背を正した。
「…でも…それじゃ君、損をするだけじゃないか…」
「損…?」
俺は「ふふ…」とやわらかな含み笑いをこぼす。
「損ですって? 今日俺は、貴方とデートが出来て得しかしていませんよ。――とても楽しかった。…ユンファさんのお蔭 でいいお店も知れましたしね…――あのお店、また二人で行きましょう。今日は本当にありがとう。」
するとユンファさんは目を伏せたまま小声でこう言う。
「…ソンジュとはもう行かないよ…――何ならもう、お前とはホテルか家にしか行かないから。」
俺は「そうですか?」と笑ったまま目を大きくした。
「じゃあ次は高級ホテルにお泊まりデートか、お家デートでもしましょうか。――いや、いっそ旅行でもします? ああですが勿論、プ ラ ト ニ ッ ク な 。」
「……チッ…っはぁーー…、……」
するとユンファさんは、あからさまに眉をひそめながら舌打ち、そして不機嫌なため息をまでつき、ぷいっと車窓へ顔を向けた。
それきり彼はこの件に関してはもう何も言わなかった。――そして目的地である彼の家に到着するまで、俺は彼の手をやさしく握ったまま、ほとんど一人で次のデートのプランをしゃべり倒していたのだった。
×××
俺たちの乗っていたタクシーは、ユンファさんの自宅マンションの下に着いた。
俺は運転手に少しそこで待っていてくれるよう言いつけ――そのまま自分も家に帰るためである――、マンションの出入り口前、彼から受けとったトレンチコートを片腕にかけたまま――いまだムッとしているユンファさんのことを、正面からぎゅっと抱きしめた。
「……、…」
「改めて、今日は本当にありがとう。」
……俺は「それじゃあ…」と言いながら離れようとした。――いや、「また…」とつづけながら離れられはしたのだが、…少し惜しいことをした。
すっと引いた俺の黒ベストの背中に、ユンファさんの両手が撫でるように触れた感覚があったのである。――彼は俺のことを抱きしめ返そうか否か、逡巡 していたのかもしれなかった。
ユンファさんはその長い黒いまつ毛を伏せていた。
生白い痩せた頬をほんのりとうす桃色に染め、はぁ…とあわいため息をその赤い肉厚な唇からこぼした。
「ほんとに家、上がっていかないの……」
「…うん…。はは、…寂しい?」
「違う…」
とユンファさんがその黒い美しい眉をひそめ、顎を引いてうつむく。
「また連絡しますね。」
「…もう連絡してくんな」
「…いえまた連絡しますよ。絶対に。…俺はユンファさんが欲しいから。――こんなに誰かがどうしても欲しいと思ったのは、初めてのことなんです。……」
俺はふたたびユンファさんをそっと抱きしめた。
なお俺のその言葉には嘘はなかった。単なる口説き文句ではない。――俺は事実誰かを愛してもすぐに飽きた。そもそも誰もが俺にここまで追いかけさせてはくれなかったのである。
俺がちょっと追いかけてみようかと臨戦態勢になると、人はみなすぐさま腹を出してしっぽを振り、俺に媚びた。まあそれだって一応は欲した相手であるから俺は喰 らうのだが、従順な犬相手であるとだんだん面白くなくなってゆく。――だから事実なのである。
初めからこれまで、ここまでどうしても欲しいと俺に思わせた人は、本当にユンファさんが初めてであった。
――だが、彼は今度は俺の背中に両手をそえてはきたものの、「嘘吐 くなよ…」と俺の耳もとで拗ねたような小声で言った。
「ヤリチンじゃなきゃあんなデート出来ないだろ…。ああいうクサいデート、他の誰かとも馬鹿みたいな回数してきたんだろ、君…――どうせそういうウザいセリフだって、誰にでも…」
「んふふ…嫉妬しているの…?」
「っ違う、僕はただ、……」
しかしユンファさんはそこで、俺がぎゅっと強く抱きしめると絶句した。
「…ドキドキしている癖に……」
俺のアルファ属の並外れた聴力は、彼のときめいた鼓動の速さを聴きとっていた。
