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その運命の日は水族館でデートをした。
いつも通り手をつないで、そこにいる魚など海の生物たちを鑑賞して回ったのはもちろん、館内のカフェでの昼食、それからイルカショーを観て、さらにおみやげコーナーではお揃いのペンギンのストラップを買った――というよりか、俺が買ってユンファさんに押しつけた――りと、その日は朝からそこでデートをしていたのだが、館内が思うよりかなり広かったこともあり、案外水族館という場所で過ごしていただけで、その日はもう日が暮れようとしていた。
ちなみにその日ユンファさんは、黒に少々派手な青薔薇 のえがかれたつやのある生地の、襟 のある柄シャツ――そのまっしろな首もとから胸板の中央までが少し覗く、襟もとがざっくりとV字にあいたもの――と、黒いスキニーパンツ(シャツの裾 はそのなかに入っている)、黒に銀のバックルが輝くベルト、そして肩からは黒革のショルダーバッグをかけていた。いずれもブランド物である。
また一方の俺はというと、ベージュに茶の縦ストライプが入ったスーツ姿であった――なかには黒いワイシャツと、赤いネクタイを着けていた――。俺も(当然型は違うが)黒革のショルダーバッグを肩にかけていた。
さて…そしてその水族館を出てすぐの、おだやかに波立つ海面を夕陽がロマンチックに炙 っているのが一望できる、海岸沿いのレンガ敷きの歩道、そこに海と歩道とをへだてるよう設けられていた白いフェンスの前――そこで俺の愛の告白はようやっと、結実の時を迎えたのである。
ただその少し前、ユンファさんは俺から逃げるように背を向けて歩きだした。俺はもちろん彼の手を掴んで引きとめ、必死の思いで「貴方がもう会ってくれないと言うのなら、俺はストーカーにだってなりかねない」というようなことを言ったのだ。
するとユンファさんはくすぐられたように大声で笑いだし、ふっと背後の俺へその可笑 しそうな笑顔でふりかえった。
彼は顔を真っ赤にしていた。
その切れ長の目には涙までうかんでおり、彼の白い顔の側面を真横から照らす夕陽が、その人のツリ目のまなじりに浮かんでいる涙を光らせていた。
「いいよ。じゃあ付き合ってあげる。」
「……え」
「…だって、ストーカーになんかなられたらたまったもんじゃないだろ。仕方がないから…ソンジュと付き合ってやるよ」
「――エ゛…ッ!?」
……そのときの俺の歓 びときたら、いうにいわれぬほどとにかく凄 まじいものであった。どこか茫然 としてもいた。それでいて驚喜に顔がこばわり、両目は限界まで見開かれ、口もぽかんと開けたまま、しかし眉はなぜか限界まで寄っていた。
「……、…、…」
しばらく何も言えなかった。
俺はこの「ついに念願叶ったり 」という状況でなければ、――喜ばしいことにしても、その「奇跡」よりかもう少しランクダウンされたものであれば、――普段どおりの冷静な自分でいられたことだろう。
……しかし結実の時、というのはどうしてか往々にして、油断しているとき、言いかえればちっとも期待などしていないときに、突然訪れるものなのである。
すなわち、俺にとってはユンファさんのこの「YES」は急なもの、俺にしてみればまた駄目なのだろうな、と思って油断していたところに、あまりにも唐突に差し込まれた奇跡の急展開だったのだ。
「はは…何だよその顔は、」とユンファさんが困ったように眉を寄せて笑った。
「じゃあやっぱりやめとく? いいよ別に、僕はどっちで……」
俺は掴んでいたユンファさんの手をぐっと引き、すぐさま彼を自分の腕の中に閉じこめた。
「よろしく、」――俺は思わず泣きながらそう言った。
「これから、恋人として、…改めてよろしくお願いします、ユンファさん、…」
「……、うん…――ふ…泣くなよ、これくらいのことで……」
「これくらいだなんて…そんな、とんでもない、…」
これくらいのこと、と言われてはいささか心外である。ユンファさんと出逢ってからこれまで、ひとえに願ってきたその俺の宿願がついに叶ったのだ。
