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――俺はユンファさんに、言ってはならないことを言ってしまったのかもしれない。
あるいは、そうではないかもしれないが――。
俺が思わずユンファさんに「殺して」と言ってしまったなり、その人の顔色はみるみると青ざめていった。
そして、彼はにわかに「うっ…」と呻 きながら口もとを片手でおさえ、俺のことをぐっと恐ろしい力で押しのけるが早いか、ベッドから転がり落ちるようにして下りると――本当はトイレか、あるいはキッチンのシンクかへ行きたかったのだろうが、それも間にあわず――、ベッド下にあった円柱型のゴミ箱を酷く焦った手つきでたぐり寄せてすぐ、それへ顔を伏せ、…そのまま嘔吐 してしまった。
……俺はそのときとっさには喫驚 のあまり固まってしまったが、すぐさま自分もベッドから下り、床に膝をついて、「大丈夫ですか、」と声をかけながらユンファさんの丸まった背中を撫でさすりはじめた。
……気分が悪くなっていては当然だが、異常なほど脂汗をかきはじめた彼ははぁ、はぁ、と苦しげに喘 ぎ、かと思えばうっと呻いて、…そして、再び喉もとへまでのぼってきたのだろう胃の中の不快な灼熱を飲み下すように、何度もゴク、と喉を鳴らした。――しかしそれでも抑え込みきれず、その後もしばしば嘔吐してしまう始末であった。
それこそ窓外が白むまで――胃液をさえ吐ききるまでそのような状態であったユンファさんに、到底セックスなど続けられたものでなかったことは言を俟 たない。
……もちろん彼につきっきりで介抱していた俺も俺で、それにガッカリするような余裕などはなかった。というよりか、そんなことは本心からどうでもよかったのだ。当然そんなことより彼の体調が最優先である。
ただ俺はユンファさんの介抱をしながら、ふとこうした考えを巡らせていた。
――もしや俺のせいではないか?
俺が「殺して」と言ったなり、ユンファさんはたちまち青ざめていった。そしてにわかに吐き気をもよおし、実際に嘔吐するまでに至った。と、どうもそのように思われる。
……するとともすれば、俺はそのセリフをもって、彼の何かしら触れてはならないトラウマを刺激してしまったのかもしれない。
しかしあるいは、そうではない可能性もある。
というのは、そもそも焼肉という胃腸に負担の大きい夕食であったばかりか、かててくわえて彼は飲みすぎではと俺が心配になるほど、そのとき大量の酒を飲んでしまってもいた。――するとそれを要因とした嘔吐ではない、とも言い切れない。
ましてや酔っている人というのは、いつどのようなタイミングで吐き気をもよおすかはわからない。…悪ければ寝ているときに、無意識に嘔吐してしまうようなパターンさえあるくらいである。
もとより俺が不用意であったと考えておいたほうが、無難ではあるものの……――。
さて…いずれにせよ、朝方になってやっと吐き気が落ちつき、多少の水分補給もできるようになってから眠ったユンファさんは、その日の昼ごろに目を覚ました。
すると今度はひどい二日酔いに悩まされていた彼は、ベッドの上にぐったりと横たわったまま、俺にこう言ったのだ。
「ソンジュ…、なあ、昨日の僕のことは忘れてくれ…――と言ってもまあ、正直…何も覚えていないんだが……」
……そうである…――俺の目にはわりにしっかりとしているように見えていたが、あれでもユンファさんは相当酔っ払っていたらしく…――翌日に残っていた記憶はというと、聞けば両家で夕食をとっていた焼肉店でのことまで、…以降は朝方近くの嘔吐のさなか、気がついたら床に座り、ゴミ箱のふちを両手で掴んでそれに顔をふせていた(ついでに俺に介抱されていた)自分、そのすさまじい吐き気…――そこから後のことは覚えてはいるものの、しかし、ひと際酔っていた(らしい)帰宅から嘔吐にいたるまでのあいだの記憶はない、とのことであった。
とすると…俺に聞かせてくれたあの過去の話、それを話していたことをさえも、ユンファさんは覚えていないのか?
