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 二人で颯爽と女の家から出、そのマンションの地下駐車場に停めてある俺の群青色の愛車まで、俺たちのあいだには一切の会話がなかった。  なお俺はユンファさんの肩を抱いて足早に歩いていたが、それは彼のキビキビとした歩度にあわせてのものであった。  そして彼はその歩みのさなか終始やや顎をひいて、斜め下のほうを険しい、なにかを見下しているかのようなまなざしで眺めてばかりいた。またその美しい横顔には、冷徹に引き締まった鋭さがあった。  しかし、俺の高級車に分類される愛車――ベントレ――までたどり着き、そして、俺がユンファさんに助手席の扉を開けて「どうぞ」と着座をすすめたなり、彼は目を伏せたままその車に乗りこもうとしたが、 「……っ!」  ……「どうぞ」と自分でうながしたくせ、俺が唐突に彼の二の腕をつかんでぐっと強く引き寄せ、なかば強引にも抱きしめると、驚いたように息を呑んだ。 「…やっとユンファさんを抱き締められた…」と俺は何よりまず自分が安堵をし、そうした腹からの深い声でつぶやいた。  それから彼の片耳に唇をよせ、こう自責に低まった声でささやく。 「すみません、力及ばず…ユンファさんにはお辛い思いをさせてしまいました…。俺は貴方のことを護り切れなかった…――貴方とは、〝敵が誰であろうとも必ず護る〟と約束したというのに…、……ふぅ……」  俺は自分の不甲斐なさに失望をしてため息をついた。 「……、君って、完璧主義者なんだな……」とユンファさんが俺の耳もと、いささか呆れたふうのかすれ声で言う。 「別にあれくらいのことじゃ、もう今更傷付いたりなんかしないよ、僕は…、……」  それから彼は続けてそう言うと、するり…俺のスーツの胸板からその黒ジャージの胸板を離して、八センチの身長差ぶん俺の目を見上げた。――地下駐車場の薄暗さに、彼の気だるげな瞳は今青々と青色を深めている。 「なあソンジュ…、ふふ、」  しかしユンファさんは俺の目を見てすぐ、少し勝ち気な感じに笑うのだった。 「ありがとう。…だが、どうして君のような()い男が、僕なんかを…、……」  俺は何かを言いかけたユンファさんの唇を、斜めから優しくふさいだ。――そして目をつむり、彼の力の抜けたいっそうやわらかい唇を、ゆっくりと、まったりと食む。 「……ん…、……、…」――ユンファさんの色っぽい鼻から抜けた声が、ただ広い駐車場に反響する。彼の唇は俺と同じうごきでこの唇を食みかえしてくる。  ……が、…それも数回ばかりで、ユンファさんは逃げるように後ろに二、三歩引くと、背後の助手席にすとんと座り、さっさとその細長い両脚も車内にしまいこむ。 「…はぁ……、…セックスしたくなるからこれ以上は駄目。」目を伏せてそう言いながら、彼の両手はシートベルトを装着するのに忙しくしている。 「ふふ…、それでは行きましょうか。……」  ……俺は助手席のドアを丁寧に閉めたのち、片手にもっていたアタッシュケースを後部座席に置いてから、自分も運転席へと乗り込んだ。――  その後まだそれなりに時間に余裕があったので、一旦はまず闇金事務所へと向かうなか――借金完済の証明書(および領収書)を受け取りにいくため、電話でユンファさんにアポを取ってもらった――、俺は車間距離を広めにたもちつつ、前を走る黒ワゴンの背を追うようにして車を走らせながら、 「ところで…俺の我儘(わがまま)で実の母と縁を切れだなどと、差し出がましいことを言ってしまい、申し訳ありませんでした。…我ながら短慮(たんりょ)であったかもしれませんが、――しかしどうしても忍び(がた)かったんです、俺は、…俺はもうあの(ひと)にあれ以上、大切なユンファさんを……」  大切な貴方を傷付けさせたくはなかった――との俺の言葉を察したらしいユンファさんが、「いや…」と少し苦笑いをふくませた静かな声でさえぎる。 「ソンジュがああしてくれなかったら、きっと僕は永遠に、あの(おんな)と絶縁することは出来なかったと思う…――正直、実は随分前から、僕ももう縁を切ろうとは考えていたんだが…――だが…どうしてだろうな…、本当、どうしてなんだろう……」  ふと横目に見やったユンファさんは、ながれる昼下がりの都内の街中を映しだす窓外をぼんやりと眺めながら、…つまり真隣の俺には斜め後ろからの白い片耳をむけ、その顔にうかべた表情を俺から結果的にかくしながら、自分に呆れているような、悲しい小声でこう言を継ぐ。 