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「……い、…一分……?」
俺は動揺のあまり、そう聞き返すばかりしかできなかった。
一分だけ僕にキスをして――しかしその実、俺の肩から手、指の先までの肉の奥の骨の髄は、今に愛する美男子を強く抱きしめ、その目もとや頬を濡らす涙を優しくぬぐい、そしてその頬を包み込み、一分といわず求めるだけの口づけを与えてやりたい――という、切な衝動がみるみる集 ってくるばかりに、むずがゆいくらいうずいている。
……それでいて、俺はそれと同時にやはり疑っている。
どうせまた泣き落としなのではないか――これで俺がその要求に応えてやったあとにはまた、彼は『お前って本当にチョロいよな。僕が嘘泣きをしたらすぐ言いなりの奴隷になるんだ』だなんぞと、俺を嘲笑うのではないか――擦 れっ枯らしのユンファさんのことだ、今の自分の欲求を満たすためならば、空涙 を流すことくらいきっと訳ないことなのだ。
まさか…そうしたユンファさんが、思わず涙するほど俺のキスを希 っている?
「……、…、…」
ユンファさんはまるですがりつくような目色を、小刻みに揺れる潤んだその紫の瞳ににじませ、ただ黙ってじっと俺の目を見つめてくる。――その目つきとても俺にはどこか疑わしく、しかし、その反面たしかに胸を締めつけられてもおり、…と、本当に俺にはもう、彼がよくわからない。
……というか…――。
「……、…」
どうして…と俺は目を下げ、その人の胸もとを見やる。――ユンファさんは今、なぜか俺の部屋着の白い無地のTシャツを着ている。
ただし、その斜め座りをした下半身に身につけているものは、彼自身の黒いハーフパンツだが。――なお俺たちには体格差があるため、あまり衣服の共有はしないのである(俺のものを着れば細身のユンファさんにはやや大きすぎ、俺が彼のものを着ればアルファ属ともあって肉厚な俺の体にはややキツすぎる)。
また、よくありふれた白無地だというのに、なぜこのTシャツが自分のものかわかったかというと、その実これはかなりの着古しで、胸もとのあたりに俺がコーヒーをこぼしたシミがうっすらと残っているいるためである。
どうして…――彼は先ほども俺のカッターシャツを着ていたが――どうして今日は、わざわざ俺の衣服を選んで着るのだろう。
「……、…」
そうして俺が訝 しんで、ユンファさんの着ている自分の白いTシャツを凝視していると、
「…ごめん…」とユンファさんはか細い声で謝ってくる。
「勝手に借りて…」
「……いえ、別に構いませんけれど…、もしかして、ご自分の服がまだ乾いていなかったの?」
いや、といってそんなはずはないのだが。
ユンファさんは日々の洗濯物を溜めない。すなわち毎日こまめに洗濯をしてくれているので、何かしらは乾いていたはずである。――だが、俺にはどうもそれくらいしか理由が思い当たらなかったのだ。
するとユンファさんは、ごにょごにょと言いにくそうにこう答えた。
「いや…君の匂 いがするから…それで、その…」
「俺の匂い?」と俺は鼻で笑いざま思わず彼の顔を見た。
彼はその長いまつ毛を伏せ、どこか複雑そうに表情を曇らせている。
「俺の匂いがするから何です?」
そして俺は刺々しく嗤いながらそう聞いた。――まさか、愛する俺の匂いに包まれておきたいから、わざわざそれを着たとでも?
そうして俺を浮かれさせるだけ浮かれさせておいて、そのあとにはまたどうせ…――しかし、彼はしきりに自分の片方の二の腕をさすりながら、憂色をおびた伏し目のまま、もっと声を小さくして「いや…」
「ただ…その…、いい匂いだなって、ソンジュの匂い…――それに…こ、…これを着ていたら、まるで、君に触れてもらえているようだから…、抱いてくれないんでしょ、だからこれで…我慢…しよう思ったというか、その……」
「どういう意味です、それ…」
と俺は冷ややかな低い声で言う。
「まさか、…まさかとは思いますけれど、…そんなに俺に触れてほしいの…? ――はは…その言い草じゃまるで俺のことを愛しているみたいですよ…。」
「っ違う、」ユンファさんは即座に否定した。俺を見るでもなく、伏せたその顔に焦ったような苦り切った表情をうかべながら。
「そうじゃなくて、愛してなんかない、違うっ違うんだ、ただ、…ただ…――今馬鹿みたいにムラムラ、しているから…、だから、…これき、着ただけ……」
「……はあ…、……――。」
あるいはユンファさんのあの涙が、切望の――彼の俺への胸を焦がすような想いが込められた、本物の――涙であったら?