もはや奇跡だとさえ感じられた。横顔に浴びている夕陽の光でさえ、神の祝福めいてあまりにもまぶしく清らかなものと感じられた。このときの俺の喜びようときたら、その激しい歓びのあまりに全身がむずむずとしているくらいで、それこそ今にも叫びながら、大笑いしながら、走り出しそうであった。…もちろんユンファさんの手を引いて、どこまでも、どこまでも。
「でも…ソンジュ…」
としかし、ユンファさんは沈みこんだ声で切り出した。
「君と付き合う前に、言っておきたいことがある…――ちゃんとそれを聞いてから、改めて僕と付き合うかどうかは判断して……」
「……、それは…何です…?」
俺は――すでに、たとえそれが何であろうと「付き合う」と答えるつもりで――するりと離れ、ユンファさんの顔を見た。
彼はほのかに微笑していたが目を伏せている。
そしてユンファさんは静かな声でこう言った。
「実は僕、セックス依存症なんだ…――。」
それからユンファさんはふと目を上げつつ、夕陽のかがやく海原へ顔を向けた。――遠く海を眺めるその横顔は、儚げな微笑をたたえている。
また、そのとき彼の黒いつやのある長めな横髪は、海風に美しくそよいでいた。
「僕は…常に誰かに求められていないと、生きていけないんだよ…――ただ…それは別に、常に誰かしらに愛されていないと、ということではなくて……」
「……ええ…」
俺は慎重に相づちをうった。
ユンファさんは俺にその鼻の高い端整 な横顔を見せたまま、ふとその長いまつ毛を伏せた。
「愛されたいだとかは、少しも思っていない…。それはもちろん、君にも……――愛されたくないんだ。むしろ…誰にも愛されたくない。…嫌われていたい。」
「……、…それは…どうして……」
「面倒だから…、誰かに愛されているかどうか、それを…――知るのが、嫌なんだ…」
ユンファさんは何かつらそうに目をつむった。
「それに…僕は、そりゃあセックスは好きだが、誰かのことを愛することは出来ない…。永遠に…、というよりか…僕のような奴は、誰かのことを愛してはいけない…――そんな権利、僕にはないんだよ…。」
「……、…」
俺はその権利がない、というユンファさんのそれを否定したかったが、ともかく黙って聞いていた。何を言うにしたって、最後まで聞いてからでなければならないと考えていたのである。
ユンファさんはふと目を開け、また遠く夕陽のかがやく海原を眺めはじめる。
「とにかく…正直肉便器扱いだろうがオナホ扱いだろうが、性奴隷扱いだろうがなんだろうが、セックスが出来たら何だっていい。…だって気持ちいいじゃん、セックスって……」
「……、…」
しかし俺は無性に――最後まで聞き置こうと決めておいて――、今にもユンファさんを抱きしめたくてたまらなかった。…といって、それはよろこびゆえではなく……もちろん、こらえたのだが。
彼は海を見ながらうつろな表情をうかべる。蒼白のそれは恍惚としているようにも、もの寂しげなようにも見える。
「もちろんセックスのその快感にも依存しているし…――あと、セックス中は自分が自分じゃなくなって…どんなに惨 めな状態にさせられても、何を言っても、それはもう一人の淫乱な肉便器が言っていること、やっていることで…――どんなに救いようのない淫乱になっても…、……」
ここで彼は海を睨みつけるような厳しい鋭い目つきになった。そして嫌味な笑みをその赤いふくよかな唇にたたえた。
「僕は強い自分が好きなんだ。誰のことも必要がない、ただ自分のためだけに生きている自分が。…淫乱な自分が好きなんだ。何をされても、どんな惨めな状態に追い込まれていても、それでも自分のことしか考えていない、むしろ本当は僕が相手を操ってやっていて、馬鹿な相手は僕を気分良くいじめてやっているなんて愚かにも思い込んでいる…、それが快感なんだよ。強 かで図々しい、その最低なクズの肉便器が好きなんだ。――だから……」
そしてユンファさんは顎をひいてうつむきながら顔を正面にもどし、ふっとまた俺に背を向けて歩き出した。俺はもちろん彼の隣に並び、着いてゆく。
「だから…?」
と俺が続きをうながすと、ユンファさんは強気な笑顔を俺に向ける。
「…だからセックスをするんだよ。…強くなるためにもセックスをするんだ。――何にも縛られないで、自分の欲求を満たせればそれだけでよくて、他は全部どうでもいい。…人の気持ちとか事情とか全部。そういう人間になりたいんだよ、僕は。」
