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『ユンファさん 面倒がらずにきちんと薬を塗ってからお休みくださいね。 ソンジュ』
俺はそうした書き置きと薬箱とをリビングのローテーブルの上に残してから、ユンファさんを待たず、先に寝室で休むことにした。
なお夕食はすでに済ませた。洗い物も済んでいる。
もう寝ようというのだ、となれば当然寝支度も済ませた…が、ただし歯みがきの他には、やむを得ず部屋着の黒いTシャツと黒いハーフパンツ、そして下着を新しいものに替えたばかりである。
すなわち俺は、今夜はシャワーを浴びてさっぱりとするには至れなかった。
それはユンファさんが、いまだ浴室から出てきていないためである。――彼は、今日はゆっくりと湯船に浸かる時間をとろうと思っているらしい。
……というのも、俺が夕食をとっているさなかに、ジョボジョボと浴槽に湯を溜めているらしい音が聞かれたのである。
いや、――あるいはユンファさんも、今は俺の顔など見たくはないのかもしれない。
それはさもありなんである。なぜといえ、先ほど彼は俺にあれだけけんもほろろにあしらわれたのだから。――しかしまあ、といってユンファさんがあれで傷ついたのか本当はそうでもないのか、それはわからないが。
時にむごいほど冷徹な彼のことだ、案外ケロッとしているかもしれない。――それこそ俺と一時 距離をおきたい、冷却期間が欲しいというのではなく、ただ単にのんびりと風呂に浸かるリラックスタイムが欲しかった、これはたったそれだけのことなのかもしれない。
……ましてや「嫌いなやつに嫌われたところで別に傷つかない」とは、正真正銘ユンファさんその人の口から発された言葉である。
しかしいずれにせよ、少なくとも俺のほうは明確に、今はユンファさんとは――所詮家庭内で、といった簡易的なものではあるが――距離を置きたい。その冷却期間の必要性を感じている。
それだから俺は彼を待たずして先に休むことにし、そして今、照明を消した寝室のベッドのふちに腰を下ろした。
それから両脚をベッドに乗り上がらせながら、先ほど自分が替えたばかりの、清潔な白いかけ布団にその両脚をもぐり込ませたとき――ガチャ、と浴室の扉が開かれた音が、閉めた寝室の扉越しに聞こえた。
……ユンファさんがやっと風呂から上がったのだろう。
「……、…」
しかし今の俺の耳には、その音さえひどく厭 わしいものと聞かれ、眉間が曇る。
ために、彼が寝室 に来る前にさっさと寝てしまおう。と俺はすぐさま、肩までかけ布団を引き上げながら、ユンファさんが横になるだろうほうに背を向けて、ベッドに横たわる。――それからすぐに目をつむる。
だが…――、
「……、…ふーー……」
俺は今かなり鬱屈 としていた。
今日は仕事もうまくいかず、見たくもない自分の夫と間男との行為を見せつけられて、さらには、関わり合いになどなりたくもないあの男と会話せざるをえなくなり、それも二人は俺という夫をプレイの玩具 にして弄 していたばかりか、夫がその男に愛してる、なんでもする、もっと求めて、だなんぞと、俺に対しては言いようもない甘いセリフを、俺の聞いたこともないような甘い声で囁いていたのをまで、聞き及んでしまい――もっとも後者二つに関しては自業自得だが――、…とにかく今は酷く苛 立っていて、また酷く鬱屈としていて、するととてもじゃないが、まだ俺は眠れそうにもない。
もう慣れた。もう何も感じない。
ユンファさんはセフレの男ら誰相手にも「愛している」と言うのだ。だから彼のそれは決して本気じゃない。
取るに足りないことだ。
俺は非情な男になれた。
――嘘である。自分を守るための、嘘だ。
身も心もくたくたというほどに疲れてはいる。だが、それとはまた別に頭の中いっぱいに満ちたこのイライラ、チクチクとした不快な痛みに苛 まれていては、今は俺の意識は、入眠に至るための朧 に移り変わる入り口にも立とうとしないのであった。
「……、…」
俺の胸に溜まった泥のような鬱憤 が、その粘性のあまり大動脈に詰まるせいで、それを一刻も早くポンプの力で押し出し排除しようとする俺の心臓を、いちいち強く、速く脈打たせる。――するとその鬱憤は、どうしてか俺の恥骨のあたりを隠遁 先として、そこにばかり集まってくるのだ。
さらにその鬱憤は、俺にこうした空想を見せてくる。