「もう随分前から、離れるべきだと考えてはいたんだよ…。それこそ小さい頃からかなり酷い扱いを受けてきたし、…そもそもあの人、正直全然まともじゃないだろ、…実の息子に体売らせて、それもおっさんに犯されている息子を目の当たりにしても、心を痛めるどころか(かえ)って愉悦に浸っているような母親だ…――あの人には暴力も脅迫も、本当数え切れないくらいいろんなことをされた…――まああんなのから生まれて、あんなのに育てられた僕も、当然まともじゃないんだが……」  ユンファさんは「そもそも…」と嘲笑する。 「お母さんさ、実はさっき嫉妬していたんだよ。――息子の僕の幸せを願うとか望むとか、そんなタマじゃないんだよあの女は…――たとえば、僕がこういうジャージとか、飾りっ気のない服以外を着ているだけで駄目で、〝お前なんかにそんなの似合わない、恥ずかしいから着替えてこい〟とか言うし…、本当、面倒臭いだろ。…」 「……それで…か…、……」  それでユンファさんは今日、黒いジャージのセットアップで…――俺は彼のその選択からしてまた悲しいものを見、しかしそれ以上なにを言ってよいかもわからないで、ただ閉口してしまった。 「何より、自分の彼氏より僕の彼氏の方が上玉だと見るなりすぐ寝取ろうとして、それも成功したらわざと僕に喘ぎ声アンアン聞かせてさ、――あるいは失敗しても、〝あんなヤバい人が母親とか無理だわ〟って、結局別れられる……でもお母さんにしてみたら、どっちであろうが〝成功〟なんだ。要は僕から上玉の彼氏を奪えればいいんだから……」  そして彼はさらに諦観したような小声で、 「僕も僕でもうだんだん慣れてきてしまって、それでお母さんが満足ならもういいやって…、それで、なかば自分から彼氏を献上するような感じにもなっていって…、……」 「…これはあの女に言うことですけれど、…人ってそこまで醜悪な存在になれるものなんですね…、もはや驚きすらありますよ……」  とあくまでもゆるやか、おだやかな安全運転をしながらも、俺は思わず眉をひそめた。  しかしユンファさんは「殺したいほど憎い相手になら、みんなそんなもんなんじゃないの」と、深く落ち着きはらった声で言うのだ。 「そう…だから…、九条家のお坊ちゃま、背の高い金髪青目のイケメン、立ち振る舞いも完璧ってくらい優雅でスマートで、…何より、それこそ僕のためなら死ぬんじゃないかってくらい愛情深くて、バカみたいにどこまでも優しい、若いアルファ男――嫉妬どころかお母さん、さっきはきっと、あわよくばソンジュに乗り換えようとさえしていたと思うよ。…あのときうまく寝取れていたら、それこそ今の彼氏なんてポイ捨てするつもりだったんじゃないか。」 「…ええ、まあ…万が一にも有り得ませんけれど。――ゲイというの以前に、健全に仲良くするだけで俺の方が死んでも御免ですから、あんな女。…というか俺、恋愛的及び肉欲的な意味合いでいえば、ユンファさん以外にはてんで興味もないですし。」  と俺は慣れた手つきでハンドルを切り、左折しながらさらりと吐露する。「は、」とユンファさんが嗤う。 「それでも今までは、それなりに上手くいくことも多かったんだよ。…どうやっていたんだかは知らないが…――ふぅー…、……」  そしてユンファさんはギッと座席の背もたれに背をあずけ、「きっと…」と小さな声で言う。 「あの女はきっと、はじめから僕の母親ではなかったんだろうな…。あの人が僕に望んでいたものは単純といえば単純で、エリートだった自分の人生を滅茶苦茶にぶち壊した、オメガの僕の不幸…――つまり僕が地獄で生き、そこから決して這い上がってこないこと…――そしてそこでもがき苦しんでいる僕を、高みの見物をして悦に浸ること…」  彼は「それはずっとわかっていたはずだったのにな…」と寂しそうにつぶやく。 「それなのに、いざお母さんの顔を見て話をしてしまうと…いつも…――それでもさ…、あんなのでも僕の家族はお母さんだけだったし…、小さい頃から、それこそ一緒に暮らしてきた中で、何度も首絞められたり、包丁突き付けられたりとか…、殺されそうになったことさえ何度もあったけど…――それでもどうしてか…、お父さんと一緒に暮らしていたときまでは、機嫌さえよければ〝普通のお母さん〟だったから……」 「……、…」  俺の唇にぎゅっと力がこもる。  こんなに悲しい話があるだろうか。  心から嫌えれば、恨めればどれほど楽だろうか。