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第7話
「……別に、大したことじゃないですよ」
実験装置に視線を向けたまま、秋吉は呟いた。見下ろす圭の視線の先で、笑みの消えたその横顔に浮かぶ表情はひどく乾き、脆く見えた。
「松原先生にはちゃんと許可もらってます。放っといてもらえるとありがたいんですけど」
ちくり、と胸が痛む。そそんな言い方で他者を突き放そうとしている姿が痛々しい。
「必要なら始末書でも何でも書きますよ。……さすがに退学は勘弁してほしいですけど」
投げやりな口調には力がなく、自嘲めいた笑みが唇に浮かんでいた。明らかな強がりに、圭の胸の奥が小さく軋む。
重い沈黙が落ちた。空調の低い唸りと、実験装置の微かな駆動音だけが響く。
何か言わなければ。このまま放っておけるわけがない。
「秋吉くん」
内心の焦燥とは裏腹に、呼びかけた声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
秋吉の肩が怯えたように小さく跳ねる。
しまった、と思った。優しい声の出し方など、もう何年も忘れてしまっている。
圭は小さく咳払いをした。
「――確かに私は、君の指導教官ではない。だが、偶然とはいえ、」
エナジードリンクの空き缶の群れに視線を向ける。
「こんな状態の君を知って無視することはできない。……君が見かけによらず真面目な学生だということも、以前から知っているつもりだ」
そこまで言って、圭は言葉を切った。秋吉の肩が、微かに震えているのに気づいたからだ。
彼は俯いたまま、くつくつと低い笑い声を漏らしていた。だが、その声に愉快そうな響きなど欠片もない。
「……また言いましたね。『見かけとは違って』って」
顔を上げた秋吉が、力なく笑う。
「――……」
圭は虚を突かれて言葉を失った。
「覚えているのか?」
春の日、桜の下での、ほんのわずかな邂逅。
それを、彼も、覚えているということだろうか。あんな些細な出来事を。
秋吉の大きな黒い瞳が、圭をまっすぐに見上げた。
疲労と諦念の色が濃いその瞳の奥に、一瞬だけ、あの日のひたむきな光が蘇ったように見えた。――深い、吸い込まれそうな黒。
視線が絡み合う。
「心配かけて、すみません」
先にそれを逸らしたのは、秋吉の方だった。
圭の胸の奥に波紋が広がる。ざわめくそれが確かに『失望』という名の陰りを帯びていることに、圭は一人狼狽えた。
「とにかく、少し休め。このままでは本当に体を壊すぞ」
重い沈黙に耐えかねたように圭は言った。もっと労わるような優しい言葉をかけたいのに、出てくるのは硬い命令口調ばかりだ。
秋吉はすぐには答えなかった。しばらく俯いていたが、やがて力なく首を横に振る。
「そんな余裕、ないですよ」
声は小さく、震えていた。いつもは柔らかな曲線を描いているだろう唇が、今は真一文字に固く結ばれている。
何が彼をここまで追い詰めているのか。圭には見当もつかない。だが、秋吉の強がりに触れるたび、どうしようもなく『何か』が掻き立てられる。
なぜこれほどまでに、他人のことで心が揺さぶられるのか。
自分でも理解できないまま、秋吉から目が離せない。
「全部……何もかも、完璧じゃなきゃ、意味ないんです」
顔を上げた秋吉が、絞り出すように掠れた声を零した。
圭は無言で瞳を瞠った。どこかで聞いたことのある――いや、どこか、ではない。
あまりに切実なその響きを、圭は確かに知っていた。
遠い過去の、自分自身の古い傷を鮮やかに思い出す。
声もなく見詰める先で、秋吉の瞳が、一瞬、ガラス細工のような脆さに揺れた。
ずきり、と、はっきりと圭の胸に鋭い痛みが走る。
あの時の自分も、今の彼と目をしていたのだろうか。過去の自分と同じ闇の中で、秋吉は一人追い詰められているのだろうか。
「――すみません。変なこと言って。……帰ります」
秋吉はふらりと立ち上がった。その瞳からはもう先程の脆さは消え、再び硬い仮面が被せられている。
圭は、何も言えなかった。こんな時にすぐにうまい言葉が出てくるような性格なら、きっと別の人生を歩めていただろう。
逃げるように実験室を出ていく背中が見えなくなっても、圭はしばらく動けずにいた。
「――……」
やがて糸が切れたように、深く息を吐いて椅子の上に座り込む。
結局何もできなかった後悔がじわりと胸の奥に滲む。苛立ったように頭を抱えた。
すると、視界にふと、実験台の上に置き忘れられたノートが目に入った。
あの日と同じ、水色のキャンパスノート。手に取って開くと、そこに綴られているのは、緻密な計算式と何度も書き直された実験データの跡。
そしてページの隅に、小さく、しかし力強く書き殴られた文字が、圭の目に飛び込んできた。
『完璧に』
その文字は、何度も何度も、まるで自分に言い聞かせるようになぞられていた。
圭は、その文字から、声にならない叫びを聞いた気がした。
放っておけない。
再び、強い衝動が圭の全身を貫いた。
この感情が何なのか、今はまだ判然としない。だが、確かめずにはいられない。たとえそれが、自分が決して踏み込んではならない領域に足を踏み入れることであったとしても。
圭は静かにノートを閉じ、闇に包まれた窓の外を見据えた。
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