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第6話

 七月下旬。  夜も更けた研究棟はしんと静まり返っている。午後十時過ぎ。窓の外は漆黒の闇だ。  圭は、自室の照明の下、ディスプレイに映る自身の論文草稿を睨んでいた。  『非平衡量子系における観測者効果と非局所相関』――数ヶ月かかりきりになっている研究だ。二歩進んでは三歩下がるような、じれったい進捗が続いている。  特に春先からは停滞していて、今夜もやはり思考がうまく繋がらない。集中力の糸が、何度もぷつりと切れる。  そのたびに脳裏をちらつくのは、あの学生――秋吉悠也のことだった。  会議での一件以来、ますます彼の名前が頭から離れない。  ――休むべきか。  眼鏡を外し、疲れた目頭を強く揉む。  今まで、多少感情が揺れることがあっても、研究に没頭すれば大抵は忘れることができた。  なのに何故か、秋吉悠也だけは違う。彼のことを思うと、胸の奥に『何か』が波打ち、圭の心を騒がせる。  圭は、その事実に苛立ち、そして戸惑っていた。  立ち上がり、凝り固まった体を伸ばしながら窓辺へ歩み寄る。闇に沈むキャンパスには、街路灯の光が頼りなげに点在している。  その時、不意に、部屋の外から微かな物音が聞こえた気がした。  空耳か? いや、違う。  金属が擦れるような、あるいは何かが稼働するような低い音。  夏休みの夜の研究棟だ。通常、無人に近いはずだった。  幽霊、という単語は圭の頭には浮かばない。この古びた建物にはその歴史に比例して怪談の類も多いらしいが、圭は非科学的なものを信じない。  音の正体を確かめるべきだ。  迷いなく、しかし静かに圭はドアを開け、廊下に出た。ひんやりとした空気が肌を撫でる。  音は、廊下の突き当たりにある実験室の方から聞こえてくるようだ。足音を忍ばせて慎重に進む。  実験室のドアの隙間から、青白い光が漏れていた。  怪異ではないことを改めて認識しつつ、新たな疑問が湧く。――夏休みの、しかもこんな深夜に、実験?  ドアのスリット窓から、そっと中を覗き込んだ。そして声もなく大きく瞳を瞠る。  中には、学生らしい誰かの背中が見えた。実験装置に向かい、一心不乱に何かを操作している。  明るい茶色の髪、しなやかな体つき。――見間違えるはずがない。  思考よりも早く、ドアを軽くノックしていた。  びくりと肩を揺らして振り返った顔は、やはり秋吉悠也だった。驚きと、何かを見られたことへの焦りが混じった表情。  彼が慌ててドアを開けると、室内の強い光が廊下に溢れ出し、圭は思わず目を細めた。 「秋吉くん……?」  驚きを隠せないまま呼びかける。  光に慣れた目が捉えたのは、秋吉の背後に並ぶ、明らかに稼働中の高度な実験装置だった。 「こんばんは、藤堂先生」  圭の視線に気づいたのだろう、秋吉は、引き攣ったような苦笑いを浮かべた。  その表情に、得体の知れない胸騒ぎがする。 「夏休みだというのに、こんな時間まで一体何をしている?」  秋吉を押し退けるようにして室内に足を踏み入れながら、圭は努めて冷静に尋ねた。  実験装置を仔細に観察し、自然に視線が鋭くなる。学部生が一人で、しかも指導教官もいない夜中に扱っていいレベルのものではなかった。 「いやー、気配消してたんですけどね。バレちゃいましたか。先生、耳、良すぎません?」  軽口を叩くその声にいつもの軽やかさはない。 「一人で何の実験だ? 場合によっては規則違反に――」  言いかけて、圭は言葉を失った。改めて秋吉の顔を正面から見たからだ。  作り笑いの下に隠しきれない、深い疲労の色。 目の下には濃い隈が刻まれ、頬はこけている。  更に、荷物置き場のデスクに林立する、おびただしい数のエナジードリンクの空き缶。  圭の視線を敏感に察知したのか、秋吉は作り笑いのまま頭を掻いた。 「いやー、ちょっと、松原先生から課題出されちゃって。夏休み明けまでにレポートまとめなきゃいけないんですよ」 「課題?」  圭は眉根を寄せた。 「松原先生が、学部生にこんな実験を?」 「そうなんですよ。夏休みだっていうのに」  秋吉は笑顔を貼り付けたまま答えるが、その大きな黒い瞳は、隠しきれない動揺に揺れていた。あの春の日に見たひたむきな光はそこにはない。 「あり得ない。こんな高度な実験は、学部生の技術水準を超えている」  圭は静かに、しかし断定的に言った。 「あー……」  秋吉の視線が、圭から逸れて床に落ちる。  嘘を見抜かれた気まずさと、それでも何かを隠そうとする頑なさ。 「……いえ、これは、その、追加の特別課題っていうか……俺が、先生に無理言って頼んだんです。ほら、就活のネタとか? 有利かなって。自主的にやってるだけです」  圭は黙って秋吉を見つめた。その静かな視線は、彼の薄っぺらな嘘を容赦なく剥ぎ取っていくようだった。 「ならばなぜ、最初からそう言わない? 私の最初の問いに、君は『課題を出された』と答えた」  その指摘に、秋吉の顔からついに笑顔が消えた。 「――…」  深く息を吐き、近くの丸椅子に崩れるように腰を落とす。

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