95 / 96
92
俺の脳裏にふと想起されたある記憶――「悪い魔法使い」――「ある王子様とお姫様の幸せな御伽噺 」……あのときユンファさんが俺に聞かせたその話は、やはり彼の実体験に基 づくものであったのだろう。
「でも…ある時、」とユンファさんは目もとを片腕で隠したまま、そしてその無理な微笑をうかべた口もとを震わせながら、こう話す。
「〝会社に借金をしてることがバレないように、闇金融 から借り入れをしちゃった。でも返済が追い付かなくて、このままじゃボク、そのうち二度とユンファのところに帰ってこれなくなるかもしれない。だから連帯保証人になってくれない?〟って、泣きついてきたから…――連帯保証人になってあげた。」
「……、…」
俺は眉をひそめながら、しかし黙したまま、再びユンファさんの両肩の裏を抱きよせた。――しかし彼は、今度は俺の背中を抱きしめ返してはくれず、泣いているような笑っているような慄 えた声で、
「で……そのまんま、捨てられちゃった、…はは…」
そしてユンファさんは「ねえこれ、ねえソンジュ、これは笑い話だからね」と、無理に笑いながら定義するのだ。――まさか、俺はとてもそう思えやしないが、…彼は自分を守るために強 いて「笑い話」だと定義しておきたいのだ。それをわかっているから、何も言わないでおく。
「つまりさ…そのおじさん、全く家に帰ってこなくなって…、取り立ての人が来て、風俗にトばされて…、アパートもおじさん名義だったから、結局引き払うことになって…――まあ幸いといえば幸い、店の寮があったから、僕はそこに入って、生活切り詰めながら必死こいて金返してたけど……」
と語るユンファさんの声に、極めてかすかな涙の吐息が含まれている。
「僕は馬鹿だったから、それでもまだ信じていた…、その人の愛、…いつか自分を迎えに来てくれるはずだとか、…ここで頑張っていれば、きっとまた一緒に暮らせる…――きっと、結婚出来る…――だってその人だけだったから、自分を愛してくれたの…、僕を助けてくれたのは、その人だけだった…、僕の唯一の希望の光だった…、だから、諦めきれなくて……」
「…………」
俺がいるのに――今はもう、俺が……しかし、そう切なく、悔しく思おうとも俺はわかっていた。
今ユンファさんは「過去」にいるのだ。そして少なくとも過去の彼にとっては、その男ばかりが唯一の希望の光であったのだ。彼は今、「現在」にはいないのである。――ともすれば、今は俺の前には…ここにはいない、とそう言ってもいいのかもしれない。
「でも…当たり前だが、待てど暮せどその人からの音沙汰は一切無し…――それで、探した…。闇金の頭 に自分でも金借りて、その金で探偵頼んで…――そうしたら見付けたよ…、見付けたけど……」
俺は気遣わしくおもむろに腕を立て直し、ふと見下ろした。
やはりユンファさんの目もとはその人自身の白い片腕で覆い隠されていたが、ちょうどそのとき、彼の皮肉な笑みをうかべたふくよかな唇の、その口角がもっと痛ましくつり上げられた。
「正直金借りるとき、頭にもやめとけって言われていたし…、探偵にも会いに行かないほうがいい、そのほうがお互いのためになるって言われた…――でもやっぱり諦めきれなくて、全部わかっている上で、会いに行った…、そうしたら……」
そう…――ユンファさんは声をはなはだ慄わせて、しかしやはり嗤いながらこう言った。
「〝悪いけど帰ってくれる? 彼女のお腹の中には新しい命が宿っているんだ〟って…ふふ、――でも、それでも僕はしつこく食い下がって、その人と何とか二人きりで話した…――でね…」
「うん…」
ユンファさんは白い端整な前歯を、その赤い唇から少し覗かせて嘲笑う。
「その彼女、社長令嬢。おじさんが務めていた会社の社長の娘で、凄い美人で、僕なんかよりずっと頭いい人。アルファの……おじさんは平社員だったけど、お互い一目惚れして、付き合うことになったんだって…、〝運命のつがい〟ってやつだったんだってさ…――だから、ブランド物を身に着けるようになったのは、その彼女と釣り合うように、だったみたいで……、はじめは僕が稼いだ金で、…でもだんだん足りなくなっていって、…で、借金は…彼女とか彼女の両親にバレないように、闇金……はは、まあそりゃ、アルファっぽい中途半端なオメガより、アルファの女の人のほうがいいに決まっているよね、きっと…誰でもそうでしょ……」
「いいえ…、俺は…」
と俺のその言葉をやや神経質に制するように、ユンファさんは無理に笑わせた唇ではぁ…と息を吸いこんだ。そして「それで…」とか細く慄えた息を吐きながら、やはり自嘲 って続ける。
「その時…その人に何て言われたと思う? ――〝まさか本気にしてたの?〟って…――〝悪いけど、ボクはユンファのことを一度も恋人だとか思ったことないよ。愛してるとかは全部大人のお遊び。つまり全部ウソだったってこと。ていうか恋人にあんな酷いことさせると思う?〟って嘲笑 いながら言われて…――〝君はボクにとってのカ ワ イ イ オ モ チ ャ だったんだよ。まあ君と遊ぶのは楽しかったよ。それはありがとう〟って……」
「……、…、…」
俺の両目に熱い涙がのぼってくる。
これは悲哀の涙ではない。――怒りの涙である。
お父さまは言ったろう。――ユンファは何も悪くない。あの子がその男を殺そうと思ってしまったのだって、何ら無理からぬことである、と。
俺にも全くその通りだとしか思われない。
それでもユンファさんはその唇で皮肉に嗤ったまま、こう続けた。
「〝でもも う オ モ チ ャ は 要 ら な い から、悪いけど、これっきり二度と関わらないでくれる? ボク、赤ちゃんをカードにして、やっと高嶺 の花の彼女と結婚出来るんだ。彼女と結婚出来たら、ボク、仕事も家庭も何もかも、いわゆる男の幸せの全部を手に入れられるんだよ。だから邪魔しないでほしいんだよね。…ね、ということで今までありがとう。まあユンファはユンファで頑張ってね。幸せになりなよ〟ってさ…――それで僕…その時、全部…壊れて…、我ながら、おかしくなっちゃって……」
「……、…、…」
どうしてユンファさんを責められるだろう?