――しかしそれを許さない「甘いまやかし」が、鬼と観音のどちらの顔が「まやかし」なのかを迷妄させる。  それは相手が親であり、自分が子どもであればこそである。  子どもの純真さを逆手に取って好き放題している残酷な、悪ければ残虐な親、それでも実の親を完全なる鬼だとは思えない――思いたくない、悲しい子ども心……俺は必ずユンファさんを幸せにしなければならない。 「離れているときはもう縁切ろうって、借金だって、僕がやろうと思えば罪に問うことだって出来るくらい不当な、それこそ借金とも呼べないようなもんなんだって、そうわかっていたというのに、――結局、駄目だったんだよな…、お母さんの顔を見ると、…結局僕はちっぽけな弱い人間だから、」  ユンファさんは声を震わせながら、しかし強いて笑ってこうつづける。 「大変だから…、お父さんと別れることになってしまって、お母さん自身が不幸になって…――というか僕が、彼女を不幸にしてしまった原因だから…――そりゃあ恨まれて当然だよな、とか…、とにかく、彼女は精神的に追い詰められていて、だから、…だからおかしくなってしまって、…だから…」  だから、だから…――必死に自分の母親を正当化し、必死に自分の母親をかばい、必死に、必死に母親の自分への愛を(こいねが)――子どもの「無償の愛」を裏切ったこの世の親どもは、どうしてそれでもなお平気でいられるのだろうか?  ……俺のハンドルを握る両手にこもった力が、ギリリとそれの革をきしませる。 「だからああいう酷いことを僕に言ったり、やらせたりするようになってしまったんだって…、…それで、…だから僕が頑張れば、お母さんの望み通りの人間になれればというか、お母さんの言うことを聞いていれば、いつかは認めてもらえるんじゃないかとか、…だから、何て言うの…――だから結局、期待して…縁を切るのが怖かったんだよ…、僕は……」 「…うん」とだけ俺は相づちを打つ。浅慮な肯定も否定もしない。ただ、聴いているよというのだけは示したい。――ユンファさんは少し嗤っているような声で言葉を継ぐ。 「だから…僕は…、なかば自分からあの女の言いなりの奴隷になって、…自分が今までどれだけ酷いことをされてきたのか、酷いことを言われて…求められて……、そして本当に情けないが、自分がどれだけ馬鹿にあの女の言いなりの奴隷になってきたか…――それが頭では痛いくらいわかっていても、…気持ちは追い付かなかったっていうか…」 「…それは当然ですよ。大丈夫…、……」  俺は前を見たまま、ユンファさんの太ももの上にある片手を、上からそっと握った。  彼は「ふっ…」と自嘲の含み笑いをこぼした。 「…きっと今日も、…もう期待するのなんか()めようと、何度も何度も心に決めたはずなのに…――金持ちのアルファと結婚しろって、小さい頃からずっとそう言われ続けてきたから…――だからソンジュを連れて行ったら、ひょっとしたら……喜んで、くれるんじゃないかって…、認めてくれるんじゃないかって…、…この結婚を機に、また昔のお母さんに戻ってくれて、もしかしたら親子関係が…良くなるんじゃないかって…――きっと僕は、心のどこかで…薄々、そう期待していた、…性懲りもなく、ね、…」  ユンファさんは「ほんと馬鹿だろ」と震えた声で、自分を嘲笑った。 「でも結果はアレだ、…予想通り嫉妬して、結婚するなって…ああやって、妨害してきただけ…――はは…、流石にいろいろ言い返したかったが…、それなのに、僕はお母さんの前だと…いつも昔の自分に戻ってしまうんだ…、何もかもにビクビク怯えて、情けなくおどおどおどおどして、誰かの指図に従うしか出来なくて、愚図で、能無しで、弱虫で、搾取されるしかないオメガで、――でも、もう変わりたかった、」  そしてユンファさんは、嗚咽をこらえているような声でこう続ける。 「強くなりたかったんだ、僕は、強くなりたい、…誰に何を奪われても、どれだけ傷付けられても平気、…愛とか無くても平気、…嫌われても恨まれても、平気な顔をして、一人で生きていけるような、…むしろ僕が奪ってやるくらいの、自分のこと以外どうでもよくて、自分のことしか考えていない、そういう…――どうせいつか消えてなくなる愛に縋らなくても、平気で生きていける人…――だから、それとは正反対の、過去の自分とはもう、いい加減もう、おさらばしたかったんだよ、ずっと、…ずっと前から、…」 「…貴方はもう十分強いよ。」  強いが――俺はユンファさんの片手をぎゅっと握った。 