……俺のまぶたの裏の隠暗、恥骨の鬱憤から発煙し、そして揺らめきながら立ちのぼる、艶冶 な生白い桃の香の薫煙 ――俺の熔岩 のような鬱憤が堆 く盛り上がった恥骨にまたがるその美しい白煙は、なまめかしく上下にくゆりながらこうすすり泣く。
『そん…ソンジュ…、は…愛してる…――愛してる、愛してる、…なかに出して…、僕のなかにいっぱい出して、――僕を、妊娠…させて、ソンジュ……』
『…いいや、悪いが俺は貴方を愛してなどいない。』
しかし俺は、愛する煙を傷つけ、かき消してやろうとそう言ってやった。
『だからいつもスキンを着けて抱くんだ。――まさか、俺は夫を寝取られて悦ぶような変態なんかじゃない。…どいつもこいつも好 い気になりやがって、…貴方も、あの男らも、全員どうかしている。――いや、思えば貴方は、確かにその美貌と体ばかりなのかもわからないな。…すると俺が惚れたのも、結局は貴方のその見かけばかりの美しさにおいてのみのことだったのかもしれない。』
嘘だ。――最低な嘘である。
これは俺がこの愛する煙を傷つけたいがためだけについた、最低な大嘘なのである。
すると白い細い煙は、俺の上でその折れそうに細い腰を上下に揺蕩 わせながら、やはり湿り声でこうこたえた。
『あ…あ、いいの…、体、だけでもいい…、は、…体だけでも…まんこだけでも…肉便器でも、なんでもいいの…、なんでもするから、きみに求められたいの、いっぱい…――いっぱい、いっぱい……』
『無理だよ。俺はもう貴方を求められやしない。…いつまでも俺が貴方を追い掛け続けてやるだなんて思わないでくれ。――俺だって、本当に自分を愛してくれる恋人を作るのくらい、本当は訳ないことなんだ。』
俺はさらにそう冷たく突き放してやった。
いまだはなはだ求めているからこそ、こんな馬鹿げた憂さ晴らしの空想をまぶたの裏に見ているくせに――。
すると美しい白煙は泣き笑いの表情をうかべた。
『…好き…、ふふ、それでも…好き、…ううん、なんでもいいよ…酷くされても、なんて言われても、性欲処理に使われても、…なんでも…――君が、…君のぜんぶが僕、それでも好き…――ねえ僕、今は…幸せで…怖いくらい…、…君に責められたかったから…、だからお願い、激しくして…、壊れちゃいたいよ、もう…いっそ…、壊してほしいよ、もう……』
俺は煙のその折れそうな細い腰を鷲掴みにした。
……現実の俺は、自分の勃起しかかった陰茎を、ハーフパンツの上から軽く掴んだ。
――そのときだった。
カチャ…――俺はその遠慮がちな扉の音にハッと意識を引き戻され、下にある手をさっと自分の鼻先、横顔をあずけるそのまくらに置いた。
……それはユンファさんが寝室の扉を、なるべく音を立てないように、というような気遣わしげな加減で開けた音でまちがいない。
「……、…、…」
すると、彼に対してひどく陰湿な空想をしていただけに、今俺の心臓は冷汗 三斗 というほどの罪悪感によって、凄まじい動悸を起こしている。
……しかし、今はなはだフラストレーションを鬱積 させている俺は、すぐにほとんど捨て鉢 の心境で、あるいは機を見て彼本人に本当にあれらを言ってやろうか、などと破滅的なことを考えた。
いや、…だのに、俺はすぐにその考えを改めた。
だから今は距離を置きたかったのだ…――空想では好き勝手にその人を傷つけて気散 じてはいても、実際にはやはり、愛する夫をそこまで無下 にするべきでないことはこれでもわかっているのだ。
と、そうこう俺が思い迷っているあいだにも、ユンファさんはそろそろと忍び足でベッドへまで来ると、ギッ…そっとベッドに上がり…――そして…――そっとうしろから、横向きに寝る俺の肩に触れてきながら、吐息ばかりの声で俺の名を呼ぶ。
「…ソンジュ……?」
「……、…」
しかし俺は狸 寝入りをもって無視を決め込んだ。…が、そのとき思わず眉をひそめそうになったのを、そこをわずかにひくつかせたばかりで何とかこらえた。
……ユンファさんが薬を塗っていないとわかったからだ。それの独特なメンソール的なにおいが全くしないのである。――それこそ彼からは風呂上がり特有の、やや湿り気の感じられるボディソープやコンディショナーらの甘いにおいが、ほんのりと香っているばかりである。
いいや…だが俺の知ったことか。
自己責任だ。
こうしたとき、いつもならば俺は心配して彼のあざや傷やに薬を塗ってやってきたが、といってそれはあくまでも俺に課 せられた義務などではなく、夫を愛する俺の優しさがしてやっていたことである。――しかし何のつもりか、俺への当てつけか、はたまた単なる怠惰か、…いずれにせよ、自身でそれを塗らないという選択を取ったのはユンファさんだ。ならば、たとえそれで彼の怪我の具合が悪化しようが治りが遅かろうが、もはや俺の知ったことではない。――「塗って」と俺が言ってもなおそうしなかったユンファさんが悪いのだから。
