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「…お言葉ですが」
と俺が女を冷眼で見下ろしながら切り出すと、女は「何?」と挑発的な笑顔で俺を見上げた。
「あーあんた九条家のおぼっちゃまだもんねー、愛するユンファのためなら十億円くらい何てことないんだ? さすがぁーー、じゃあマジで十億払ってくれるってことね。やった、十億ゲット。」
「……、…ふふふ…――いいえ。」
俺はここまで呆れと怒りのあまり真顔になっていたが、九条家と聞いて父の教えを思い出し、女へむけて作り笑顔をうかべる。
「払いません。」
「…ふっ…」女が勝ち誇った顔をする。
「九条家のおぼっちゃまでも、流石に十億はやっぱ無理なんだ?」
「いいえ。可能です。――しかし、そもそも私にもユンファさんにも、そのような不当な金を貴女に支払うべき義務はない。…だから支払わないと言うんです。そんなの払ったところで無駄金ですから。」
「は? あるから。」――腕を組んだ女が、不遜 な笑みでそう言い切る。
しかし俺も「ありません。」と冷静に言い切る。そして俺は微笑したまま、泰然 とこう女に説明してやる。
「そもそも民法で、〝親は未成年の子供に対して扶養義務を果たすべし〟と決められているんですよ。…そしてその扶養義務の内には、当然子供の生活費や教育費等の支払いも含まれている。――つまり、一応は貴女の子供であるユンファさんには、それらを貴女に〝返す〟義務など生じようもありませんが…――逆に彼の母親である貴女には、それを〝支払う〟義務が課せられていたんです。…国の定めた法で、国に。」
「……、…」
女は不機嫌をいよいよあらわに、俺を睨みあげながらも閉口した。――俺は微笑を少しかたむけ、さらにこう続ける。
「それで…――逆に貴女は、一体何の法的根拠をもって〝返せ〟と、〝支払え〟と仰言っているんです…?」
……すると女はムッとしながらも決まり悪そうに目を伏せ、かつ多少自信をなくしたらしい小声で、しかしそれでもこう食い下がる。
「別に法的根拠なんかなくても、ここまで育ててやった恩があるでしょ…。子供が親に恩返しするのは当然のことなんだから……」
「…なるほど」――俺は女を見る両目を細め、したりと笑った。
「貴女は今、法的根拠はないと明確に認められましたね。…すなわちユンファさんには、〝恩返し〟という名のお心付けを貴女に施 してあげる自由こそあれど、貴女にそれを返す義務はない、いわばその必要性はない、と貴女は今顕然 と認められた。――それならこの話はもう結構ですね。…それでもまだご納得いただけないようであれば、あとは法定で争うという手もありますが、如何 なさいますか。」
「…チッ…、……」
すると女は俺相手では勝てないと判断したか、俺の背後で黙り込んでいるユンファさんを、
「…おいユンファ!」
と鬼の形相で怒鳴りつける。
「あんたさー、情けないねー相変わらず! あんたはいいよねーユンファ、そうやって強いアルファ男の影に隠れてメソメソおどおどしてれば、カワイー、カワイソーって守ってもらえて。…ほんっと気持ち悪、このアルファの寄生虫、」
「っ何てことを、」と女を睨みつけた俺を、しかし止めるように前に出たユンファさんは、軽く俺の腹を手のひらで押して下がっているよう示し――俺は迷いはありながらも一歩さがり――、そうしてこう面罵 してくる女の真っ向に立つ。
「おい、ていうかお前さぁ、あたしと縁切るとか何とか言ってるけど、どうせお前この人にもすぐまたポイ捨てされんだよ。お得意だろお前、すぐ男に飽きられて、呆れられてね。なんでかわかる? オメガのお前には体しかないから、中身カラッポだから、所詮体しか取り柄ない馬鹿なオメガだから。お前なんか所詮男のヤリ捨て便所なんだよ便所! このヤリマン、」
「…………」
女は狂気的なまでに目を見開き、言い返すでもないユンファさんのうつろな無表情を凝視しながら、矢継ぎ早に、一方的にこう嘲罵 を続ける。
「お前どうせこの男にもすぐ捨てられるんだからな。で、また一人ぼっちになって。また新しい寄生先探して。で、また捨てられてね。…お前いい加減学べよ、お前を愛してくれる人なんかいないんだよ。お前は愛されないの。誰にも。」
「……、…」