「……、…」
俺はふと目を伏せ、口もとにかすかな皮肉な笑みをうかべた。
何て馬鹿げた考えだろう? ――まさか!
俺はユンファさんに愛されてなどいない。
俺が彼を求めることはあっても、彼が俺を求めることなどあり得ない。――ましてや彼は今はあの男を愛して…、…まあ、思えばあれだって打算的なセリフかもしれないが、そうして愛しているどうこうは一旦さておき、――少なくとも彼の今の一番のお気に入りはきっとあの男である。
今ユンファさんは耐えがたいほどムラムラしている。
誰でもいい。今すぐにセックスがしたい。
しかし、どうせならば相手に選びたいあの男はというと、もう帰ってしまった。
すると俺の他には手近にセックスできる相手がいない。まして、零時すぎの今に連絡のつくセフレもいるかいないか、といったところだろう。――よって、とにかくセックスがしたいという欲求を満たすために、ユンファさんはわざわざ俺のTシャツを着て、俺の興味を引き、さらには先ほどのようなセリフをもって、俺の情欲を誘おうとでもしたのに違いない。
すでにわかりきっていたことだが、俺を愛しているから「抱いて」と言って、求めてきたわけではない。――今どうしようもなく欲情しているから、セックスがしたいから、彼は俺にただそうねだってきただけである。…つまり彼が欲しているのは「俺」ではなく、自分の欲求を満たしてくれるだろう、俺のこの肉体だけだということだ。
そもそも一分だけキスをして、というのだって、どうせ本当は一分間だけのつもりなどないのだ。――俺が求めに応じないときに彼はよく似たような手口をやるが、それこそ今度もキスをしてやったなり、たとえ約束の一分が終わろうとも、始まってしまえばこっちのものとそのまま扇情 的なあの手この手で食い下がって、結局はセックスをする流れを作り出してくるに違いない。
そう推察したなり、俺は彼に嫌味を言ってやりたい気分になった。
「それなら貴方、どうして愛してもいない俺と、一分間だけでもキスがしたいだなどと思われたんです。」
それでそう目を伏せたまま、威嚇するように訊いた。
「…それは…だから、別に…」するとユンファさんは、震えた小声で答える。
「別に、誰でも…いいけど…、ソンジュじゃなくても…い、いいにはいいけど…、ただ…い、今いるのが、…君だけだから……」
「そうですか」俺は冷ややかにそれを認めた。…案の定である。
「とすると…あの人がもう帰ってしまったから、仕方なく口慰みに俺とキスがしたいわけですね。…たった一分間だけのことでも。」
「……まあ…、……そう……」
「なるほど。」
今さらこう言われて傷つくほど、俺の心はもう丸くはないのである。しかし、
「まあわかりました…。いいですよ別に…、キスしますよ、じゃあ……」
まあいいだろう。と、結局は応じる。
たとえそれをしたあとに食い下がられようが、約束は約束だ、と断固突っぱねられる条件下にあるキスである。
正直今は気は進まないが、小さなその求め一つくらい応じてやらないことには、ユンファさんはいつまでも納得できないで、しつこくねだり続けることだろう。
まして、そうしてキスをしてやったあとに何を言われようが、それでたとえどれほど夫に馬鹿にされようとも、そんなのはどうせいつものことなのだ。――俺はこの美男子の思うまま翻弄される馬鹿な旦那、とその人に思われたままでもう構わない。
ということで俺はつと目を上げ、早速キスをしようとベッドの上、対面に座る――白やかな細長い両脚を斜めに倒し、ゆるく重ねて座っている――ユンファさんを見やった。
……ところが彼はちょうどそのとき、胸の下あたりに構えた自分のスマートフォンを物憂げな目つきで見下ろして、それを人差し指の先で操作していた。――おそらく本当に一分のタイマーをかけようとしているのだ。
「…………」
「……、…」
ユンファさんのその行動は、間接的に俺を責めるようだった。
すると俺の中には罪悪感とねじけた気持ちとが入り乱れて、自分の表情が曇るのを感じる。
――程なくして彼はパッと涙目で俺を見、
「……はい、一分スタート、…」
と眉尻を下げて微笑する。
「……、……」
さて…俺はユンファさんの両肩に手をそえ、軽く顔をかたむけながら、その人の薄くひらかれた唇に唇を寄せてゆく。
と…――彼はゆらゆらと切なげに揺れる紫の瞳で俺の目を見つめてきて、――普段ならもう目をつむっているところを、――なかなかそのまぶたを閉ざさない。
どうしてそんな目で俺を見るの…、結局俺のほうが先にまぶたを閉ざした。
