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 そのあとは予定どおり、俺とユンファさんとは闇金事務所に立ち寄ったのであったが――こちらのほうは思うよりたやすく事が片づき、それこそそこでの滞在時間はおよそたったの十分程度、といったところであった。  それはもともと電話で借金の完済証明書を取りにいきたい、と事前にアポイントメントを取っていたためであろうが、先方も俺たちの到着前にそれを用意してくれていたようで――するといかにもオフィス的な一室の一画、パーテーションによって簡易的に仕切られた先の、対面する二台の二人掛けのソファの片方に、俺たちは並びすわっておよそ三分程度待たされた。  それからほどなくして現れたのは、この事務所の(かしら)と思われる体格のよい、いささかガラの悪い感じの中年男性であった。  男は現れてすぐ立ったまま「ほらよ」と、その完済証明書(兼領収書)を、俺の隣にすわっているユンファさんに手渡してきた。  そして対面するソファの中央にどっかりと、大股開きのやや横柄な姿勢ですわった男は、俺には目もくれずユンファさんだけを見すえて、真剣な顔をした。 「お前きっちり金は返したんだ、もう付きまとったりしねぇから安心しな。…まあしばらくはウチのが最後に一発ヤらせろっつってうるせぇかもしんねぇけどよぉ、…ガハハ、しゃーねぇべや、おめぇなかなかいい体もってっからな。…でももういいぜ、全部無視しな。――で仕事はどうする。…あえて続けてぇってんならこっちとしては歓迎すっけども、別にもう辞めてもいいぞ。」 「辞めます」  ユンファさんは男をまっすぐに見て、真顔でそう即答した。  俺は彼のその返答をいささか意外には思ったものの――彼は常々どうなろうが仕事はつづけたい、と口にしていた――、それはあくまでも彼が選択することに違いなく、またそもそもその件で何かしらもの申すつもりも毛頭なかったので、黙っていた(これで彼にもし養ってくれと言われても、俺はもちろん喜んで、と答える心づもりはかねてよりあったのである)。 「そうかい、わかった。今までご苦労さんだったな。」すると男は潔くユンファさんの退職を認め、どことなく人懐っこい豪快な笑顔でこう言った。 「おめぇには随分いい思いもさせてもらった。…これからはお天道さんの世界で頑張んな。まあ幸せになれや。――もうこんな世界には二度と来るんじゃねぇぞユンファ、わかったか。」 「……はい、お世話になりました。」  とユンファさんは深々と頭を下げた。  ……そしていくらかの短い、事務的な説明を受けたのち、俺たちは拍子抜けするほどあっさりと、この事務所を後にしたのであった。――  それから俺たちは、ユンファさんの父親の家へ向かった――のだが――実はその道中にかかってきたある一本の電話、それをきっかけにして起こったある展開によって、俺だけがその人の家に行くこととなった。  ……もっとも俺としては、そのなりゆきにかえって安心しているくらいではあったのだが。  というのも俺の車に戻ったなり、ユンファさんはカチカチと奥歯が小さく鳴るほど震えはじめ、また動悸も起こしていた。そして彼自身も「何か震え止まんない…」と、自分のそれに困惑しているようであった。  すると俺の脳裏にはある危惧がよぎった。  まず母親がアレである。…するといくらその女とは別れているとはいえ、父親のほうもともすれば何かしら問題のある――ユンファさんが会うに多大なるストレスを感じるような――人柄なのかもしれない。  ……それならば、――結婚の挨拶となればいささか奇妙ではあるが、――ここはユンファさんの精神の安全をとって、俺だけでその人に会いにいくほうがよいのではないか。  そう心配まじりに考えていた矢先の、件の電話である。  そしてそののち、俺だけが彼の父親の家へいく運びとなったことには、俺は内心ひそかに安堵していたのだった。  さて――。  俺はユンファさんの父親に、「ユンファさんはなぜ罪に問われたのか」との質問をした。  その実、そうしてそれとなく探りを入れたのだった。――俺はいまだ彼の父親のことを信用してはいなかった。  