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「もうやめてくれないか」
と目を伏せたまま、俺は固い声で思わず口に出してしまったそのセリフに、直後ハッと我に返って目を上げ――というよりかは、今あお向けに寝ているユンファさんの顔を見下ろして――、
「いやっその、違う、違うんだ、…すみません、…」
などと、慌てて訂正の――言い訳の――物種を蒔 いた。
……しかし、自分の腰のあたりにまたがる俺をふと見上げたユンファさんは、思いのほかその顔に不快げな歪みを生じさせはしなかった。――彼は今その美しい顔に、疲れきった感のある、曖昧にぼやけた表情を浮かべているばかりである。
「やめてくれ…って……?」
「……ですから…、その…つまり…、………」
俺はまた目を伏せ、言い訳を考える。
……俺は今、本音の端 を言ってしまったのだ。
――もうやめてくれないか!
ふざけるな。
あんな男のところへなんか行くな。
こんなに酷い怪我を負わせられて、それも、その怪我がまだ十分に癒えぬうちに――癒えようもない明日に――あの男の家へ、わざわざまた暴力を振るわれに行く?
……もういい加減にしてくれ!
俺はもう貴方を傷つけられたくはないんだ!
どうしてわざわざもっと傷つけられに行こうというのか、――次はいよいよどうされるかわからないだろう。
いくら貴方がマゾヒストで、相手がサディストで、その嗜好の合致、相互需供の関係、すべてにおいて同意のある行為であったとしても、あんな人を人とも思わぬような犯罪者まがいのサディスト相手では、そんな暴虐な男の領分たる家に行ってしまっては、――まだ我が家でのことであれば俺がいる、俺の目がある、というある種の抑止力から、それでもこの程度で済んだのかもわからないというのに、――いよいよ貴方は殺されてしまうかもしれない。
いや、たとえそうでなかったとしても、さすがにそのあたりは弁えていたとしても――関係ない。
いずれにせよ、
こんなことをするような男とはもう縁を切ってくれ。――もう金輪際我が家にあんな男を上げないでくれ。
いいや。――本当にそれだけか?
いいや…――。
もう、やめてくれないか、…
もう俺以外の男と寝ないでくれ。
愛しているんだ。――貴方を愛してる。
俺が貴方の不満を全て何とかして満たしてみせるから、こんな俺だけでは物足りないのだろうけれど、俺だけでは幾人もの男の代わりにはなれないのかもしれないけれど、俺が全部何とかしてみせるから――。
悲しいんだ。辛いんだ。
嫉妬、してしまうんだ。
……俺の貴方を想う気持ちは本物だ。
貴方が幸せならばそれでよい。
俺が耐えれば済むのなら、それでよい。
わかっている。貴方には俺以外の、何人もの男がきっと必要だ。
奪えやしない。奪ってはならない。
貴方の唯一の生きる意味、生きるための唯一のよすが――俺は貴方に生きてほしい、幸せに生きていてほしい――俺は貴方を幸せにしたい。
心からそう思っているときもあるんだ。本当だ。
だが、もう限界なんだ。
もう他の男に抱かれている貴方を見たくない。聞きたくない。知りたくない。――いいや、…本当は、もう俺以外の男に抱かれてほしくないんだ。
本当は俺だけに許してほしいんだ。
触れること、聞くこと、見ること、与えること、奪うこと、愉しむこと、――夫の俺だけに、その権利を与えてほしいんだ。
甘い声で囁いてほしいんだ。
あの男らに囁くように――「愛してる」と。
「ソンジュ、愛してる」と――。
だけれど貴方は、俺にだけいつもすげない。
俺のことなんか愛していないという。
あの男たちと一緒になって、俺を負け犬だと馬鹿にして、お人好しの愚かな夫だと見下している。
俺は貴方のために耐えているというのに、貴方のために必死になって口を噤 み、歯を食いしばって、目を伏せ、貴方が幸せならばそれでよいと、ひたすら貴方に尽くし続けているというのに。
それなのに――もう耐えられない。
もう、嫌なんだ。――これ以上は、もう……。
……いいや……。
もうやめてくれないか。
貴方は俺の夫だ。――貴方は俺のものだ。
貴方は あくまでも 俺だけのもの――。
貴方の欲望を満たす幾人もの男――ああ、貴方のその多端 の欲求がこの俺にのみ向けられていたら!
ああ、俺のこの目が全てを見通す神の目であれば!