お父さまがどこまで聞き及んでいるのやらわからないが、彼もまたそう思ったに違いなかった。
たとえ誰に何を言われようとも、厳罰に処されるべきはよっぽどその男のほうだと、俺もそう思えてしまってしょうがない。
ちなみに俺は、過去ユンファさんが殺意をさえいだくほど憎んだこの男の話――彼がその男にされてきたという、あまりにもむごたらしいこの所業の数々――を、お父さまが語っていた途中にそれとなく制止したろう。
それは言うまでもなく、その話をユンファさんに聞かせたくなかった――それによってその辛い経験をつぶさに思い出させ、彼を苦しめたくなかった――ためである。
だが、結局こうして彼本人に話させてしまっていては、かえってこのほうが残酷なのかもしれない。――といって俺はきちんと聞いてあげたい。…彼一人では到底抱えきれるはずもないこの過去を、俺は彼と一緒に背負いたいのだ。
耳も、目も、口も、塞 がない。
ユンファさんはここでそっと、自分の目もとに置いていた片腕を退かし…――うつろな黒紫の瞳で、じっと俺の蒼白く発光する瞳を見上げた。しかし彼の口辺には、人形のように凍りついた微笑がうかんでいる。
「僕、その人のストーカーになっちゃった…。まあ遠くから付き纏 って、ただ見ていただけだけど…――でも…あんまりにも奥さんと幸せそうでさ…、二人で子供の服とか買いに行って、笑い合って…――正直…嫉妬した…、…憎くて憎くて堪らなくなった…、…だからその内その人を殺して、自分も死のうって…、そう本気で考えるようになっちゃって……」
「……、…」
ユンファさんのガタガタと慄えている両手が、おもむろに俺の首へ伸びてくる。――ひやり…冷えきった彼の両手の指先が、俺の首の後ろに触れる。
彼は俺をじっと見るうつろな黒紫の瞳からほろりと涙をこぼし、それをつ…とこめかみへ伝わせながら、ふっと微笑した。
「だから…寝ているその人の首…絞めてやった」
「……、…」
俺はぼう然とした。
俺の首を包みこむユンファさんの熱い手のひらは、手でつくる蝶 の影絵のように、ちょうど俺の喉仏でその親指を交差させている。――だが、首を絞められているわけではない。
まるで俺の喉仏にとまった蝶が、やわらかな翅 をゆっくりと羽ばたかせているさなか、その翅で俺の首を包み込むようにそこに触れている…――それほどに無力な、また俺が少しでも動けば、たちまちその蝶はふっと飛びたつだろうと思わせるような、…人を殺そうというにはあまりにも力ない彼の両手は、今に振り払うのもきっと容易である。蝿 や蛾 のようになおも付きまとうようなこともないだろう。
しかし容易ではあるが、俺はなぜか、微動だにしないよう努めている。
ユンファさんは俺の喉もとに両手をかけたまま、また儚く微笑したままに、俺の目を見つめるその切れ長の目から、またはらりと涙をこぼした。
「奥さんが出産で里帰りしてるときを狙って…――夜、その人の家に忍び込んで…、はは…――でも、駄目だった…」
「…殺せなかった……?」
俺はガッカリしながらそう尋ねた。
ユンファさんは「うん…」と、涙に濡れた顔の微笑を美しく深めた。
「…それで…捕まって…、お父さんに迷惑かけて、何とか不起訴処分にはなったけど…――もう、止 めた…。その時、もう止めようと決心した…。愛に縋るのとか、期待するのとか…愛されたい、とか…、幸せになるの、もう諦めた…――だって…、その人に捨てられて僕に残ったものは、多額の借金と、変態マゾの性癖と、救いようのないセックス依存症…、それだけ…――軽蔑しかされない…その負債だけ……」
そしてユンファさんはふと諦めたように、その涙の小さな雫 がやどった長いまつ毛を伏せ、うつろな人形の微笑顔となる。
「でもさ…それは、僕が愛という幻想に縋るような…、無いものねだりをするような、弱くて馬鹿なオメガだったせい…――誰かのせいじゃないんだ…。結局僕が、もともとクズだったってだけ…、だから……」
す…とユンファさんの両手が俺の喉もとから引いてゆく――俺は思わず、その手の甲を押さえて引きとめた。
「殺して」思わずそう言っていた。
「……、…」
ふとユンファさんが驚いたように目を上げ、俺を見る。
ともだちにシェアしよう!