というのも、母親の名字は月下だが――ユンファさんは引き取られた母親の名字をもってはいるが――彼の父親の名字が、「五条」であったためである。  五条家は九条家と肩をならべる名家のうちの一つだ。  その人は彼の母親(前妻)こそ過剰に体裁を気にし、頭にあるのはそればかりで息子のユンファさんをないがしろにしてきた、いや、むしろオメガ属として生を受けた彼のことをしいたげてきた、と、そう俺に話して聞かせた。  しかし、名家とされる五条家にうまれた父親とて、多かれ少なかれ体裁を気にしているはずである。  実際九条家も「過剰に」というまでのことはないにせよ、やはりある程度はどうしても名家としての振る舞い、名家としての体裁というものを意識しなければならない立場にある。そしてそのことはもちろん、その家にうまれた俺もよくよく理解していることである。  すると父親とて本当は、あの女と同類なのではないか。  名家・五条としての面子(めんつ)を気にしているからこそ、あえて前妻のみを悪者に仕立て上げようと、あのように極めて悪しざまにその女の話を俺に話して聞かせたのではないか。  とどのつまりが――この父親もまた、過去ユンファさんのことを虐待していたのではないか。  ましてや父親の家に向かおうというさなか、ユンファさんは車内でまた怯えたように震えはじめていた。――すると彼には、父親のほうにおいても、何かしらのトラウマがあるのではないのか。  俺はその疑惑の真偽を確かめておきたかった。――もし本当にそうなのであれば、ユンファさんを護るため、今後父親のほうも極力彼に近寄せないつもりなのである。  そこで俺は「ユンファさんはなぜ罪を犯したのか」とその人に尋ねた。  女の言っていた「もみ消し」が事実であれ虚構であれ、この父親が何も知らない、などということはまずあるまい(もっとも逮捕された被疑者が成人している場合、必ずしも親に連絡がいくわけではないのだが)。  俺がそう考える理由は二つある。  まず一つに、やはり父親が五条家の人間であるからだ。  五条家にうまれた者が逮捕されたともなれば、警察が連絡してくる・こないにかかわらず、その情報はいち早くその家の者、ひいては父親の耳に入ってきたはずである。――なぜなら、そうなれば家の沽券(こけん)に関わることであるため、対処するにおいて後手に回るようなことがあってはならないからだ。  ……すなわち名家の者は、そのような情報には人一倍耳(ざと)いものなのである。  そして二つ目に、そもそもあの女の性格をかんがみれば、まず彼の犯した罪を父親に言わなかったはずがない。  なぜといえ、あの女は憎いユンファさんを(五条家の)恥さらしに仕立て上げたいようであったから、それこそ彼が明確に罰されるべき罪を犯したともなれば、さながら鬼の首でも取ったかのように、欣々(きんきん)と報告したにちがいない。  したがって父親が彼の罪を知らない、という可能性はほとんどあるまい。と俺は考えた。  ……もっとも俺の聞いた「なぜ」までは知らない可能性はあろうが、だからこそ俺はその質問をしたのである。  ユンファさんの罪そのものは把握しているが、「なぜか」は知らない――それならば本当のことかもしれない。  またその「なぜ」をも含めて知っているのならば、いよいよ「シロ」だと判断できよう。  しかし、これでもし知らぬ存ぜぬの態度をその人が取るようならば、俺は「クロ」だと判断を下そうと思っていた。  ……俺がすでにユンファさんは罪を犯した、と知っている上での質問をしているにもかかわらず、それでなお息子の罪を隠ぺいするようなことがあれば、その人も五条家の威信をたもとうという下心があるに違いない、とそう考えたからである。  そして――案の定であった。  その人はあたかも素知らぬ顔をして、息子の罪など知らないととぼけたのである(もっとも彼の妻に関しては、本当に知らないのかもしれないが)。  さて……その後俺は追及の意味あいもこめて、この家に来る前にあった出来事――女やユンファさんとの会話、主には彼の罪についての話を父親とその人の妻に、しかし表向きはおだやかに、そのすべてをありのまま話した。  