「しかし、一人で生きると選択することや、誰かから何かを奪える力があること…――それはたしかに貴方の強さだが、その強さはいかにも(もろ)い、諸刃(もろは)(つるぎ)に過ぎません。――孤軍奮闘というのは、そう長く続けられるものではないんです。」  しかし…ず、と鼻をすすったユンファさんは、ふと力ない小さな声でこう言うのだ。 「なあソンジュ…――結婚、やっぱりやめよう…。金は絶対返すから、それこそ誓約書でも何でも書くし、絶対逃げたりしないから…――その上で僕たち、別れた方がきっと…お互い幸せに……」 「嫌だ。」俺は赤信号をじっと()めつけながら、そう固く断じた。 「何があろうとも絶対に別れません。――そして俺は何がなんでも、絶対にユンファさんと結婚をしますよ。…」 「でも…」 「貴方は〝お互いに〟だなどと言うが、言わせてもらえば、俺の幸せは最愛の人である貴方と結婚をすることなんです。――それと、金も一銭たりとも俺に返さなくて結構です。そもそも俺はその金を、貴方に〝貸した〟わけではありませんから。」  俺がこのように固い声――聞きようによればいささか怒っているかのような低く固い声――で、あらためて固い決意をユンファさんに示すと、彼は「は…」と短くほとんど音のないため息をついてのち、こう小声で言う。 「…ソンジュにとっての僕は〝最愛の人〟なのかもしれないが…―― 一方で僕の方は、決して君を愛しているわけじゃない…。僕は君を愛しているからプロポーズに応じたわけではなくて、…僕は…、……僕は、あの女に結婚を急かされていたから、…ただそれだけの理由で、君と結婚をすると…、そう言っただけなんだ…、だから……」 「……、…――。」  ――ふと俺の脳裏に、初デートの折、プラネタリウムで聞いたユンファさんのあのセリフがよぎった。 〝『たとえ…どれほど君が僕を追い掛け続けたとしても、君は永遠に望んでいるものを得られない…。望むだけ無駄だ…、それこそ、例えば今後…僕と君が付き合うことになったとしても…――』〟 〝『――僕は絶対に、永遠に君を愛さない…。』〟  俺はあのとき「それでもいい」と思った、いや、そう固い覚悟を決めたのであった。  それでも俺は貴方を愛そう――永遠に貴方を愛し続けよう。  貴方のためならば、俺は喜んで永遠の眠りにつこう。  仮死状態――生きてはいるが、欲はない。  貴方がこうして俺の側にいてくれるのならば、俺は自分の欲をも永遠に眠らせよう。  ――この甘い夢が永遠に見続けられるのならば、俺は自らの自我(エゴ)を冬眠させても何ら惜しいことはない。  もっともユンファさんの「永遠に愛せない」だの、「母親に急かされていたからというだけの理由で」だのという言葉を、俺も完全に真に受けたわけではないのだが、しかし、…俺は赤信号をじっと見つめたまま、強がって――しかし事もなげなふうを装って――、前歯を少しあらわに笑った。 「それでも構いません。貴方が俺の側に居てくださるのならば…――。」  (とも)る青に、一斉に前と左右の車が動き出す。  当然俺もゆるやかに自車を発進させた。    ××× お久しぶりです…! 皆さま、いつも本当にありがとうございますm(_ _)m さて、Xやブルスカでも「突然引っ越すことになっちゃったので、更新がまばらになるかも〜〜」などと抜かしておりました鹿ですが、思いのほか引っ越してのちにやることが死ぬほどあり、更新がまばらになるどころか、しばらく全く小説が書けねぇ日々がつづいてしまっておりました(白目)。 以前言っていたことと違う感じになってしまい、本当に申し訳ありませんm(_ _;)m 正直引っ越しっつーもんを舐めていました。引っ越しは人生二度目です。学べ。 ほいで、ひとまずはあら方片付き、今日からやっと復帰!という感じなのですが、ちょいちょいまだやることが残っていたりなんだりするので、今度こそ……本当に……多分……更新がまばらになるかも〜〜! でもなるべく(執筆に詰まったりしなければ…)三日ごと更新できる期間もあるはず〜〜! なフェーズに入れたはず! もうこれ以上ふわふわしたこと言うなあ!! すみません……。 ※あとめちゃくちゃ久しぶりに小説書いたせいで、案の定すっかり書き方忘れてました。誰か助けてくれ。 そ、そんなわけで…ひとまずはただいま…! マジですんませんでした…今後ともぜひよろしくお願い申し上げます。 🫎藤月 こじか 春雷🦌

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