そうしたら俺は、貴方のどんなに些細な欲望にも応えてあげられるというのに――そうして俺無しでは生きてゆけない貴方に、貴方の中で俺は唯一無二の男、…いいや、貴方の唯一無二の神にもなれるというのに!
そもそも、粗末な多数の暴力で漫然と腹を満たすより――その紅いふくよかな唇に垂らされるたった一滴の、上質な、濃厚な、――全てを瞬時に破壊し、全てを無惨に終わらせる――劇毒のほうが、きっと貴方は気に入るはずだ。
いいや、たとえ貴方が気に入らずとも、美しい貴方にはその劇毒のほうがよっぽどよく似合う。
俺はきっとあの男らよりも勝 っている。優 っている…――いやまさる、この疼きは、
この疼きは……肉体にどれほど痛ましく残されてもやがては消え失せる痣や傷や痕よりも、内側から犯して侵 して蝕 みけっして排出されることのない――その前にすべてが終わってしまう――その毒のほうが、よっぽど刺激的なはずだ。
――俺とのセックスが物足りない?
俺は貴方を優しく丁重に抱きすぎる?
味気ない、生ぬるい、倦 んでくる、こんな悪い意味で平穏な、健全なセックスでは、たとえ回数こそ毎日のことであろうとも、到底満足することなどできない?
それならばどうだろう。
監禁、檻、首輪、調教、うなじの咬創 、花粉、受精、膨らむ子房 、…犯罪者まがいの人を人とも思わぬようなサディスト、――もはや人というより獰猛な牙を持つ獣、…刺激、…刺激、…刺激、…それならば――果たして貴方は満足してくれるだろうか?
それとも――怯え切って、その凶悪な獣 を嫌悪するだろうか?
この際どちらだって構わない。
貴方が、本当は自分ははじめから俺だけのものだったのだと、そう気がついてくださるのならば――。
……もう、…もうやめてくれないか、…
どうか、どうかもう、…どうかもうやめてくれないか……。
俺が、貴方を毒牙にかけてしまう前に、
頼むからもう、やめてくれないか…――。
愛とは一体何だろうか。
俺の全てを焼きつくさんばかりに燃えさかる嫉妬の毒焔 さえも、愛なんだろうか。――あるいは情けない弱音まじりに縋りつくような俺の夫への想いは?
はたまた、男への怒りで武装した夫への心配は?
ともすれば――それらこそ、愛ではないのかもしれない。
「……、…」
目を伏せたまま黙り込んでいた俺の肩を、とんとんと軽く叩いたユンファさんの片手に、はたと目を上げる。
いつの間にか上体を起こし、今の俺と同じように膝立ちの姿勢となっていた彼は、依然何を思うとも知れないぼんやりとした表情で、そしてその据わった赤紫の瞳で、ただ俺の目を見ている。
「…すみません…、少し考え事を……」
俺はそう言うさなかまた目を伏せてうなだれながら、その場におもむろに腰を下ろし、ベッドの上で正座する。
「…要するに…、…要するにまた、あれですよ…」
言い訳は決まった。いつものあれを言うのがちょうどいい。
どうして言えるだろう?
どうしてあの「約束」を破れるだろう?
