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 そうして俺は、女からなかば無理やりにもその借金の残額を聞きだし、ユンファさんを引きつれて本当に銀行ヘまで行った。  ただし銀行の前には一度ホームセンターへ寄った。――俺は今日小さなかばんしか持ってきていなかったのだが、残額が一千万近かったので、それを入れるためのアタッシュケースを購入する必要があったからである。  なおユンファさんはその道中何度も「いいから…」と、「君にそんな迷惑はかけられない…。僕の借金だ、僕が勝手に背負った借金なんだから、ソンジュがその代償を支払う必要なんかない…」と暗い顔をして言っていたが――俺は無論、そのたびに「いいえ」とありとあらゆる言葉で彼のそれを否定し、何がなんでも自分が借金を完済すると、調子は柔和ながらも一貫してその主張を通した。  そして女の家に戻った。  俺はアタッシュケースごと女に金を渡した。すると女の使用人がそれの額を二度に渡って確かめた。  ……そのあいだ女は脚をくみ、終始ぶすっとした顔をして、使用人の札を数えるすばやい指の動きを、黙って不服そうに眺めていた。――今に思えば、俺に借金を完済されたのが面白くなかったのであろう。ユンファさんを苦しめたいからである。  やがて使用人が二度目の確認を終えてすぐ、女主人に間違いなく全額あることを報告した。  さらに俺はのちのち難癖をつけられてもわずらわしいので、「大きな金銭のやり取りですから、念の為」と表向きはおだやかに、女に借金完済の証明書に必要情報を書き込ませた。  なおそれは俺がスマートフォンで内容を打ち込み作成したのち、コンビニの有料コピー機で()ったものである。  すると女は案外すなおにそれに今日の日付や氏名と住所など、必要情報を書きこみ、捺印(なついん)も済ませた。  ……俺は不備などないかしっかりと確認したのち、それを折りたたみ、スーツの内ポケットをしまいこんだ。 「よかったねーユンファ、優しい旦那さんじゃん。」  と女が敵意の鋭さを隠しきれていない笑顔、その声で、ユンファさんに言った。 「でも闇金の方は残ってんだから、そっちくらいちゃんと自分だけで返し……」 「ご心配なく。」と俺は女に微笑した。 「そちらに関してももう完済済です。」 「……は?」 「そちらは振込でもよいとのことでしたので。」  ……闇金とはいえ融資を仕事としているのであるから当然だろうが、その事務所は返済用の口座を有していたので、俺は銀行からの振込で、そちらの借金も完済しておいた。  もちろんそのためにはユンファさんの協力が必要不可欠であったが、彼はもはやその頃ともなるとほとんど諦めており、案外すなおに俺に従ってくれた。――なお、証明書に関してはのちほど受け取りに行くつもりである。 「は…、あっそ…」――女はきまり悪そうに顔を曇らせたまま、またユンファさんを侮蔑のまなざしで見やる。 「じゃあこれで借金なんかもう気にせず、旦那だけの奴隷になれるねあんた。おめでとーー。」 「……、…」  俺はひとまず何も言わず、また凍りついたうつろな顔をうつむかせているユンファさんの、その膝の上におかれた片手を上からそっと握りこんだ。 「さあ帰りましょうか…、ふふ…――勿論借金を俺が返したからといって、貴方は俺の奴隷になどなる必要はありませんからね。…これから二人で幸せになりましょう。」 「……、…」  ふと目を上げたユンファさんが弱々しい、今にも泣き出しそうな澄明な薄紫色の瞳で俺を見る。――その目には今すぐに抱きしめてキスをしてあげたい、…と俺は悲しいなかば、彼を愛おしく、また護ってあげたいとの気持ちが強まった。が、 「ねえユンファ。なんであんたなんかが、こんなに優しくて金持ちのイケメンと結婚出来るんだと思う?」――女がせせら笑うように、いよいよ敵意むき出しにそう言ったのは、およそ俺たちに無視をされたせいだろう(この手のタイプは、嫌味を言ってのちも眼中に入れられないのが一番(しゃく)(さわ)るのである)。 「ママのお陰だからね。感謝してよ。」 「…俺はユンファさんに惚れたんですよ…、貴方がやっと俺の愛を受け入れてくださったお陰に過ぎません。