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「……はぁーー…――。」  と深いため息をついた俺は今、一人ソファに腰かけ、そして上体を前にたおし、大きく開いた膝の上に左右それぞれの(ひじ)をのせて、うつむかせた自分の顔を両手で覆っている。  なお、ユンファさんは今浴室でシャワーを浴びている。――それは彼を抱くとか抱かないだとかはもはや関係なしに、まず精液だの汗だのにまみれた体を清めないことには、あの見るに忍びない痣や手首の痕やに薬が塗れないから、と、俺が急かすようにして勧めたことだ。――『まずはシャワーを浴びてきてください』と。  ……もっともユンファさんはそのとき、足下にいる俺を見下ろして寂しげに微笑しながら、 『わかった…。そうだよね、汚いもんね…、これじゃ、君も触りたくなんかないよね…――すぐに出てくるから……』  と…俺が、彼を抱くに必要だからまずはシャワーを浴びてきて、と求めたかのように(とら)えていたのだが――いや、俺がそのとき理由をそえず、「浴びてきて」としか言わなかったのも悪いのだろうが――、…しかし俺は『そうじゃありません。薬を塗るためです』ときっぱり真意を伝えることをもって、彼のその勘違いを正した。  するとユンファさんは『そっか…』と、微笑はしたまま、しかし悲しげに目を伏せた。 『抱いてくれないんだ、やっぱり…――ね…、でも、じゃあせめて……』  ふと彼の小刻みに横揺れする紫の瞳が上がり、じっと俺の目を見つめてくる。 『キス、して……』 『…キス? ……』  俺はつい煩わしげに眉をひそめてしまった。…それで仮にも俺が喜びを見せたなら、また馬鹿にして笑うのだろうに。――ユンファさんは俺のその嫌そうな顔を見たなり、にこっと笑った。 『キスも駄目か。いや、そりゃそうだよな、さっきまであの人のちんぽしゃぶってた汚い口だし。…そうだ…でもじゃあ、抱き締めるのは。――ねえソンジュ、抱き締めて。』  そして彼は笑顔のまま、『ほら、早く』と下にいる俺へ、両腕を広げてみせた。 『ぎゅーって、思いっ切り。十秒だけ。…ほら、ほら抱き締めていいんだぞ。大好きな僕のこと、』 『いいえ…悪いけれど、そんな痣だらけの体では…』俺は彼のそれをまた、呆れた冷ややかな目で見てしまった。  するとユンファさんは『あはは…』と、可笑(おか)しそうにその切れ長の目を細め、破顔した。 『なんてね、…はは…今日は君、いやに賢いね。全然引っ掛からないんだね、――何か、…何かつまんないな、…折角からかってやろうかと思っていたのに、――はは……』  そして彼は眉をひそめながらそう笑うと同時に、すっと立ち上がった。 『じゃあ、シャワー浴びてくる、…あ、』  しかしユンファさんは歩き出す前に、俺にこうやや早口に言い置いた。 『ごめん、まだ寝室片付け終わってない…、ベッドも酷い状態だし…――でも出てきたらすぐやるから、…食べてて、君が食べ終わるまでにはちゃんと綺麗にするから…、……』  そして彼はそれだけ言うと、浴室へ向けて歩いて行った。…震えている脚のせいかおぼつかない足取りで、壁を支えに。  ――以前の俺ならば、そうして弱った様子のユンファさんにすかさず近寄り、抱きしめるなり介助するなりをして、その人に優しさをかけたことだろう。  ましてやキスをして、と言われたなら、たとえその唇に男との口淫の名残りがあろうともキスをしただろうし、抱き締めて、と言われたなら、痣だらけだろうとも気遣わしい力加減で、優しく彼の体を抱きしめたに違いない。  だが今の俺は、そうしなかった。  心のどこかで自分の冷徹さに幻滅しながら、多少の罪悪感に眉間を曇らせながら、…それでもほとんどは、俺を愛さない夫を、あんな男を愛している夫を、(うら)みながら――。 「……、…」  俺はふと思いたち、ローテーブルの上に、はだかのまま置かれているたばこの黒い箱を手にとる。  そして、それから取り出した一本の黒いたばこの先をあさく(くわ)え、オイルライターで火をつける。…それをくわえたまま、唇のすき間からふーーと白濁した煙を吐きだす。――オイルライターをテーブルの上へ放り出す、カシャンと粗雑な音が立つ――すぐに人差し指と親指とでフィルターをつまみ、唇からその甘いたばこのふちを離す。  だが離してもなお、甘ったるいバニラの香りが俺の鼻先にまとわりついて、鬱陶(うっとう)しい。 