そうしてひとしきりの俺の話が終わると、さなかはほとんど黙って、ときどき相づちを打ちながら真剣に話を聞いているのみであった父親が、やがて大きな男らしい両手で、センタープレスの確かな黒茶のスラックスをまとう膝頭を両方つかみ――俺に向けて深々と頭をさげてきた。そして、 「申し訳ありません。」と彼は唐突に、震えた声で俺に謝ってくるのである。 「…私は先ほどソンジュさんに、嘘を()いてしまいました。」  そう深々と頭を下げたまま告白する隣の夫に、彼の妻は驚いた顔を向け、言葉もなく息をのんでいる。 「……嘘を…?」  と俺は正直、いまだ父親のそれをさえ体裁を取り(つくろ)うための謝罪なのではないか、と疑いながら、そうその人の言葉の先をうながす。 「はい。本当に面目ないことです…」――父親は頭を上げないままそう答える。 「…知らないようなふりをしてしまいましたが、本当は…、…私はユンファの罪を無かったことにしてやりたかったんです…――いえ、あの子が犯した罪が消えてなくなることはありません。しかし……」 「……、…」  俺はその人のゆたかな黒髪の生えそろう頭頂部を凝視しながら、彼の言葉の先をまった。  彼はこみ上げてくる涙に喉を押し上げられたような声で、こうつづけた。 「九条家の御子息である貴方がユンファの罪を知れば、ご破断になってしまうのではないかと、……せっかくやっと幸せを掴んだユンファの、その幸せを、…私は……」 「……、…その件に関しましては…ご安心ください……」  俺はそうかすれた低声(ていせい)で言いながら、内心反省しているところがあった。  ……ほだされてはならない。これだって狡猾なやり口のうちの一つかもしれない。――そうは思えど、…俺はその親心を、計算のうちに入れ忘れていたのだ。  いや、とまれかくまれ…――。 「私はユンファさんの罪を知った上で、こうしてお父さまとお母さまの元へ、あくまでも彼の婚約者としてご挨拶に参りました。――すなわち、彼と結婚をするという私の意思はそれでなお固いということです。」  そして俺は「ところで遅ればせながら、どうぞもう頭を上げられてください」と言い添えた。  するとユンファさんの父親はおもむろに頭を上げたが、「それならよかった、」と涙声でいいざま、赤くなった泣き顔を両手でおおい隠し、うなだれた。  そして彼はそのまま、何度も何度も俺に頭を下げながら、こう言うのだ。 「ありがとうございます、…ありがとうございますソンジュさん、本当に、――どうかユンファのことを、どうかよろしくお願いいたします、…」 「……はい…。……」  ふと見やると、彼の隣の妻は夫を心配そうなまなざしで眺めながら、その人の肩を優しく撫でさすっている。  しかし彼女は本当にこの件を知らなかったのだろう、――俺はあの女から聞いた、「不起訴処分に持ちこんだのは彼の父親である」という話を、そのまま口に出していたため――、疑念と困惑とに揺れた不安げな調子で、しずかに夫にこう問う。 「ねぇあなた、本当なの…? その…ユンファくんの…、…ユンファくんの罪を…あなたが……」  すると父親は水っぽい鼻をすすりながら、「ああ、」とあっさりそれを認めた。  彼はスラックスのポケットから取り出したハンカチで目もとをぬぐうと、赤い濡れた目で妻を一瞥(いちべつ)してから、俺をまっすぐに見すえた。 「ソンジュさん、…ユンファは…――ユンファは確かに、殺人未遂の罪を犯しました、――だが、」  そこで息を大きく吸い込み、胸をふくらませたその人は、怒っているような顔をした。 「だがユンファは何も悪くない。あの子は本当に何にも悪くないんです。…私は(ゆる)せないんだ、――いまだに赦せているとは言い難い、申し訳ないが、――向こうの男を、私はいまだに憎んでいます、正直に申して、…憎くて憎くてたまらないんです、…」  そしてその人は、その「もみ消し」についてのあらましを俺に聞かせてくれた。  ユンファさんが事件を起こした直後、自分のもとに前妻からその旨の連絡があった。  なおそれは現在の妻と出会う前のことで、彼女は本当にその件を何も知らない。  自分は拘置所におかれたユンファさんとの面会を許されてすぐ、彼に会いに行った。  