女のもはや正気を失ったかのような、その赤らんだ険しい顔を眺めおろす彼のまなざしには、どこか哀れなものを見ているような――ある種のわびしい見下しが含まれている。
しかしそれを知ってか知らずか、女の真っ赤な唇から噴きだされる怒涛の嘲弄は止まるけしきもない。
「だからママだけはどん…っなにクズの息子でも見捨てないであげようって、こうやって縁切るとかなんだとか言うのにも反対してあげてんのに、――いいのユンファ? どうせあんた一人じゃ生きてけないでしょ。ママと縁切ったらいよいよ一人ぼっちになるんだよお前。…いいんだ、じゃあ生涯孤独だねユンファ。寂しく一人で生きていきな? バイバーイ。」
「……うん…、そ…そうする……」
と静かに、ユンファさんが口を開く。
「ぼ、僕はもう…一人で、生きていける…」
「ううん? あんたには絶対無理。」
しかし女がそう低い声で嗤う。
「弱っちくて一人じゃ何にも出来ないオメガだから。おどおどビクビクして、男に媚びながら股開いて生きてくしか出来ないオメガだから。――誰かに縋って寄生しなきゃ生きてけない弱者の癖に。どうせお前その男にも依存して…」
「してないよ、」
とユンファさんは眉を寄せ、泣きそうな顔をする。
「依存なんか、…そ…ソンジュにはしていないよ、だって、――だってもう期待なんかしていないから、…確かにお…お母さんの、言う通り、…僕はきっと、ソンジュにもすぐ、…す、捨てられると思う、…」
「ユンファさんっ、俺はそんな…!」
しかしユンファさんは、俺のその否定の声が聞こえていないかのように、女に向けて寂しそうに微笑んだ。
「でも大丈夫、…ぼ、僕、これでも強くなったんだよ、お母さん、――お、お母さんに捨てられても、…ソンジュに、捨てられても、…お、お父さんが、いなくても、…誰もいなくなっても、だ、誰にも、愛されなくても、…っもう大丈夫、――もう誰にも期待していないから、…愛されたいとか愛されようとか、…お母さんにも、お父さんにも、ソンジュにも、ぉ…思ってない、――僕、…もう、一人で生きていける、…」
「……、…」
俺はとっさにはどうしたらよいかわからず、…ユンファさんのその悲しい言葉を愛をもって否定したいが、それをどう彼に――ましてやこの状況で、どうやって――示すべきなのか、情けないが、決めあぐねて立ちすくむ。
「はあ? ふんっ…どうせ…」と女が言おうとするのすら、ユンファさんは無理に笑いながら、たどたどしくも遮る。
「も…もう、誰のことも、っ愛さないから、僕は、――愛せない、あ、…愛して、ない、…愛していないよ、…依存なんかしていない、――ソンジュには依存しない、…もう、…もう誰も愛したりなんかしない、…お母さんも、お父さんも、…ソンジュも、…他の、誰のことも、――誰のことも愛していない、…ぜ、…絶対、絶対愛さない、…もう愛さないから、期待なんかもうしないから、…だから、い…いつ捨てられても、…もう大丈夫、…」
「どうせ無理。」と女がせせら笑う。
「そう言ったって、どうせもう依存してんのお前は。愛してないの? じゃあなんでこの人と結婚…」
「っ煩 い!」――ユンファさんが泣きながら叫んだ。
「煩い、…煩いんだよ、…してないよ、依存なんかしてない、愛してなんかない、――ど…どうしてって、……ぉ…お母さんが、…お母さんが、彼氏がいるって言ったら、…〝結婚しろ〟って、…言ったから……」
「だってーソンジュくん。」すると勝ち誇った顔をした女が、その不幸を悦ぶいやらしい藍色の瞳で俺を見やる。
「信じらんないよねー、こいつ君のこと愛してないんだってー。――ふっ…ご愁傷さま。そこまで言われたら流石にご破談…」
「いいえ。私は何がなんでもユンファさんと結婚をします。ユンファさんを愛していますから。――そもそも、彼にそう言わせたのは貴女だろう。」
俺はそう言い切りながら、後ろからユンファさんの冷えきった片手を握った。――そして真顔で女を凝視する。
「彼が人に、人の愛に期待出来なくなった原因は、貴女じゃないか。――これまでの貴女の母親らしからぬ振る舞いが、言葉が、彼にそんな悲しいことを誓わせたに過ぎません。――貴女は彼に自分自身を無価値だと思い込ませようとしているようだが、しかし私に言わせてもらえば、生まれた時からユンファさんには価値がありました。」
「は? 何の話かわからな…」
女のその嘲笑を俺は鋭い声でさえぎる。