――結局俺は、ユンファさんと別れたくないのだ。
俺は自分の膝の上に手の甲をのせた、その両方の手のひらを――片手には薬のチューブをゆるく持ち、もう片手の指先にはその無色透明の軟膏のかたまりをのせている、その両手を――見下ろしながら、いつも通りのセリフをぼそぼそと口にする。
「つまり…貴方にしてみたら、もう耳に胼胝 、というようでしょうけれど……、そう…俺は間違っても貴方との〝約束〟を破るつもりなど毛頭ありません…――だが流石に、こんなのはやり過ぎです…。それこそ、いよいよ今回のこれに関しては、悪ければ内臓が傷付いているかもしれません…――正直に言って、俺は貴方が心配なんです。…それに……、……」
この先の何てことない僅少 な本音を言うのでさえ、俺は怖気 づくようになってしまった。
負け犬の遠吠えか。なるほど一理ある。――結局のところ、近ごろ疼いてたまらないかの「牙」が俺を獰猛な、陰湿な企 みにそそのかすその悪の根源たるものは、俺の嫉妬と負け惜しみなのであろう。
「…貴方とあの人はそれでも愉 しいのでしょうけれど…、俺だって、お二人の愉しみを否定するつもりなどさらさらありませんけれど…――ましてやお二人のことに関しては、俺は貴方の夫とはいえ、傍観しているだけの一他人に過ぎませんけれども…――しかし僭越ながら俺は今…、夫の体にここまでのことをされて、なお看過してよいものかどうかと迷っているんです…。」
あるいは、これさえかの「約束」を破っていることになるのかもしれない。
夫の身を憂患 するがゆえの意見をすることさえ、俺には許されないことなのかもしれない。
「そもそも貴方にはご自分を、またご自分の体をどうか大切にしてほしいとは、以前から俺は言ってきましたけれど…――正直俺は、貴方の体に痣や傷やを見るたびにやりきれない思いに襲われて、いつも取り乱しそうになるほどです…――そして些 か、…率直に言えば、……些かの怒りをも感じてしまうんです。――大切な貴方の体を傷付けられることに関しては、俺は…、…俺はその実、どうしても耐え難 いところがある…。…横槍 を入れるようなことを言って申し訳ないが…、……」
悪ければこれでユンファさんはまた不機嫌になり、俺のことを罵倒してくるかもしれなかった。
しかし俺はこうして苦言を呈 するとき、怯えたように言葉は選んではいても、それでいていつも彼の怒りが我が身に降りかかることを覚悟している。
今も俺は、覚悟を決めている。
「ですから…もうあんな人とは縁を切ってほしいんです。」
しかし、それでいて今の俺は、こうして自分を守ることもまた忘れられない。
「尤 も…俺のこれは、あくまでも絶縁をおすすめしているに過ぎませんけれど…――あとはご自身がどうなさりたいか、…貴方ご自身が、賢明な判断をしてください。」
「……うん、わかった…、じゃああの人とはもう縁切る……」
と俺の前に自身も正座しているユンファさんが、そんな「空返事」をする。
経験則からいって、この場合の彼のこれは空返事なのである。――これで本当に縁を切るときもあれば、切らないときもある。
……まあ切ったとても、結局はまた同じような新しいサド男とすぐに縁をもつのだから、そう意味もないことなのだが。
俺はまた今度もこれか、と内心呆れながらも、「さて、」と彼の肩を軽く手のひらで押す。
「今日は、お背中は…?」
「……、…」
するとユンファさんは何も言わずに体を返しつつ、白いTシャツをまくり上げて背中を露出させながら、おもむろにベッドにうつ伏せになった。
そうして俺の目にあらわになったその雪白の細い背中には、案の定、殴打された赤黒い痕があちこちに残っている。――男らが後背位 で彼を犯しながら、この背中を殴るのなど一再のことではなかった。…それで俺は、どうせまた今日も背中もやられたんだろう、と、「背中は?」と聞いたわけである。
「…じゃあ塗りますね…、……」
と俺は声をかけたあと、指先に取っていた軟膏を、ユンファさんの背中の痣に優しく塗りこんでゆく。
と…そのとき……、
「……ふふ……」
ユンファさんが何か幸せそうに、しかしひっそりとした含み笑いをもらした。
俺はこう尋ねてみる。
「……思い出し笑いですか…?」
するとユンファさんは「ううん…」とやはり、やたらふわふわとした幸福そうなやわい声でそれを否定し、そしてどこか危うげな、まるで純粋な子どものような舌たるさでこう言った。
「やさしいね、ソンジュ…」
「…優しいですか。俺が?」
しかし、そう俺は自嘲して笑った。
今はともかくとしても、ついさっきまでユンファさんにつらく当たっていたような夫が、俺だ。――優しいだろうか? よっぽど誰しもの目にエゴイストと見えるような夫だろうに。
それでも彼は「うん…」と、どこか甘えるような声で肯定する。
「…僕なんかのこと…心配してくれた…、ねえ、心配してくれたんでしょう……」
「……それは…ええ、まあ…、先ほどにもそう言いました通り……」