あるいは気まずいのでなかったことにしたいだけか…、とも思いはしたのだが、それにしてはあまりにも酷い二日酔いに苦しめられて、二日ほどもまともな飲食さえままならなかったユンファさんに、なるほど少なくとも酩酊していたことは事実であろう――すると「覚えていない」というのも、大いにあり得る話であろう――と、俺は考えるにいたった。
ちなみにユンファさんは二日酔いの酷いなか、すなわちあの激動の結婚挨拶の翌日のうちに、「僕を養ってくれるか」と俺に聞いてきた。
まあその理由こそ、客相手という煩 わしさのない理想のフリーセックスを叶えるため、というようなものではあったが、しかし俺は「勿論」と答えた。――ただ俺はそのとき「(俺が拒否したら)また働き口を探そうとでも思っていたんですか?」と尋ねた。
言うまでもなくユンファさんは、前日に仕事を辞めていたからだ。――ところが聞くところによれば、彼はその実、借金を返すために仕事をかけ持ちしていたらしいのである。…俺は初耳であったが。
つまり、在籍を強制されていた闇金事務所にかかわる店とは別に、もう一店舗勤め先があった、と。
もっとも俺が「勿論(喜んで養いますよ)」と答えたため、ユンファさんはそちらの店においても辞職し、今後は専業主夫となることが決まった。
とまれかくまれ、そうして俺たちは結婚した。
なお俺たちの結婚後、程なくしてあの女――ユンファさんの実母――は逮捕された。
もちろん女は初公判から幾度かの裁判で容疑を否認し、無罪を訴えて闘 ったが――しかし証拠も十分、かつ九条・五条の厳罰を望む嘆願書もろもろがあってはなお――その甲斐 もなく実刑判決を下され、今は刑務所のなかである。
……そしてユンファさんは被害者としての証言を求められて裁判に出、そのさなかこそ驚くほど淡々としてはいたものの、しかし事の一切が片付くと、さすがの彼も肩の荷が下りたらしい安堵の表情を浮かべていた。
しかし、そのひと山越えたのち――俺たち夫夫の仲はよりいっそう堅固なものとなるかのように思われたが…――俺たちの新婚生活は、俺が想像していた数倍も過酷なものであった。
まずユンファさんは結婚後、ある時から俺たちが新居として購入したマンションの一戸、いわば俺たち夫夫のその「愛の巣」に、ほとんど毎日セフレの男らを連れ込むようになった。――それも夜には必ず俺と彼とで眠る夫夫のベッドの上で、その男らとセックスをするようになったのである。
……するとその件、交際中のようにユンファさんの口から話して聞かされるだけであったならばまだしものこと、その「現場」に直面することもしばしばとなった俺のストレスは――そして嫉妬心は――当然倍増した。
それも俺はしばしば、ふとした拍子に顔を合わせる間男らに負け犬だなんだと直接愚弄 された。
いや、それは――最愛の夫である、ユンファさんからも。
俺は結婚をするまで、それでもまだユンファさんの愛を信じられていた。
彼が俺に対して「愛していない、愛せない」と言うのは、悲しい過去の経験によるもの――きっと本心ではない、きっと本心では俺のことを愛してくれているはずだ、きっといつかは…――、俺は密かに、そうした希望を心のどこかにもち続けていた。
しかしその希望も、日を追うごと徐々に薄れていった。
ユンファさんは俺と共に暮らすようになると、次第にひどく高圧的で冷酷な人になっていった。
もちろん夫の俺を愛しているような素振りは一切見せない。
それどころか俺を馬鹿にする間男どもと同じような辛辣 なセリフを俺にぶつけ、ほとんどいつも間男らの側 に立ち、すげないのはいつものこと、それでもすり寄ってくる「犬」の俺を時たまいたずらに甘やかすようなこともあったが、それは夫というよりも飴 と鞭 を使い分ける「飼い主」の気まぐれ、あるいはまだ利用価値のある俺を、首輪とリードに繋いでおくための「企 み」として、…というようであった。
とはいえ、その「飴」のときでさえ、俺には「愛してる」など愛情を示すようなセリフは言わない。ただし絶対に、ではないが――馬鹿にしたような「愛してるよ」ならばないことではなかったからである――。
……いいや。思えば俺はこれまで、それこそ交際中においてさえも、ユンファさんから「愛してる」とはたったの一度も言われたことがない――。
ところがユンファさんは、しばしばセフレの男らには抱かれながら「愛してる」と言った。――だがそれはどの男にも言うことである。…いや、正確には「俺以外の」どの男にも、というべきだが。
では、なぜユンファさんは男らに「愛してる」だなんぞと言うのか?