「……〝嫌だったから〟……」  俺は独りごちた。伏せた目をテーブルの上のガラス灰皿へ――その透明な浅い器のなかに汚らしく散らばった、男や夫やの十本あまりの吸い(がら)――向けながら。  なぜユンファさんは、自分の体があれほど痛ましいあざだらけとなるほどの、男の暴虐的な行為を許したのか。――彼はそれに『嫌だったから』と答えた。 『何が、』とそのとき俺は、責めるように()いた。  するとユンファさんはあのうつろな表情のまま、ソファの下に――彼の足下に――膝をついて座っている俺を見下ろし、そして、静かなかすれ声で俺の追及にこたえた。 『自由を制限されるのが、嫌だったから。――だから〝嫌だ〟って言った。…あの人…僕と二人きりの時にも、〝ソンジュだけ中出し禁止〟だとか言ってきたんだよ…――でも僕は、〝そんなの悪いけど興奮出来ない。そもそもソンジュは関係ない。嫌だ〟って、答えた……』 『……、…』  俺は唇を薄く開けたまま、言葉を失った。  驚いたのもある。――つまりユンファさんはあのとき、男のその勝手な命令を拒否したというのだろう。 『そうしたら…』とユンファさんはささやくような声でつづけながら、ぼんやりとした目つきで俺を見下ろしたままながらも、その口もとに微笑をうかべた。 『お仕置き、されたの…――〝肉便器の癖に生意気なんだよ〟って……』 『……、…、…』  俺の唇が、顎が、震えながら小さく開閉する。  ……俺は聞いていただろう。――男がユンファさんに下した「中出し禁止」の命令、そのセリフを、俺はこのリビングで立ち聞きしていた。――いいや、  俺は「そのセリフまで」を、ここで聞いていた。――そしてその直後、俺はここから立ち去った。  ……立ち去って、しまった。  どうせこんなのはプレイだ、ともすればユンファさんはその命令に応じるかもわからないが、だとしても彼のその承諾は所詮その場限りのもの、あくまでも「男との刹那(せつな)的なプレイ」という範疇は守られるに違いない。――すなわち彼は、その場でこそそんな驕僭(きょうせん)な命令にさえ唯々(いい)諾々(だくだく)と服そうとも、実際には俺にまでそのような要求はしないはずだ。  なぜならば過去、俺はたったの一度もユンファさんから、そのようなことを言われた試しがなかったから…――それどころか、…  彼はしばしば、その「隔たり」のない行為を、俺に求めてきていたから――。  しかし、俺はそれに応じなかったが。  結婚をしたら、そのあとにはたまにでも何の隔たりもなくユンファさんを抱く――俺は折々そう言っていたくせ、実際にはまだ一度もそれに応じていなかった。  ……ただの陰湿な当てつけだ。ユンファさんを少しでも不安にさせてやりたかったのだ。――彼がおよそそうすれば不安になるのだろうことはわかっていて、いや、それだからこそ近ごろの俺は応じなかった。  その不安があれば、きっと夫の目は俺にばかり向くはずだ。  ……しかし、それによってユンファさんの目が俺に向くことはなかった。――彼はいつもそれなら別にそれでいい、という屈託のない態度であった。  ……いずれにせよ、そうして俺はしばしばユンファさんに隔たりのない行為に誘われてきた。すなわち「中出し禁止」と男の誰に言われようが、彼はそれを無視して、俺ともスキンのない行為をしようとしていた。――これこそが俺の持ちうる「根拠」である――だからプレイルームと寝室、その両室のあいだの隔たりもまた決して侵されやしないと、俺は確信をもっていたのである。  そして、俺はそのある種の安堵感をもって、あのときこのリビングから立ち去った。  ――まさかユンファさんが、男の命令をその場で拒絶するとは(つゆ)ほども思いいたらず、――そして彼のその拒絶に(げき)した男が、その人の肉体を酷烈に殴打(おうだ)することをもって、憂さ晴らしついでに己れの並外れた加虐欲求を存分に満たそうとは…――あの男がまさかそこまでの、人を人とも思わぬほどの猟奇(りょうき)的な欲求をもったサディストであったとは、予想だにせず、…いいや、  思えば前々からその兆候はあったじゃないか、  あの男と寝たあとのユンファさんの体には、いつもどこかしらにあざや傷があったじゃないか――。 『……、…』  もし、と俺は揺らぐ瞳を伏せながら後悔した。  ――もし俺があのとき、あとたった五分でもあの場に留まっていさえすれば、あるいは夫に加えられるその暴行にも気がつけたかもしれない。  