さあ、」  帰りましょう、と俺は握りこんだユンファさんの手を引き上げながら、立ち上がった。――すると彼も俺の顔をすがるように見つめながらゆっくりと立ち上がったので、俺は彼の肩を抱く。…そして歩きだそうとしたが、 「…あ、ねえソンジュくん」  と、そこで女がやたらと優しい声で俺に話しかけてくる。――俺は女を見下ろして微笑した。 「何でしょう。…そろそろお暇させていただきますので、どうぞ手短にお願いします。」 「…あたし、君に連絡先渡したっけ?」 「…連絡先…?」  俺はそう反問しながら鼻で笑う。  女は笑顔でこう続ける。 「その子と結婚する前にさぁ、もうちょっとあたしと君で親睦深めない? ほらユンファと結婚するにしても一応家族にはなるわけだし、そうじゃなくてもさー、あたしホントにいい人いっぱい知ってるから、君に相応しい人紹介してあげるのも、連絡先知ってたほうがスムーズじゃない?」 「結構です。お気遣いいただいて大変恐縮ですが、私は本日あくまでもユンファさんの婚約者として、貴女に自分たちの結婚をご報告に上がったまでのことですから。」  結婚相談所に来たわけじゃあるまいに。――ましてやこの女と連絡先を交換するつもりなど毛頭ない。 「あっそうだ、メモとペン寝室だ。」  しかし女はそう無視し、「ちょっとごめんね」と俺に笑顔で断って、ソファを立った。――そしてリビングの奥にある扉の中へ消えてゆく。 「……、…ユンファさん」  俺はその隙に、並び立つユンファさんの青ざめた唇にちゅ…と短い、音のないキスをした。――ぴく、とおびえたようにわずか肩をすくめた彼は、ふと泣きそうな顔をして俺を少し見上げる。 「ふふ…、大丈夫…――全て俺にお任せください。」 「……、…」  ユンファさんはうつむいた。少しだけ安心したような顔をしながら。しかし、 「ねえーソンジュくーん、ちょっと来てーー」  と女が扉から斜めに肩と頭を出し、甲高い声で俺を呼ぶ。俺は動かない。 「ご用件は何でしょう」 「ちょっと二人で話したいことがあるの。…君、どうしてもユンファと結婚するんでしょ? ――だったらちょっと、その子の過去について話しとかないといけないことがあって。」 「……、…」  ……俺は迷った。  率直にいって、この女と二人きりになってロクなことはないだろう、という悪い予感はあった。そもそもメモとペンはどうしたのだ。  しかしユンファさんの過去の話…――彼は自分ではなかなかその話をしてくれないが…――「前科持ちで」という女の言葉が脳裏をかすめ、およそ女がしたいというのはその話ではないか、との予感もした。  俺は知りたかったのだ。…もちろん彼に何かしらの前科があったとしても、結婚するという決意がゆらぐことはない。――つまりあくまでもユンファさんと幸せになるために、俺はその人の過去を知っておきたかったのである。 「行ってきなよ…」  ユンファさんが諦めたような儚い声でそう勧める。  彼はその長いまつ毛を伏せている。俺はその様子を見てはしかし、なお女の元へは行きたくなくなった。 「……いえ…貴方の過去のお話なのであれば、俺は是非貴方ご自身の口から聞きたいんですが…」  するとユンファさんはうつろに目を伏せたまま、ぼそ、と小さな低い声でこう言った。 「――人を殺しかけたんだよ」 「……、それは、…どうして……」  俺はドキッとし、目を瞠る。  ここで女が「ねえー早くー」と俺を急かす。しかし女はアルファ属である。――すなわち獣並みに聴力がよいのである。 「その人殺しの話をしたいの。――言ったでしょだから、ユンファには前科があるんだって。…一回捕まってんのよそいつ。…ほらおいでソンジュくん、その話しないと。」 「……いえ。」俺は女を見た。 「今ユンファさんご自身が告げられました通り、そのお話であれば、何も貴女と二人きりでする必要はないかと」  すると女は嗤いながら「はー…っ」と呆れたため息をつき、「他にもいろいろ話したいことがあんの」 「いいから行って、ソンジュ…」 「ですが、…」 「っいいから、…」  と彼はいら立ちながら俺の背をぐっと強く押した。――そしてこの家に来てはじめて、皮肉な、強気な笑顔で俺を見た。 