「疑いようもなく、誰しもに愛されるべき価値がありました。勿論今もあります。――私はユンファさんほどの人と結婚が出来て、本当に幸せです。…却 って……」
と俺が斜め後ろから見たユンファさんは、伏せられた長いまつ毛の下で、その群青色の瞳を揺らしている。
「私が彼なしでは生きてゆけない。…つまり、私こそがユンファさんに依存しているのかもしれません。…そして――そうした私としては、是非ユンファさんにも自分に依存してほしいくらいです。」
「あんたさぁ」女が嘲笑する。
「こいつの依存気質は冗談になんないから。あんた、そういうこと軽々しく言うと後悔…」
「…私の依存気質も我ながら冗談にはなりません。」と俺はユンファさんの、その小さく震えている長い黒いまつげをじっと見つめながら遮る。
「こんなに素晴らしい人は絶対に逃したくないと、私はこれまでにも執念を燃やして燃やして、ユンファさんを追い掛け続けてきた。…それでやっと結婚が出来る、やっと捕まえたと思ったら…――また新たな弊害が。」
と俺はそう言いざま、鋭い嫉妬のまなざしで彼を見ている女をチラリと白けながら見る。…いい加減しつこい…――しかし女は彼に目を向けたまま、やたらと明るい調子でこう言う。
「ねーいいからもう別れてやんなよーユンファ、お互いの幸せのためにさぁ。――あんたがアルファならまだしも、能無し肉便器のオメガのお前じゃこの人とは分不相応。相手は九条家のおぼっちゃまだよ? 結婚するにしたって、もうちょっと自分の身の丈に合った相手を連れてくるかと思いきや、――はっ…あんたさぁユンファ、もうちょっと頭使ったら? 向こうのご両親だって、絶対あんたなんかじゃ結婚認めてくれないからね。」
「……、…」
女の目の前でうつむいているユンファさんの顔に、ふと弱気な不安がただよう。
すると女はほくそ笑み、上ずった声でつづける。
「ねぇユンファ…、ソンジュくんのこと、不幸にしたいの…? あんたとじゃ絶対幸せになれないんだよ、ソンジュくんは、九条家の人なんだから…――ほら、ママの言うこと聞いときな。あんた、もう誰も不幸にしたくないでしょう……」
「……、…」
するとユンファさんは俺にふり返らないまま、また伏し目のまま、しかし少しハッとした顔をした。
「そ、ソンジュ、…わ…別れよ…、別れよう、…や、やっぱり僕、…け…結婚なんか出来ない、――ね、ねえだって、…僕、ぜ、…絶対君を愛さないよ、…ふ、不幸だろ、そん…そんなの…、あ、愛されないなんて…、だから……」
「ええ。正直それには一理あるでしょうね。」
俺はユンファさんのその今にも泣きだしそうな顔を、斜め後ろから眺めながら、固い声でこう続ける。
「それもあればなお、俺はユンファさんを愛します。貴方を幸せにしたいから。…貴方には愛されずとも、それでもいつまでも…――俺は貴方を愛し続けます、ユンファさん。…しかし……」
俺はまた女を見やった。
女は彼を見て醜い悦びの笑みを浮かべている。
「いいんですかユンファさん。…この人が貴方の母親であろうが何だろうが、貴方の不幸を望むような人の言いなりになってはいけませんよ。」
「…はあ? あたしはみんなの為を思ってさぁー…」と女が、ニヤニヤしながらユンファさんを見て言う。が、彼はうつむいたままぼそりと……、
「…そう…だ…、もう…、…もう…うんざり…」
「え?」女は彼を見たままぎょっとした。
ユンファさんは顔を上げて女を睨みつけ、ほとんどこう叫んだ。
「っもうこれ以上はうんざりなんだよ…っ! ずっと思ってた、ずっと、ずっと、――お母さんの言いなりの奴隷になるのはもう嫌だ、僕はもう変わりたい、…」
「…何いきなり? あはは、ヒス起こして恥ずかしー。てかお前さぁ、まさか今更自分がまともになれるとでも思ってんの? この犯罪し…」
「犯罪者はお母さんもだろ!」
とユンファさんは女に怒鳴った。
……俺は、え、と思ったが、彼はガタガタ震えながらも、険しい顔をしてこう続ける。
「二千万、…ぼ、…っ僕のせいで逮捕された、? 僕があんたを不幸にした、? 名誉毀損、迷惑料って、…っど、どうして僕が、…っそれはあんたの罰金、――っあんたが自分で犯した罪を償うための罰金だろっ!」
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