そうしたら俺は、「約束」だのなんだのはこの際反故にしてでも、きっと迷わずに寝室に入った。――すなわち男のその暴虐を、さすがにそれはやりすぎだ、と止めに入った。  止められたはずだった。  あと五分…――あとたった五分、あのときの俺が耐えてさえいれば…――あの男に、ここまでユンファさんの体を傷つけられずに済んだかもしれなかった。  ……あと、五分…――。 『……、…』  俺は目を伏せたまま、悔しい思いで奥歯を噛み締めた。――今彼に対して(うと)む思いがあるとはいっても、だからといって暴力を振るわれても傷つけられても構わない、俺はさすがにそこまで冷酷にはなれない。 『ね、ソンジュ…』とそこでユンファさんが、またやたら甘ったるいささやき声で話しかけてくる。 『あの人ね…僕のこと、本気で孕ませたいんだって…、孕め孕めってあんまりしつこくてさ…――それで今度、排卵日に…あの人の家、来いって…、僕は嫌だって、さっきは答えたけど…、そうしたらあの人、もっと激怒しちゃって…――それで、はは、…もっとボコボコにされたんだけど……』  そして彼は『ねえ…』と、まるで何かを恐れているかのような小さな声で、俺にこう伺ってくる。 『僕…行っても…いい…? ソンジュ……』 『……、…』  俺は伏し目のまま、苦々しく眉をひそめた。  何も答えなかった。いや、答えられなかった。――駄目だ、行くな。…俺はそう思っても、あの「約束」があっては、それを言うことを許されていない。  俺が断腸の思いで「構わない」と答えるか、あるいはこうして沈黙するほかないことをわかっていてそれを聞いてきたユンファさんは、要するにまた俺をからかっているのだろう。 『ふふ…』彼がどこか寂しげに笑う。 『勝手にしろよ、行きたいなら勝手に行け…そう言いたいんだろ、君は…――さっきも別に孕ませていいって…そう言っていたし…――それはつまり…あの人の家に、行ってもいいってことでしょう…、…それで僕が妊娠しようがしまいが、関係ないし…――そうなったら別れたらいいだけ…、僕なんて、面倒事と一緒に捨てたらいいだけのことだから……』 『いや、そういうわけじゃ…』  ない、と俺は、依然彼を見ないしかめ面のまま、そう反論しようとした。  しかし、まるでそれを聞きたくないとでもいうかのように、ユンファさんはなぜかやわらかな微笑を含ませた声で、 『じゃあ、君にもう一つ質問。』  と、楽しげなクイズでも出すかのように、さえぎった。 『あの人、〝他の奴がお前のまんこを使っていいかどうかを決めるのは俺だ〟って…――〝肉便器は肉便器でも、お前の体は旦那のモンじゃない、俺の所有物だから〟…だってさ…、そう、よく言うんだよね……』  そして彼は、『はは…』とどこか弱々しく笑ってから、こうそっと尋ねてきた。 『……ソンジュ…、どう思う……?』 『……、…』  俺は思わずはたと目を上げ、ユンファさんを見上げた。――彼の俺を見下ろすその美貌には、困ったような儚げな翳りが差している。 『ど、どうって……』――俺は困惑した。  どう思うか?  ――貴方に言っていいというのか?  先ほどからそうだが、――あの「約束」を破っても、いいというのか?  俺の本音を許してくれると?  本当に? ――罠ではなく? ――俺に(てい)よく離縁を切り出すための、策ではなく? 『……、…、…』  俺は動揺した視界でユンファさんを見上げ、口を薄く開けたまま、固まっていた。――本当に?  ……そうした俺をしばらく眺めていたユンファさんは黙っていたが、ややあってから『ふふ…』と、両端の下がった眉をひそめながら笑い、ふと諦めたように長いまつ毛を伏せた。 『どうも…思わないよね、別に…君は…』 『……思います…けど……』  俺はつい、我知らずそんなことを口にしていた。 『そりゃあ、俺だって思うところは、…その実、…思うところは数え切れないほどたくさんありますけれど、――だが、…俺はそれを言えない、…言うことを許されていない、――何故なら、貴方との〝約束〟があるから……』  そして俺はユンファさんにそう言った。  ――あの「約束」とは、たとえばリボンで飾りつけられた外装のなか、密かに俺たち夫夫の足を縛り付けている輪ゴムであった。――少なくとも俺は、キツく二人の足に食い込むその輪ゴムを外したい、としばしば考えていた。  痛むほどキツくそれに縛り付けられている。  