「…貴方っていつも素直じゃないんですよ、本当…――大人しく…早く俺だけのものになってしまえばいいのにね…――また俺と…デート、してくださいね……」
「……、…」
ユンファさんは『うん…』と答えたのだ。
しかしそれはおよそアルファ属でなければ聞き取れやしない、声というよりかは限りなく静かな鼻息のような返事であった。――このときほど、自分がアルファに生まれたことを恵まれている、と思った瞬間もない。…そうでなければ俺は、彼のその俺にとっては奇跡にも近しい喜ばしい返事を、それとは気が付かず、あわや聞きのがしていたのである。
「ははっ、嬉しいな、…本当に?」
俺はユンファさんを抱きしめたまま、気持ちのままそう声を明るくした。しかしまあいつも通り、ユンファさんは不機嫌そうにこう俺に釘を刺してきたのだが。
「…勘違いして浮かれるなこの馬鹿犬。…ただ面白いからってだけだ。――ソンジュがどこまで僕のこと追い掛け続けられるか、どこまで我慢出来るのか、…お前みたいな、傲慢 でプライドの高い男が根負けして諦める瞬間を見てみたいってだけだよ。――せっかくだし、ソンジュのしょぼくれた負け犬姿を見て清々 してから縁切ってやろうかと思って。暇潰しに。」
「…そう。ふふ…まあそんな姿、俺がユンファさんにお見せするようなことはないでしょうけれど…――何にしてもありがとう。…貴方今はっきり言いましたからね、俺とまたデートをしてくれる、と。――それもその言い方では、つまり〝俺が諦めるまで〟デートをしてくれる…ということですよね。…それは思ってもみない嬉しいご返答でした。……」
さて俺はユンファさんからするりと離れた。
「ち、違う、もちろん僕が飽きたらデートなん…」
そして彼の文句を言う赤い唇に、やさしくふに、と唇を押しつけた。――それから困惑した表情のユンファさんに微笑みかけ、
「今のご自分のお言葉、どうぞくれぐれもお忘れなく。言質 にしますからね。――それでは、また近い内にお会いしましょう。…愛しています、ユンファ…――おやすみなさい。」
「……、…」
結局はやはり少し寂しそうな目をして俺を見てくるユンファさんに、当然名残惜しさはあったが――ここはいさぎよく踵 をかえし、待たせているタクシーへむけて悠然と歩き出した。
そうして…――。
ユンファさんは結局、俺との「〝健全な合歓 〟し か な い デート」に幾度も付き合ってくれた。
彼はそのようなデートのなかでも、しばしば俺のことを魅惑的な艶態 で共寝に誘ったが、俺は言い方こそ優しくともそれを固辞しつづけた。
するとユンファさんはそうして誘ってくる上でも、次第に俺が梃子 でも動かないことを察してくると、誘うにしてもデートをするにしても、だんだん面白半分の態度ともなっていった。――すなわち「いつまで我慢出来るかな」だとか、「いつまで追い掛け続けられるかな」だとか、あのセリフどおり、俺が根負けするのを今か今かと楽しみに観察しているかのような、そうした皮肉な冷嘲 の意味で楽しそうにしはじめたのである。
しかしその一方で、俺は確実な「手ごたえ」のようなものも、折々ユンファさんの表情に見つけていた。――ふとしたときに頬を赤らめるだとか、切ない眼差しで俺の目を見つめてくるだとか、また何より彼は、案外デートそのものを楽しんでいるような様子でもあったのだ(もちろん決してあからさまではなかったし、それを指摘すれば必ず否定はされたのだが)。
そしてその「プラトニックなデート」を何度もくり返し――その何十回目かに、ようやく俺はユンファさんと付き合うことが叶ったのである。
とはいえ、それは例の「約束」――。
あ の 条 件 付 き のことではあったのだが…――。
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