「……そう…、……」
しかし……それは本当に「強い人間」なのだろうか? どうもユンファさんは、「搾取をする人間」こそ強い人間なのだと、だから自分はそうなりたいのだと思っているようだが――いや、まあ弱肉強食的な意味あいでいえば、それもひとつの「強さ」には違いないのだが――、俺は、それは「人間の」強さだ、とは言いがたいような気がしてしょうがない。
「それと…」――ユンファさんは目を伏せた無表情でつづける。
「とにかく…無責任に中出しされまくって、常にまんこのなかにザーメンが入っていないと…、何か…不安になる…――なんて…、はは、…」
「……、…」
俺は察したものに胸中をくもらせた。
先ほどまでの「強者の顔」から一転、とたんに不安を漂わせているその横顔の微笑に、これは改めて思うことではあるが――おそらくユンファさんには、やはり何かつらい過去があるのだろう。
俺は彼の手をそっと取ってやさしく握った。それが今の俺にせめてもできることだった。
……ユンファさんはまた強気に笑った。
「あと、貢がれたいんだよね。…本当は僕のことなんかオメガだからって見下している癖に、僕に貢いでくる奴らは、僕のオメガのオナホみたいなまんこにちんこ挿れたいから、貢いでくるんだよ。――つまり、あいつらの捧げ物は全部セックスっていう対価に繋がってんの…――だから、貢いでくる額が減ると不安になって、すぐ切ってきた。…ふふ…、まあ貢がせて貢がせて、その挙げ句に裏切って、捨ててやるってのが快感なのもあるんだけど。」
ユンファさんはチラリと横目に俺を見て、「ソンジュも僕に貢いでくれるだろ? じゃなきゃやっぱり付き合ってやらないからな」といささか冗談っぽく言ってから――それに関する俺の返答を待たず――、また前を見てこう続ける。
「ただ悪いけど…恋人なんか要らないんだよ、本当は…――セックス依存症じゃ、そもそも付き合ったって面倒事が起こるだけだし……、特定の恋人とか、そういうのはいないほうが自由にセックス出来るしさ…。だから本当は、恋人欲しいとか思ったこともない…――その時々でメリットあるからって、都合よく彼氏作ったり作らなかったりしてただけ…。寂しいとかも、今まで一度だって思ったことないし……」
「……、…」
それは…本当だろうか?
少なくともそう言ったユンファさんのその微笑は、どこか寂しそうであった。
「…ふふ…ソンジュと付き合うのもそう。メリットがあるからってだけ……」
「メリット?」
「そう」
ユンファさんはその赤い唇の端をもう少し引き上げて、ふとまたその長いまつ毛を伏せた。
「…メリット」
「それはどんな…?」
と俺が尋ねると、ユンファさんはやや俺のほうへ顔を向け、その涼やかな切れ長のまぶたは伏せぎみのまま、チラと紫の瞳で――とろんとした甘えるような目つきで――俺を見た。
「……金持ちだから」
それもそう言った小さな声にさえ、なにか甘ったるい響きがあった。
「はは、…それでも嬉しいですよ。事実俺は金持ちですし。」
「…あっそ…、ふっ……」
するとユンファさんは呆れたふうに鼻で笑ったのち、また顔を前へむける。
「まあ君がそれでもいいなら…」
「勿論」
「……というか…いや、僕が今から言うことを約束してくれるなら…――いいよ、本当に、付き合ってやっても……」
「……、約束…ですか…」
そしてユンファさんは「あの条件」をこうあげ連ねたのである。――なにかうつろな、しかしどことなく何かを諦めたような眼差しで、遠く前を見据えながら。
「うん…。僕が他の奴とセックスしても彼氏だからって何かしらの制限かけない、束縛しない、文句を言わない…。…それと僕が他の男とキスをしたり抱きしめあったり、そういう恋人らしいことをしても文句を言わない…。…もちろんそれに関しての文句は、僕の相手にも言わない…――僕と他の奴のセックスを邪魔しない…。」
「……、…」
「つまり…僕の浮気を認めろってこと…――。」
ユンファさんは虚ろな目をして――しかし今にも壊れそうなほのかな微笑をたたえた――顔を、俺のほうへゆっくりと振り向かせた。
「いいの…、ソンジュは、それでも……」
「……、…」
俺の気持ちは固まっていた。
俺は足を止めた。するとユンファさんも立ち止まり、俺たちはどちらともなく向かいあった。