そして輪ゴムほど固く縛りつけるものがあっては当然、お互いの(とげ)はしばしばお互いの肌に突き刺さり、そうして俺たちはお互いに血を流しあっている。――しかし、リボンくらいゆるい拘束力ならばあるいはそれも軽減される痛み、いや、傷つけ合いなのかもしれない。  ……本当に?  ――本当にそうだろうか?  リボンだけで本当に事足りるだろうか? それだけで本当に(ほど)けやしないだろうか?  その輪ゴムに緊縛(きんばく)されているからこそ…――だからこそ俺は、愛する夫と離れないで済んでいるのではないのか?  いや、だとしても、俺たちは本当にこのままでいいのか――。  この頃そう思い悩んでいた俺は、…では、一方のユンファさんは?  ……「約束」という単語を口に出すことで、それとなくユンファさんの本心――彼がその「約束」について、今はどう思っているのか――を聞けるのではないか、そう期待していた。    しかし…――。 『……、…』  ユンファさんはそれには何も言わず、ただうつむいていた。  何かもの憂げな無表情でうつむき、またその伏し目は、彼の足下にいる俺よりももっと下へ向けられている。つまり彼は俺のことを見もしない。 『…………』  ……俺は何も言わない彼に失望した。  もうあんな「約束」は守らなくていい。…彼の口からその言葉が聞けることを期待していなかったといえば嘘にはなるが、その言葉が聞けなかったそれ以上に、俺は彼の無返答に怒りめいたものをも感じた。  たとえば「そうだよね」の一言だけでもよかった。  たとえばいつものように、俺を嘲弄するのでも何でもよかった。…返答の内容はともあれ、「約束」について何かを言ってくれたなら、その実俺は何だってよかった。  ――あの「約束」で俺のことを縛りつけたのは、貴方じゃないか。…だのに貴方が逃げるのは、(ずる)いじゃないか。  ユンファさんのこの無返答は、俺の目にひどい無責任と映ったのである。  ……俺は腹立たしかった。  もう彼の返答を待てやしなかった。  それで俺は彼にこう言ったのである。 『いえ、もう何だって構わない…、もう結構ですから…――まずはシャワーを浴びてきてください』  ……ただ俺のそれは、なかば今はもうユンファさんと一緒にいたくない、という忌避感からの言葉でもあったとは、今の俺が気がついたことである。 「……ふーー…、……」  俺はたばこの煙を、わずかにすぼめた唇からゆるやかにふき出した。  とにかく腹が立っていた。  だから当てつけのように、俺はつい先ほど寝室へ行き、その部屋にこもったおそろしい陰気を開いた窓の外へ追い出して――猥雑(わいざつ)としていたベッドのシーツを替え、かけ布団を替え、まくらカバーを替え、――神経質なほど完璧なユンファさんのするそれには及ばないながら、ベッドメイキングを済ませた。  ユンファさんはシャワーから上がり、俺が夕食をとっているあいだにそれを終わらせるから、と言っていた。――だが今は、彼にそれをやってもらうことさえ何か癪であった。 「……、…」  俺はテーブルの上、吸い殻の溜まったガラスの灰皿に、なかばほどまで減ったたばこの先端を押しつけ、執拗にねじくり、そうして火を消した。  そしてすっくとソファから立ち上がる。――いつもキッチンの食器(だな)の上に置いている、薬箱を取りに行こうと思い立ったのである。  我が家には、こういうときのための薬が常備されていた。  たとえば打撲(だぼく)用、あざ用、すり傷用、等々――それは俺との結婚後、わりに早い時期からユンファさんが、ことサディスティックな男らと関係をもつようになったためである。  まあ、なかにはそうではない男もいるにはいるようだが――この頃の彼はわりに頻繁に、サド男らと乱暴なセックスをばかりしていた。  したがって、ユンファさんの肉体に傷やあざやがあるのなんか、近ごろはさしてめずらしいことでもなかったのだ。  彼の白い体にはいつも生傷が絶えないし、酷ければ下腹部に大きく色の濃いあざがあるときも、彼の首に男らの手形がついているようなときもあった。歯型なんてもはや日常茶飯事である。体中に(なわ)の跡が残って血が(にじ)んでいるようなときもあった。…もっとも、今度の凄まじさにはさすがの俺も驚いたが――いつもは今日ほど酷い状態ではなかった、普段は数ヶ所、片手の指で数えられるくらい、という程度なのである――。  確かに、かねてよりユンファさんは自分がマゾヒストで、SMプレイが好きなんだと俺にも話していた。