……それは間違いなく「自分の利益のため」であった。彼はそのためならば、誰に甘い媚態 をさらすのもなんら厭 わない。狡 い人なのだ。――それでいて本当は、「誰か」という存在はさほど必要ではない。
俺はユンファさんと結婚をするまでは、それとは真逆のことを考えていた。
しかしいざ結婚をして共に暮らしてみると、俺の考えは次第に変わっていった。
ユンファさんは誰にも頼らなかった。
それは俺の両親や自分の父、もちろん夫の俺にも、誰にもである。――彼は結婚後はなお精神的な弱さを俺にも、誰にも見せることはなくなった。
ユンファさんはいつもしたたかであった。
したたかで、狡猾 で、シニカルで、高圧的であった。
また実際的な何か、たとえば俺がたまには家事炊事の何かしらを手伝うといっても、彼はそうした日常的な小さなことさえ俺に頼らず、甘えず、全てを一人で完結してしまう。
気がつけば家庭のタスクは全て片づいている。――それこそ先ほどまで間男とのことで乱れ、汚れていたベッドでさえ、俺が寝るときまでにはその妖しい気配のかけら一つ残さず、ホテル様相というほど完璧な、清潔極まるベッドメイキングが済んでいる。
彼の家事炊事は神経質なほど完璧であった。
しかし、そうしてユンファさんは完璧な家事炊事はしてくれたが、たとえば夫の俺とは共に食事をすることのほうが稀 、会話もセックスの前後ばかりと少なくなり、それこそ夫夫というよりか、性欲発散に合意のある「同居人」といったほうが正しいような有り様であった。――もっとも俺たち夫夫がそのような生活スタイルとなってしまったのは、俺がしばしば朝から晩まで執筆のため自室に引き籠もっているなど、俺のほうにも要因があってのことではあったのだが。
俺はその状況を申し訳なく、また非常に寂しく思い続けていた。
しかしユンファさんはというと、どうもそうではなかった。何ら平気そうであった。いやむしろ、間男どもと会う時間が増えるから、と、それを是としている節さえ垣間見えた。
ユンファさんは俺が思うより非常に、また十分にしたたかであった。
およそ俺がいなくとも生きてゆけるだろう、と俺に寂しく思わせるほど、彼は――まるで俺の文句を封じるように――やるべきことを完璧にやりおえたなら、あとは自分の楽しみたいことを楽しみたいように、楽しみたいだけ満喫しているように見えた。
そうしてユンファさんはいつもどこか他人行儀に、また一分の隙もないほど完璧に、自由を満喫しながら、俺という新しい家族、すなわち夫と、あまりそれらしくなく暮らした。――しかし、ともすれば交際前・中よりも、俺たちの関係性は冷え込んでいたといえるだろう。
ユンファさんはまず俺を必要とはしなかった。
しかしセフレの男らにおいても、一見は必要としているようで、厳密にはそうではない。――簡単にいえば「とっかえひっかえ」であったからである。
少しでも気に食わないことがあるか、あるいは飽きたらすぐに縁を切り、新たな男を、…いや、新たな「男体を」探して縁を繋いだ。
誰かに求められねば生きてゆけない?
ユンファさんのその言葉さえ、俺は次第に疑わしくなっていった。――本当にそうだろうか?
セックスによって得られる快楽、その享楽のため、ただそれだけのために切っては繋ぐ淫らな縁――俺の目にはそう見えはじめていた。
もっともユンファさんはたしかに、――あのとき彼自身も言っていたが――誰かに「愛される」ことを望んでいるふうではなかった。
それこそ、セフレの男がその一線を越えた想いを彼に抱いたとわかるなり、彼は鬱陶 しげに即座縁を切ったのだ。
では、夫の俺には――?