「別にお母さんと何したっていいからね。気にしないから。」 「……、は…?」  何したって、とは…俺は困惑した。  ユンファさんは俺を睨むように鋭く見ながら、しかし笑ったままこう明言する。 「だから、キスでもセックスでも何でもしていいから。」 「…は、…はあ? しません。しませんよ、いや何を言って…」 「いいから行けよ…っ! 早く…っ!」  ユンファさんはいよいよ険しい顔をし、また俺の背中をぐっと強く押した。 「で、ではすぐに戻りますので…――しかし、くれぐれも俺のことは信じて…、……」  ここはユンファさんに従うしかなかった。  …ここで行かない選択をとり続けては、悪いと喧嘩にさえ発展しそうな危険な気配があったから、である。――  ということで俺は女とともに、その家の寝室に入った。――寝室においても成金趣味な装いである。  女は天蓋つきの広々としたベッドに脚を組んで腰かけ、自分の隣をぽんぽんと叩き「ここ座って」と誘ってきたが、幸いこの部屋には、ちょうどベッドにかけた女と対面になる位置に、ゴテゴテとした装飾の三人がけソファが置かれていた。…俺はそれに浅く腰かけた。 「それで…」俺は女を見すえて話のつづきを促した。  伏し目の女は白いたばこに火をつけたあと、それを真っ赤な唇からはなし、ふーーと紫煙を吐いた。そしてこう言う。 「あいつは人殺しなんだよ。」 「……人殺し…、しかし彼自身は〝殺しかけた〟と……」  女は目を伏せたまま、その顔を笑わせずに「ふっ…」と鼻で笑う。 「表沙汰にはならなかったけど。」 「……、それは…不起訴処分になった…ということですか。――つまり厳密にいえば、彼には前科と呼べるものはない、と……」  しかし殺人はもとより未遂であっても、まず示談金を支払うなどしたところで、検察が不起訴判断をすることはめったにないことではある…が、しかしこの女はアルファ属である。――「殺人」とまでいけばさすがに不起訴は無理だろうものの、「未遂」であれば、あるいはその絶対的権力をもってもみ消すこともできなくはなかろう。  もっともそのもみ消しが世に発覚すれば、双方の汚職として大騒ぎに、またかつ罪にも問われることであろうが。  しかし…――。 「あの子の父親さ…」と女がたばこをふかしながら言う。 「実は五条家の人なんだよねー」 「……、…」  俺は戦慄した。  ……五条家は、九条家にもならぶ名家のうちの一つである。――このヤマトにおいて、「(数字)条」の構成である名字は名家と見てまず間違いはない。もっとも昔ならばともかく、今はその家同士の繋がりなどはほとんどないが。 「ここまで言えばわかるでしょ…?」――女はその両目に、怨念のようなどす黒いものを帯びさせて俺を見すえながら、しかしその赤い唇を嗤わせる。 「だってとんでもない五条の面汚しだもんねーあいつ、そりゃあもみ消したくもなるでしょう。――でも、だからってやったことが帳消しなんかならないから…、あいつは罪を償う必要があんの。…あたしがあいつにキツくあたるワケ、わかるでしょ? 愛せないから、人殺しなんて。」 「……、…しかし…何故ユンファさんはそんな…人を(あや)めようなどと……」 「…ふふふ…、……」  女は組んだ上の脚の膝に、たばこを指にはさんでいる方の肘を着くと、深く前のめり――おそらくわざとグレーのドレスのえり口から、胸の谷間を俺に見せつけてきながら――甘ったるい声で「そんなことよりさぁ…」 「…いいのぉソンジュくん…――そんな前科持ちのユンファと、本当に結婚なんかするつもり…? 貴方九条家の御子息なんでしょう…、そんなとばっちりの汚名着せられて、大丈夫なのぉ…?」 「…失礼ながら、質問にお答えくださ…」 「じゃあ、あたしにキスしてくれたら答えてあげようかな…?」 「……、ふぅー……」  (らち)が明かない……俺は眉をひそめ、目を伏せた。 「…それで…お話というのはそれだけですか。」 「…ねえソンジュくん…、こっち来て……? もっと近くで話そ…?」  女の甘ったれた声に、俺はさっと立ち上がり、 「お話は以上のようですね。…それでは失礼します。……」  とこの寝室をあとにした。  