と俺は手もとを見ながら、いささか決まり悪く答えた。――単なる優しい心配だけで自分がああ言ったわけではないことを、誰よりも俺自身が一番よくわかっているからである。
そして俺はそう思うからこそ、――だからといって、今から言うことが嘘だ、というわけではないが――こう話題を変えようとしたが……、
「それより…僕〝なんか〟なんて、よしてくださ…」
「ふふふ…、ふふ…、ソンジュが…ソンジュが心配してくれた…、やっぱり心配してくれたんだ、ソンジュ…――ソンジュが…僕なんかのこと…、心配……、心配してくれたの、やっぱり…僕…、大丈夫…ほらね、大丈夫…、大丈夫……」
「……、…」
俺は正直にいっていささか怖くなり、ふと目を上げてユンファさんの顔を見た。――今そうぶつぶつとうわ言のように言っている彼の声は、やたらと浮ついた高い掠 れを帯びていた。
そして白いまくらに片頬をあずけ――上になっている、つまり俺の目に見える頬はほんのりと上気している――、自分の白く高い鼻先に置いた手の指先を見下ろしているような彼の横顔には、危うげなほどに恍惚とした、やわらかい微笑がたたえられていた。
……それもその表情の恍惚具合は、ある種正気が認められないほどである。
「…ソンジュ…だから…、大丈夫…、僕…まだ…大丈夫…、心配してくれたから…、まだ、大丈夫……大丈夫、心配…してくれた…、嬉しい……」
「……、ユンファさん……?」
……いいや、わかっている。
呼びかけたところで、今のユンファさんには俺の声など聞こえていない。
「…ふふふっ…」彼がまくらに顔をうずめる。
「…ソンジュが…僕…、心配……きっと…まだ…、……ふふ、ふふふふふ、…溶けちゃいそう……」
「……、…」
俺はまた目を伏せ、その人の背に視線を戻した。――ひとまず手当てをつづけよう。
いまだ少し奇妙には思うが、とはいえ、今やもうこれを見て動揺するでもない。――ユンファさんは俺に薬を塗られているさなかから、また、その後俺にあまりにも丁重に抱かれて事が終わるまで、時おりこのような顔をするのである。
そしてこうして、まるで俺に心配されたこと――優しくされたこと――を、悦んでいるかのような態度を取る――それもそう、酷ければしばしばこのように一種狂気的な恍惚状態となる――ユンファさんを、俺も最初はどう捉えるべきか迷ったものだ。
何が、どれが彼の本音なのやらわからないのは今もそうだが――はじめこそ心配のうちにもつい真に受けて喜んでしまっても、しかし、翌朝には彼はまた冷ややかな態度で俺をあしらい、間男と睦言 を交わしあいながらセックスをしている。
いいや、それどころかこうして幸福そうな姿を見せた翌日の彼は、普段にもまして俺に酷く当たるようになるのだ。――それはまるで、好きでもない男に勘違いをされたと迷惑がっているかのように。
しかしそれも、はじめこそつらい過去の経験から、俺を愛すること、愛されることを恐れているゆえに、俺のことを拒んでいるのではないか、とも考えてはいたが――それでいて間男らに、まあ狡猾なその場限りの嘘なのだろうが、…しかし、本当に嘘なのかどうかも確証のない愛の言葉をささやくユンファさんに、いよいよ俺はその考えさえも疑うようになった。
果たして愛すること、愛されることを恐れているような人が、嘘でも「愛してる」だなどと――男らを勘違いさせるようなことを――言うだろうか、と。
いや、愉しんでいるだけかもしれない。もてあそんで内心ほくそ笑んでいるのかもしれない。――しかしあるいは……。
俺のことは愛していない。
間男らには愛をささやく。
しかし、こうして俺の優しさには悦ぶ。
翌朝には鬱陶しそうに俺を酷く拒絶する。
俺を愛しているから、俺を拒絶するのか――愛していないから、俺を拒絶するのか。
――どれがユンファさんの嘘で、真なのか?
俺にはもうユンファさんのことは何もわからない。
だが、一旦は何かしら結論づけてでもおかなければ、俺の「わからない」はいよいよ悪化するように思われた。――それで、ひとまずはこのように結論づけておいてあるのである。
……これもまた、背徳感による悦に浸っているだけなのだろう。…不倫相手につけられた痕を――怪我だらけの自分を――やさしく心配して手当てする夫の俺、…間男、自分、夫の俺、…その関係性がもたらす蜜のような悪の背徳感に、彼はきっと陶酔しているだけのことなのだろう。と。
「ふふ…ねえソンジュ……」
とユンファさんは、うっとりとした甘い声で俺を呼ぶ。
「ごめん…縁切るの…――あの人と縁切るの、やっぱりやめる……」
「……、…そう……」
そう言われてしまっては、俺はあれ以上のことはもう何も言えない。
食い下がることなどしたくともできない。――すると、いよいよあの「約束」を破ることにもなりかねないから、である。
だが、それでいいわけが…――ユンファさんがこのまま傷つけられ続けていいわけが…――それを見過ごしていいわけがない…――だのに、
――愛とは一体、何だろうか。
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