――ましてや交際前・交際中においても、彼にはほとんど常に「ご主人様」がいたし、それこそ俺も彼のことをいじめるようなプレイをして、そしてお互いにそれを愉しんでいた時期もあった。  ともなれば、ユンファさんにもともとそうしたマゾヒスティックな嗜好(しこう)性があるとは、まず疑う余地のないことである。  しかし、最近のユンファさんのそれは――すっかり「牙」は衰えているとはいえ、曲がりなりにもサディストの――俺の目にさえ余るところがあった。  もとより俺だって、彼の趣味や愉しみやに文句をつけるつもりなどない。――かえって俺は、我ながら、世間一般よりもそうした嗜好には理解をもつ男である。  だが…――さすがにやり過ぎだ。  つい先日のあざが消えないうちに、また新たなあざができている。  ユンファさんは俺にそれをまるで自慢するように見せびらかすが、しかし俺の目にはほとんど、それは男らの手を借りた自傷行為とも見えた。  ために俺は見かねてしばしばユンファさんに、「体を(いちじる)しく傷付けられるような行為はできたらやめてほしい。ひいては、そのようなサディストたちとは、できることなら縁を切ってほしい」とそれとなく言ってきた。――もちろんセフレたちとの縁を否定したいわけではない、趣味のSMプレイ自体を止めたいわけでもない、邪魔をするつもりはない、…俺はあくまでも「約束」は守るが、それを踏まえた上でも貴方の体を傷だらけにされるのは嫌だから、何か最悪なことが起こりやしないかと心配だから、頼むから…といった守りの姿勢で。  ところがユンファさんはあの通り、俺の言うことには全く聞く耳をもたない。  勝手なことを言うな、「約束」と違う、放っておけ、と反抗的に言い返してくるときもあれば――そのときにこそ「わかった」と(だく)しても、その数日後にはまた、暴力をふるって悦ぶ別のサディストと知り合っている。…そのようなときもあり…――。  いずれにせよ、俺が何を言ってもどれだけ心配しようとも、ユンファさんが――特定個人ではなく――そうしたサディストらと縁を切る気色(けしき)はなかった。  なぜ、と聞いてみれば、ユンファさんにとっては、俺のセックスは優しすぎてつまらないから、だそうである。――だから物足りなくてより過激な、暴力的なセックスを求めてしまう、ひいては、それをしてくれるサディストを求めてしまうのだと。  そのくせ男に傷だらけにされたあとは必ず、ユンファさんは俺に「抱いて」とねだるのだ。それは今日の彼にも見るように。  ……しかし、よっぽど普段にも増してつまらないはずなのだが――なぜといえ、たしかに俺は、普段から比較的ユンファさんのことを優しく抱くようにしてはいるが、こと傷の具合が悪いときには普段よりもさらに優しく、…いや、というよりか彼の傷に(さわ)らないよう、馬鹿丁寧なほど恐る恐る彼を抱くからである。  まあ、そのつまらない男の俺に抱かれる理由が、都合のよい夫である俺への「お慰め」としたとき、たしかに傷やあざやがあっては、俺は――セックスへの移行の常套手段と化した――マッサージを、ユンファさんにほどこさない。  ほどこせるはずもないだろう。あざや傷やを指圧するわけにはいかない。――すると「お慰め」も間が空いてしまうので(マッサージだけを手段とすれば、あざが治るのに約一週間、また、連日のサド男らとのことがあればもっとできない日が長引くので)、彼なりにそれはまずいと思って、「抱いて」とねだってくるのかもしれない。  いやともすれば、かててくわえてそうすることでもユンファさんは、また背徳感をも愉しんでいるのかもしれない。――つい先ほどまで間男に乱暴され、犯され、()がり狂っていた自分――そして、その獣性だけで求めあった不倫の(たか)ぶりの余韻も消えないうちに――今愛をもって優しく夫に抱かれている自分の、その裏切りの罪深さときたら、甘ったるくて痛くてたまらない。というような。  まあいずれにしても――ユンファさんは、自分の体が酷く傷つくほどの過激な行為をやめるつもりなど、毛頭ないのであろう。  何かとそうした蠱惑(こわく)的な旨味(うまみ)があってはやめられない、そして、そもそもやめる理由もないからだ。  だから我が家には薬が常備されている。  本当ならば買い足したくもない、ほとんどユンファさん用の薬たちが、常備されているのである。

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