そしてどうしてそんなことをしたのかと、ユンファさんに尋ねた。――すると彼は自分に、その「どうして」の話を素直に聞かせてくれた。  しかしそれの内容はあまりにもむごたらしいものであり、そもそもユンファさんが殺人未遂を起こしたこと自体、事情を聞きただせば無理からぬことと思わせるようなものであった。――すると、自分がユンファさんの父親であるという贔屓(ひいき)目を抜きにして見ても、自分はとてもじゃないが息子を責めることはできなかった。  むしろ被害者とさえいえるユンファさんが罪に問われ、それを償わねばならなくなるのはおかしい、とさえ感じられた。――かえって自分は、被害者の男に対してこそ処罰感情をいだいたくらいであった。  しかしそのときは男の処罰を望むより、ユンファさんが罪に問われないということのほうが、自分にとっては大事なことであった。  そこで自分は、息子がなんとか不起訴処分(起訴猶予)を得られるようにと手を尽くした。――もっとも法外なことは一切していない。  まず国内屈指の弁護士団を雇い、また被害者側には名家・五条の名をもちいての直接の謝罪を踏まえ、示談交渉をもちかけた。  はじめ被害者側は居丈高の態度であったが、男がユンファさんにしてきた行為の「事実確認」を取ると、とたんに萎縮し、多額の示談金を支払うということでの示談に応じた。――またかつ男は、嘆願状を提出することにも応じた。  ……男が彼にしてきたことは、間違いなく男も罪に問われるような内容であったのである。  そして、その結果ユンファさんは弁護士たちの有能さや、被害者の(あくまで表向きは、だろうが)処罰感情のなさ、また情状酌量をふまえた上でかつ、自分が彼の更生の環境も完全なものを用意したために、不起訴処分を勝ち取るにいたった。  もっとも、五条家の名がその勝利に影響したのだろう点は否定できないが、しかし、誓って自分ら側は法に抵触する行為はしていない。  と…――その話を聞いた俺は、話しているさなか終始険しい顔をし、ほとんど俺を睨みつけるようにしながら、それでいてときどきその鋭い切れ長の目から涙をこぼしていたその人…――お父さまへの疑念を、晴らした。  その被害者だという男の所業を聞けば、なるほど「ユンファは何も悪くない」というお父さまの意見に全く同感ではあったが――俺はある事情から、途中でその話をそらし、ひとまずの結論をうながしたのであった。 「……私も」と俺は、彼を真顔で見すえながら言った。 「お父さまと立場が同じであれば…、あるいは、同じことをしたかもしれません。」  これは同情からきた言葉ではなかった。  本心からそう思ってのことであった。  ……しかしお父さまは俺を見据え、真剣な顔をゆるく二度横に振った。 「いえ。もし、万が一、今後そう思えるようなことが起きたとしても…――間違っても貴方は、ユンファのために、そのようなことはしてはなりませんよ。そのときにはまた私が。――これはなかば罪滅ぼしでもあるんです。…父として、私がせめてもあの子に出来ることが、本当に情けないが、…それだけだった。」 「……お父さま」  今度は俺が、彼にゆるく二度首を横に振って見せた。 「〝それだけ〟ではありません。――これから先、貴方がユンファさんの父親として彼に出来ることは、きっとまだまだあります。――ですからどうぞ、諦めないでください。…どうか彼のために。」  俺がそう真剣に、頼みこむように言うと、お父さまはいささか苦しそうな顔をしたが――ややあってから、眉尻を下げて笑った。 「はい。…はは、――しかし、先ほどにも言いましたが、私はユンファに嫌われています…――あの子が私を拒み続ける限り、私は…悔しいが、諦める他はないんですよ…、…それこそ…どれほど私が和解したくとも、どうにもこうにも……」 「……ふ、…それはどうでしょうね。」  と俺はご夫妻に微笑みかけた。 「――ユンファさんはその実、()()()()()()()()()()()()()()()()()から…――あるいは……」

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