俺はそのようにあえて薄情に、ユンファさんを見限るように考えた。――ただし今は、である。
そう考えることで、心ばかりでも今は彼と必要な距離を置こうと――あえて今の感情を抑圧せず、ありのまま認めることで内々にも発散、頭を冷やし、そしてもう実際の夫には当たらないようにと――、これでも努めているのである。
「……っ!」
しかし俺は不意に、ビクンッと上体を跳ねさせてしまった。――ユンファさんがいつの間にか俺の耳間近に唇を寄せ、そしてこう妖しい甘い声で囁 いてきたからである。
「ねえソンジュ…、やっぱり抱いて……」
と。
……そして俺が、その吐息と声とが与えたくすぐってくるような快感にビクンッとしたなり、ユンファさんは「ふふ…」と、得意になったような笑みをこぼした。
「……、…」
俺は思いきり眉を寄せながらも、不承不承に薄目を開けて伏し目となる。
もはや体を跳ねさせてしまっては、これ以上空寝 をつづけていてもしょうがない。――それで彼に俺の狸寝入りが見抜かれなかったはずもないのである。
するとユンファさんは案の定しめしめと笑った声で、さらにこう囁いてくる。
「君、やっぱり起きてたんだ…――寝たふりなんかして、可愛い…――あ…、…あれ……?」
そしてそう、彼はからかうようにわざとらしく不思議がる。――かけ布団の上から、俺の股間をもむようにまさぐりながら。
「ふふふ…――もうちょっと硬いんだけど…、ソンジュ、どうしておちんちん硬くしているの……?」
「……、…」
……そうすぐには霧散 しないものである。
俺はついさっきまで「妖艶 な煙の空想」を見ていたのだ。
俺にまたがって悲しくも婀娜 っぽく腰を振る、あの美しい白煙の――すなわち俺のそこに宿った男の硬質は、その空想の消え切らない残煙がいまだ少しまとわりついているせいである。
しかしユンファさんは、それをもって自分の誘いに俺が案外満更でもないのだと、そう無理もない勘違いした。
「…ねえ…しよ、ソンジュ…、本当は君もしたいんでしょう…――まあ僕に腹が立っているのはわかっているが…、それなら、その怒りのまま僕を犯して…――酷くしていいから…、何なら、そのまま殺しちゃっても…」
「まさかそんなことしません。殺すだなんて悪い冗談はやめてくれ、…俺はもう寝ますから、貴方も早く寝て。時間も時間です。」
と俺はすげない低い声ではねつけた。
しかしユンファさんは「嫌…」と、どこか浮かれたような甘えているような、少し笑った声で言う。
「寝られないよ、ムラムラして……、ふふ…実はさっき、オナニーしちゃったんだよ僕、風呂場で…、ムラムラしすぎて…――ソンジュとのセックスをオカズにした…、君のこと思い浮かべながら、まんこぐちゅぐちゅめちゃくちゃに掻 き回して…、…でも…――イけなかった…、はは…物足りなくて…、だから…」
「だから何。関係ないよ、俺はもう寝るんです。」
やはり俺は冷ややかに拒む。しかし今度は、浮つきそうになる自分の心を必死に抑えつけながら。
「……、…、…」
するとユンファさんはやや黙ってから、「はは、」と寂しげな笑いをこぼし――そしてその微笑をふくませた声で、こう俺の耳にそっと囁いてくる。
「冷たいね、ソンジュ…、最近、ほんと…冷たい…、でも、今日は特に冷たいね…――前の君だったら、きっとすごく喜んでくれたんだろうにな…、……」
またそう言ってすぐ、ユンファさんの唇が俺の耳からおもむろに遠のく気配があった。――そうして彼は上体を起こしたらしいが、何となし俺は自分の横顔を見下ろす彼の視線を感じている。
そしてユンファさんは、やたら明るく笑いながら俺にこう聞いてきた。
「ねえソンジュ…、僕のこと、その…――もう、…あ、愛していないの……?」
「……、…」
俺の閉ざされた唇がピクリと動いた。
しかし、――その時がくればいよいよ言ってやる、などと先ほどは考えていたくせ――実際には『ええ、もう愛してなんかいません』とは、…その嘘は、俺にはやはりどうしても言えなかった。
ただしいまだ残る反抗心は、俺の唇を固く閉ざした。
すなわち俺はいつものように『いいえ、愛しています』とも返さない。
「…………」
「…………」
そうして俺が黙り込んでいるなか、ユンファさんも黙っている――まるで俺の返答をじっと待っているかのように――。