「ソンジュと結婚してよかったよ」と彼は嗤いながら言った。
「金はもってるし、好きなときに好きな人と好きなだけセックスさせてくれるし…こんなに都 合 の い い 犬 、他にいないよ」と。――「君みたいなアルファと結婚するために猫かぶってよかった。…〝可哀想なオメガ〟だとでも思っていたんだろ? ふ、同情で結婚までして、…ああ、あとは僕の体と顔に惚れたんだっけ…? でも挙げ句、今やお偉い君は僕の〝犬〟なんだもんな。ほんと御愁傷様 。」
しかしユンファさんは、しばしばこうも言った。
「別れたい」と、冷ややかな目をして。
「やっぱり一人で生きていくほうが気楽なんだよな…。…結婚していると、それだけでセフレとの出会いも制限されるし。――ねえ、別れて。」
そう言われた俺は必ず「嫌だ」と答えた。
……俺はそれでもユンファさんを愛していた。
いや…俺は縋っていたのだろう。
結婚する前にかいま見た彼の甘い態度に、庇護の思いを募らせる弱さに、尋常から外れる理由づけには十分な彼の悲しい過去に…――幻想的な彼の愛に、俺は縋っていたのだろう。
そして、自分の誓いにも囚 われていたのだろう。
僕は永遠にソンジュを愛さない――それでも構わない、それでも俺は貴方を永遠に愛しつづける…――俺は有言実行を主義とする男だった。
また、自分の主義を曲げることを酷く嫌う男でもあった。
しかしいずれにせよ、結婚後のユンファさんは俺に対しても誰に対しても、あまりにも冷徹な人となった。
いや、ともすれば、これまで俺が見てきた彼の顔こそが虚像、…それは俺の恋心が見せていた、はたまた彼自身も俺という男を利用するために俺に見せていた、甘い幻想であったのかもしれない――すなわち本当は、そもそも彼はそういう人であったのかもしれない。と俺もまた、次第に冷ややかな見方をするようになっていった。
なるほど俺は、どうやらユンファさんには本当に愛されていない。――悪ければ、「愛されていた」ことさえもない。
だが俺は、それでも愛する美男子を求めつづけた。
そして彼に――犬、…悪ければほとんど奴隷のように――尽くしつづけた。
お人好しの馬鹿な旦那、間抜けな男、腑抜 けた負け犬…誰に、ユンファさんに何と言われようが呼ばれようが、…それでも愛されたいから…――それでも、俺ばかりは彼のことを心から愛しているから…――何にしても俺の望みは叶った、ひと目で惚れ込んだ美貌の人との結婚、出逢いのときすでに望んだその念願の結婚、…何にしても、何にしても有り難いことだ、奇跡的なことだ、それでも大切にしなければ……。
まだ愛している――だから嫉妬をするのだ。
だから――俺の「牙」が、疼 くのだ。
……何度夢を見たか知れない――。
どんな顔をするだろう?
馬鹿な負け犬の俺が突然牙を剥 いたら、これまで俺のことを「間抜け」だと見下していた男らは、…ユンファさんは、どんな顔をして見せてくれるだろう?
いっそつがいにしてしまおうか。
約束? ――俺はもう十分それを厳守してきた。
もう十分だろう。
もうそろそろ俺は限界だ。
何度夢見てきたことだろう――。
檻 の中での企みの成功――避妊具 のない性交、愛する美男子の生白いうなじでの咬合 、俺の咬毒 に侵 されてゆく美男子の肉体――あくまでも貴方は、…
貴方は…俺の…、…
……しかし――俺を思いとどまらせるものがあった。
ユンファさんが憎かった。
白状をすれば、近ごろ俺は彼が憎くて憎くてたまらなかった。――だがそれでも、…愛していた。
愛していたのだ。
愛しているのだ。
四六時中憎むほどに――それでもなお、その身の安全を願うほどに。
そう…俺は…――。
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