そうしてリビングに戻ったなり、俺はそこのソファに座ってうなだれ、待っていたユンファさんの手を掴んで引き上げ、さっさとこの家の玄関へ向けて歩き出す。 「……っ? ソンジュ、?」 「…絶縁してください。」 「……、あ…うん…、あの…いいよ、だから…」  ユンファさんが俺に手を引かれ、歩きながらそう萎れた声で言う。 「そ、そりゃ無理でしょ…、…聞いたんだろ、…本当のことだから、僕が人を殺そうしたのは…――わかって…、だから、…わ、別れるよ、もちろん別れるって、…はは、結婚なんかやっぱり無理…」 「そりゃそうでしょー、なんだ、あんたもたまにはいいこと言うじゃんユンファー」  俺たちのあとを着いてきていた女がしめしめと喜んでいる。――俺は廊下の途中でひた、と足を止めた。 「違う。…貴方が過去にどんな罪を犯していようが、また前科があろうがなかろうが、俺は貴方と絶対に結婚はしますよ、ユンファさん。」 「……、え……」  俺はさっと後ろに振り返る。  そして弱々しい涙目で俺を見てくるユンファさんを、じっと見据える。 「何がなんでも俺は絶対にユンファさんと結婚はします。――だが申し訳ないが、もう絶縁してください。――貴方の母親と。俺と一緒に。」 「………え…、…ぇ…あ……あ、あの…え……? お…お母さんと…ぼ、僕が……え、縁を切れって、…こと…」  目を瞠ったユンファさんは(当然だが)困惑しながら、ふと背後の女にふり返る。 「は? 何言ってんのちょっと、あはは、やだもう〜ソンジュくん、…さっき二人っきりで何したか、もう忘れちゃったの…?」 「…いいえ。いまいち要領を得ないユンファさんの過去の話を聞いている最中、貴女にどうも誘惑されたように感じ、耐え切れず寝室から出てきた…――その私の記憶が正しければ、忘れているとはいえません。」 「……、…ソンジュ……」  ユンファさんはその長いまつ毛を伏せていたが、「あのさ…」と俺を見て、悲しそうに笑う。 「い…いいよ、別に、…ぉ…お母さんと、何をしていても…僕は…――は…初めてじゃ、ないから、そういうの…、あ…当たり前だと思う、むしろ…だって、ぉ…お母さんのほうが…、魅力的だし…――女崩れのオメガより…いいでしょ、アルファの女の人のほうが……」 「そうだよ、さっきも言ってたじゃん君…――あんなに気持ちよくしてあげたのに、ちょっと酷いなぁ」 「あの…」と俺は眉をくもらせ、女はともかくユンファさんにこう言う。 「そんなに信用ありませんか俺…。…信じてと言ったじゃないですか、非常に心外です。…俺ははっきり言ってユンファさんにしか興味がありません。…というかご存知のはずでしょう。――もとより女性の性的魅力を否定するつもりはさらさらないんですけれど、俺は否応なく反応不可能なゲイです。」  俺は「お願いだ…」とユンファさんの片手を取り、自分の片胸へあてさせた。 「俺を信じて。…ね…信じられるでしょう…?」 「……、…ご、ごめ……」  するとあまりにもきょとんとしたユンファさんが、ふと驚いた様子のまま目を伏せる。 「…とにかく、」俺はユンファさんの手を引き、自分のほうへ引きよせたのち、彼の肩をがっちりと抱く。…そして真剣に――ほとんど睨むように――ユンファさんのその伏し目を見つめる。 「差し出がましいことを言うようで申し訳ないけれど、…実母とはいえ、今もそうじゃないか、…あの人は貴方を傷付けたいだけの酷い母親だ。――俺は耐えられません。愛するユンファさんが傷付けられる姿を、俺はもう見たくないんです。」 「……、…」  するとユンファさんはつと俺を見上げ、その薄紫色の瞳をみるみると明るませる。 「貴方には笑っていてほしいんだ。――だからお願いだ、…俺とのこの結婚を機に、あの母親とはもう絶縁してください。」 「……、…、…」  ユンファさんの眉尻が下がる。  そして彼は泣きそうな顔をしながら、…しかし微笑んで、俺の目をその揺れる薄紫色の瞳で見つめ、 「ぅ、……うん、…わかった、…もう…変わりたい、僕も…――縁…切りたい、…縁切る、…決めた、…――ぉ…お母さんと、…お母さんとは、…もう縁切る、…」

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