そしてユンファさんのやわらかな唇を、斜めから浅く――その震えている唇の表面を、唇で撫でるように――ゆっくりと食む。
「……っは、…」すると彼は、短く息を吸い上げる。
「……っ、…、…」彼のふるふるとわななく唇がぎゅっと閉ざされ、強ばって固くなる。
「……、…」
俺はふと唇を離してユンファさんの顔を見た。
キスなど続けられるわけがないだろう…――彼は目をつむっていた。眉をひそめ、唇を引き結んで、そしてその濡れた長いまつ毛から溢れたのだろう涙で、頬を濡らしながら。
しかしふと目を開けたユンファさんは、涙に潤んだ紫の瞳で俺を見ると、泣きながら笑った。
「ねえ、ほら時間なくなっちゃうよ、…もっとキスして、ソンジュ、…」
「……、…」
俺は迷いに眉を寄せながら、ユンファさんの片頬を手のひらで包み込み、斜めからちゅ…と彼の無理に笑んだ唇に口づけた。
なぜ泣くの? ――俺の唇は優しく、その人の強ばった唇をもみほぐすようにゆっくりと食む。
愛してもいない夫にキスをされただけだというのに、なぜ? ――やがて俺の唇の動きは大きく、激しくなった。
なぜ貴方は…――ピロリロロッ……、
「……は、…」ユンファさんが自ずから顎を引いて唇を離しながら、俺の鎖骨を両手で押しのける。
一分とはわりに短いものである。
ピロリロロッ…ピロリロロッ…――そしてさっとうつむいた彼は、その涙の細かな雫が宿る長いまつ毛を伏せて見下ろしたスマホの画面を、何度か人差し指の先でたたいて、そのけたたましい機械的なアラーム音を止めた。
……それからユンファさんは、目を伏せたまま寂しげに少しほほ笑み、頬の涙痕を手指でぬぐいながら、静かにこう言った。
「じゃあ…おやすみ、ソンジュ…――我儘 言ってごめん…、…僕、今夜はリビングで寝るから……」
「…薬……」
しかし俺は「恰好 の理由」を見つけてそうつぶやく。
もう何だって構わない。
もう、我慢ならない。
俺の骨の髄で煮え立つ衝動、…ここまでさんざん酷い態度を取ってきた俺のそれが、たとえどれほどエゴイスティックなものであろうとも、…この衝動は、……いいや…――ともかくいさまさるこの衝動は、俺に夫に触れる理由を見つけさせたのだ。
ために、あたかも心配しているふうな静かな声で、こう続ける。
「薬…、まだ塗られてないんでしょう…――塗らないと、良くなりませんよ……」
「……、…」
すると、どこか疲れたような伏し目で何かを考えているらしいユンファさんは――ややあってから「うん…」と俺を見ず、口角を上げたまま小さくうなずく。
「ちゃんと塗ってから寝る…」
それから電源を灯したままであったスマホを見ながら、「もう一時になっちゃうな…」とつぶやくと、彼はそれの電源を落とし…――そして、…びくっとした。
……突然俺に抱きしめられたからである。
「……、…そ、ソンジュ……?」
「…どうせご自分じゃ塗らないくせに…――今日も俺が塗ってあげますから、少しここで待っていて……」
どうして今夜のユンファさんは、こんなにもいじらしく見えるのだろう。
先ほど俺が薬を塗らないと、と言ったとき、普段の彼ならばおよそ、俺にすげなく「そんなに塗らせたいなら君が塗れば」とでも返したはずである。
ところが今夜のユンファさんはこうなのだ。
ふと顔を見る。と彼はその涙に濡れた目を伏せたまま、その微笑をふるふると小さく横に振るのだ。…こう言いながら。
「でも…君疲れて…、いいよ大丈夫だから…もう寝な、ソンジュ…――別に薬くらい、一人で……」
「……持ってきますね。……」
俺は一旦ユンファさんから離れて、そしてベッドを下りた。――
そうしてリビングにあった薬箱から挫傷 用の軟膏を手に戻ってきた俺は、まずベッドサイドランプの暖色の明かりを灯 し――それから、ベッドの上にあお向けに寝たユンファさんの腰のあたりを、ベッドにつけた両膝でまたいで腰をかがめ――その横斜め上からのおだやかな暖色の光に照らされた生白い上体に、ポリチューブから押し出した無色透明な薬を、四本の指先で、きわめて優しく塗布 してゆく。
「……、…」
そしてユンファさんは先ほどから、斜め下へうつろな表情を向けながら、自ら鎖骨下までまくれ上がった白いTシャツの裾 を両手の指先で押さえ、大人しく俺に薬を塗られている。
――ただ…今もそうだが、彼は時おり、
「……っん、…」
とどことなくなまめかしい声をもらしながら、わずかに眉間を曇らせ、びく、とその腰を控えめに跳ねさせるのだ。
「…痛みましたか、すみません…」すると俺はなかば本気で痛みを与えてしまったか、と心配になり、その都度彼にそう確かめながら、手を止めていた。