「構いません。」
するとユンファさんは少し泣き出しそうな顔をして俺の目を見、こうしおれた小声で聞いてくる。
「…本当にいいのか…――それで君…、嫉妬とか…しないの……?」
俺は彼の不安げな薄紫色の瞳を見つめながら、はっきりとこう言った。
「率直にいえば…その自信はありません。」
「……はは…、じゃあやっぱり…やめといたら」
とユンファさんはそう寂しそうに笑い、目を伏せる。
「君はさ…どうして僕なんかがいいの…。僕のようなクズじゃなくて、もっとまともな人と付き合えばいいのに…――そういう人、いくら紹介してやっても拒むし…――なあ、僕とじゃ絶対幸せになんかなれないとわかっていて、ソンジュはどうして……」
「どうして、ですか?」
俺は少し笑いながらこう返した。
「貴方とでは絶対に幸せになれない…、俺がちっともそうは思っていないからです。…そして――むしろユンファさんとなら絶対に幸せになれると、俺がそう確信をしているからですよ。…当然でしょう。」
「……、なあ…」
ユンファさんは目を伏せたまま眉をひそめた。
「僕の浮気を認めたらさ、彼氏でいる意味なんか無くなるんだぞ…。それならセフレでいたほうがまだマシじゃないか…――それでも僕と付き合いたいだとか言うんなら、本当に君、どうかして…」
「それくらい何でしょう。大した問題ではありません。」
俺は断固そう言い切った。
無論「大した問題ではない」というのは大見得 を切った。――それこそ人一倍独占欲の強い俺が、そのような自由主義の恋人関係に正気でいられるかどうか、たしかにその点においてはいささか不安を感じてはいた。
「まあといって、確かにどうかしているかもしれませんね。…だが…――」
しかしそれ以上に俺は、ユンファさんを愛していたのである。
「それ以上に俺は、貴方を一人にしてはおけない。」
「……は…?」
ユンファさんがふと弱々しい顔をして目を上げ、俺の目を見る。俺は真剣な思いを込めて、彼のその小刻みに揺れている薄紫色の瞳をじっと見つめた。
「ユンファさんはお一人で生きていけると、ご自分ではそう思われているようですけれど…――しかし、貴方ほど一人にしておいては危うい人もない。…何故 なら貴方は、その実何にも執着などしていないからです。――まあ尤 も…貴方は先ほど、自分はセックス依存症なんだと仰 っていましたが……」
俺は疑わしそうに自分を見てくるユンファさんに、小首をかしげる。
「すると、辛 うじてそれが貴方を生かしている状態であっては、いよいよ俺は貴方を一人にすることなど出来ません。――ましてや……」
俺の唇が微笑を形づくり、俺のまぶたはやわらかく細められる。
「あるいは〝彼氏〟という俺との関係性が、貴方の〝生〟というものに俺がかけられる、ある種の〝錠 〟になり得るかもしれない。」
「……、…、…」
ユンファさんは眉をひそめた。
そしてうつむいた。――俺は彼のことをそっと胸に抱きよせ、大切に抱きしめる。
「俺はユンファさんに、俺と一緒に生きてほしいんですよ。――貴方が幸せに生きてゆけるのなら、俺は何だっていい。…だから構いません。何だって構いません。――貴方が俺と共に生きてくださるのならば、そんなのは些末な問題です。…いいえ、むしろ……」
俺は笑った。
たっぷりと夕陽の光を全身に浴びながら、愛しい人を腕の中に閉じ込め――そうしてひそかに「錠」をかけながら――思いきり、笑ったのである。
「ユンファさんがやっと俺と正式に付き合ってくださるのだから、…俺は今、これでもかなりはしゃいでいるんですよ。…ははは……」
そう…――些末な問題であった。
事実些末な問題ではあったのだ。
……なぜなら俺は、案外ユンファさんのその逸楽癖にも何とか耐えられ、結果彼と結婚までしたからである。
だがそれよりも問題であったのは――俺がおよそこのとき、間 違 え て し ま っ た ことであった。
……しかしまあとまれかくまれ――こうして俺とユンファさんは、その「約束」をもって正式に交際することとなった。
ちなみにこのあと、俺は随分久しぶりにユンファさんを抱いたのだ。
……恐ろしく可愛らしかった…――。
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