しかし、
「……、はは、」
とややあってから彼は、この重い沈黙に耐えきれなくなったかのように笑うと、――俺の返答を諦めたらしく――「でも…」とどこか儚げに震えた、それでいてやわらかく笑った声で、俺にまた話しかけてくる。
「心配、してくれたんだよね……?」
「…………」
俺は答えない。彼はそれでも話しつづける。
「ソンジュ…今日も僕のこと、心配してくれたんでしょう…――ふふ、…じゃなかったら、薬と一緒に〝薬塗って〟なんて手紙書いて置いておかないもんね、――ね、そうでしょう…、心配して、くれたんでしょう……? ねえ…」
「……、…」
しかし俺はなおも押し黙っている。
違うのだ。俺は今我ながら精神状態が最悪だ。…無視もこれで済まなく思ってはいるが、口を開けば、それこそまたユンファさんを傷つけるような棘のあることを言ってしまいそうだからだ。
それこそ本当に、彼より先に眠れていればよかったのだが…――。
「……、…、…」
そうしてしんねりむっつりとしている俺に、やがてユンファさんは「はは、」と、涙をこらえたような笑いをこぼし、
「ねえ、ソンジュ、…ねえ、…ねえ……何か言って、…ねえ何か言えよ、何でもいいから、…し、してないって、…じゃあ、――じゃあ〝心配なんかしてない〟ってはっきり言えば、?」
とそう少しいら立った調子で言ったなり、ぐっと俺の肩に、おそらくは目もとを押しつけてきた。
「心配なんか、してないって、…そうだよな、はは、…――そうだよソンジュ、…却って今までの君がおかしかったんだよ、――自業自得なんだから、…僕が好きでああいう男とセックスして、好きで殴られているだけなんだから、――放っといていいよ、これからも、…これからは余計な心配なんかしなくていいんだよ、――ていうか、…〝これから〟なんてもう、ないのかもしれないけど、…」
「…ユンファさん、…」
泣いて…――遅いかもしれないが、俺はさすがに慌てて彼の名を呼びながら、自分の肩に目もとを押しつけている彼をふり返り見た。…しかし俺の黒いTシャツの肩に垂れかかる、その人の黒い前髪ばかりしか見えない。
ほんのかすかな、は…は…と短く息を吸い込む音が聞こえる。
「ユンファさん…、俺は、…」
貴方と別れるつもりはない…――。
――本当か?
いや、…俺は貴方を愛している――本当に?
いや、いや、――俺は……俺は……。
「……、…」
俺は、結局、どうしたいんだ?
結局俺は、ユンファさんのことをどう思っている?
ユンファさんは?
ユンファさんは結局、どうしたいんだ?
俺のことを、どう思っているんだ?
俺は、…何が、…どうしたら、…なぜ?
なぜ、泣くの――?
「…貴方が、…俺は、もう…よくわからない……」
これが――少なくとも今は、これこそが俺の本音だった。
なぜ泣いている? そもそもこの涙に彼の感情は含まれているのか? これは彼の本物の涙なのか? それともまた俺を掌 にするための、――疑いたくもないのに、愛する人の涙に猜疑 心などいだきたくもないというのに、――過去、何度も騙されたと思わされてきたせいで、…今の馬鹿になった俺にはもう何もわからない。
「……、…」
……いいや、…そうだ、俺は馬鹿だ。
そう、この際また馬鹿を見ても別に構わないじゃないか。そんなのもはや今さらだろう。――どうせ俺は馬鹿なのだ。…どうせもう彼にも馬鹿だなんだと軽侮されているのだ。
今さらプライドを傷つけられたなどと憤 るでもない。――そもそも傷だらけのそれにもう一つ傷が増えたところで、特別それに痛みを感じるはずもなかろう。
「…ユンファさん…、……」
俺は彼の名を気遣わしげに呼びながら、自分の肩に目もとを押し当てているその人の肩を軽くつかんで押し上げつつ、おもむろに上体を起こした。――そして、ベッドに両のつま先ばかりをつけた正座の格好で、うつむいている彼と向かいあう。
「ユンファさん…、俺は貴方を、愛し……」
「ねえ、」――しかしそう俺の言葉を遮ったユンファさんは、無理に笑いながらふと、切なく涙に潤んだ紫の瞳で俺を見すえる。
「ソンジュ、じゃあ一分、…一分間だけ、僕にキスして、…」
そのとき、ほろ、とその小刻みに揺れている澄明な瞳の片方からこぼれ落ちた涙が、つー…と無理な笑いに震えている、その白い頬を伝い落ちてゆくのを、俺は情けなくもほとんど放心状態でただ眺めていた。
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