それは俺もこの薬をほとんど圧のかからない、それこそ皮膚を引っぱり動かさないほどの力加減、かつゆっくりと極めて慎重に塗ってはいるものの、といってこれだけ酷い内出血を起こしていては、それであっても痛みを与えてしまいかねないと思うからである。――しかしそう憂慮している一方で、彼のその艶を帯びた反応から推察するところ、あるいは痛みではなく快感を、またはそこまでいかずともくすぐったさを覚えているのかもしれないとは、もうなかばに思っていることだが。
ましてやユンファさんのうす桃色の乳首は今、ぷっくりと粒だっているのだ。
とはいえ、それでやっぱり性感を得ているだけだ、と判断するのもやはりどうか。――それこそ外気にさらされただけでも大概の人はそうなりうるが、何よりこの軟膏にはメントールがふんだんに配合されているため、塗りざまスースーとした刺激的な冷感を覚える。…するとそのある種異質な肌刺激は、乳首ばかりか、全身の皮膚に鳥肌を立てさせるに十分なものなのである。
そしてそれらを踏まえるに、俺のともすれば痛みを与えてしまったか、という心配は、俺が確かめるごとユンファさんが「大丈夫…」と返してもなお、完璧にぬぐい去られるものではなかった。
そしてまた「…ん、」とかすかな声をもらしたユンファさんの上体が、びく、と鈍く跳ねる。
「…すみません、…大丈夫……?」
しかし今度の今度は、いよいよユンファさんも斜め下へ顎を引いたままのその顔に、ふっと呆れたような笑みをうかべた。
「いや…、どこまで過保護なんだよ君…」
「…いや、俺が特別過保護というわけでは……」
ユンファさんはそう言うが、この怪我の状態を見ては、およそ誰もが俺ほどおっかなびっくり慎重にもなろう。――それこそ、その引き締まった生白い上半身のどこを見ても、痛ましい赤黒い、あるいは青灰のあざの見当たらないところがない、というようなあまりにも酷い状態なのだから。
「…こんな市販薬ではなくて、明日、病院に…」
と俺はそのあまりの痛ましさに軟膏を塗りながら勧めかけたが、ユンファさんは「いいよ面倒臭いし…」と、気だるげに断る。
「というか、そもそも本当に自業自得なんだから…――僕が好きであの人とセックスして、好きであの人に殴られただけ……」
そしてユンファさんは「ふ…」と呆れたような、しかしどこか優しい含み笑いをこぼす。
「ねえ…どうしてソンジュは、いつも僕に冷たくしきれないの…――どうしてそうやって、いつも結局は僕なんかに優しくしてしまうの…――君はこんなことまでする必要はない…、こんなの、僕が勝手に……」
「したいだけです。俺が。…」
俺はそう静かに言いながら手もとを見下ろし、またチューブから押し出した軟膏を指先に取る。
「…俺は…貴方の夫として、これくらいのことしか出来ないから……」
ましてや勝手に妬いて、勝手にすねて、勝手に不機嫌になって…――そしてユンファさんにつらく当たって、…俺は本当にどうしようもない夫だ。
「でもそんなことをしたって、…はは、」とユンファさんが自嘲する。
「この最低な阿婆 擦 れが付け上がるだけなのに…――ああ、…愛されたいから……? だが、だとしても……」
「貴方は俺を愛さない。」俺は目を伏せたまま、彼の言葉の続きを口にした。
「…わかっていて、それでもやりたいんです。どうしてか…――どうしてと聞かれても…、今の俺には、わかりません…。どうしてなのかは、わかりません……」
するとユンファさんは唐突に、静かにこう問うた。
「愛って…何、ソンジュ…」
「……、わかりません……」
俺はわからなくなっていた。
以前の俺は、彼のその質問にも意気揚々と、また滔々 と難なく、それについての持論を語った。
だが今の俺にはもう、愛についてなどとても語れない。
わからないからだ。…わからないからである。
何が愛なのか、俺のユンファさんへの想いは本当に愛なのか、それとも…――。
「…そっか…」ユンファさんは諦めたように笑った。
「……ねえ、ところでソンジュ…」とそれから彼はささやくように、寂しそうに笑いながらこう言う。
「明日から…多分、…一週間くらい…僕、あの人の家に行ってくる…――そうしたら君、しばらく嫌な僕の顔見なくて済むだろ、…はは、…まあ別に排卵期はまだだけど、調教もその内家でじっくりしたいって言っていたし、あの人、…あ、もちろん君の食事はちゃんと三食作り置き……」
「もうやめてくれないか」
俺は真顔で目を伏せたまま、思わず低くぼそりとそう言ってしまった。
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