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第8話

 翌朝。  圭は、自らの研究室で秋吉悠也に関する情報を検索していた。  本来なら、自分が直接指導しているわけでもない学生のことに、ここまで立ち入るべきではないと分かっている。しかし、圭の手付きに迷いはなかった。  学生データベースにアクセスし、キーボードを素早く操作する。  画面に映るのは、秋吉悠也に関する詳細な個人情報を網羅したテーブルだ。  表示された情報を素早く読み取っていた視線が、両親それぞれの職業欄で止まった。  圭の神経質そうな細い眉がほんのわずかに動く。 「――なるほど」  思わず口から零れ落ちた。  秋吉の両親は、共に有名国立大学の教授を務めている。業績欄には華々しい受賞歴が並び、著名な論文も多数。そして彼に兄弟姉妹はいない。  更にリンクを辿っていくと、秋吉の過去の学業成績が表示された。  すべて最優秀。中学、高校と、全国模試でも常にトップクラス。大学に入ってからもすべての科目でほぼ満点。 「どこかで見たことがある眺めだな」  背凭れに体重を預けながら、圭は小さく苦笑した。もし圭自身の学生時代の成績を表示することができれば、今、画面に映っているものとよく似た数値が並ぶだろう。 『藤堂。まさかお前がこんな無様な失敗をするとは思わなかったぞ』  かつての指導教官の声がふと蘇り、圭の眉間に皺が寄る。直ぐに小さく首を振り、その記憶を追い払った。  過去の自分をきつく苛んでいた檻。今は、その檻の残骸をこうして俯瞰することができる。 ――ならば秋吉も、きっと。 そう思った瞬間、胸の奥によくわからない感情が波打つことをまた圭は自覚した。ただの痛みとは違うその『何か』の正体は、まだ掴めない。 「藤堂? 入るぞ」  不意にノックの音が響き、返事をする前に勝手にドアが開かれる。入ってきた大柄な男に、圭は苦笑を向けた。 「ノックの意味がありませんよ、高瀬先生」 「俺とお前の仲だろ。それに、呼び出したのはお前さんの方だしな」  にやりと笑う悪童のような表情は、初めて知り合った頃から変わらない。  勝手知ったる所作でソファにどかりと腰を下ろしたのは、圭と同じ物理学科で准教授を務める高瀬速人(たかせはやと)だ。  圭の入学当初は同じ学科の院生として圭のメンターを務め、今は同僚という間柄だった。十年という付き合いの長さのおかげで、先輩後輩というより友人に近い。  圭は自然に立ち上がり、コーヒーの用意をした。といっても安いドリップパックだが。 「で? お前さんがわざわざ呼び付けるとは珍しいな。オニイサンに何でも話してみろ?」 「からかわないでください」  苦笑して紙コップを高瀬の前に置きながら、圭は向かいのソファに浅く腰を下ろした。  どう切り出せばいいのか、わずかに迷う。何しろ、こんな相談を誰かに持ちかけた経験などない。 「――秋吉のことか?」  いきなり図星を貫かれ、紙コップを取り上げようとした圭の長い指が小さく跳ねる。  相手が高瀬でなければもっとうまくごまかせるはずなのに、と、何となく恨めしい気分で高瀬に視線を向けた。 「なぜそう思うんです?」 「六月の学部会議だよ。珍しくお前さん、秋吉を庇ってただろ」 「……よく覚えてますね」 「忘れられるか。あの氷の藤堂がわざわざ学部長に意見した、ってみんなびっくりしてたぞ」  高瀬は可笑しそうに笑った。ただ、圭を見詰める瞳は優しい。 「何か気になることがあるんだろ。言ってみろよ」  圭は、無意識に詰めていた息を吐き出した。昔から高瀬は、圭を楽にする術を無意識のうちに心得ているようだった。  居住まいを正し、圭は淡々と昨夜の出来事を語った。  聞いている内に高瀬の表情が引き締まっていく。 「夏休み明けまでに……? おい、ひょっとしてそれ――」  何かに思い当たったらしい彼に小さく頷きを返し、圭の手がノートを捲る。それは、昨夜秋吉が残していったものだ。 「彼が置いて行ったノートに、こんなものが」  ページの間に挟まっていたA4サイズの書類を広げて高瀬に示す。一瞥し、高瀬がため息をついた。  それは、6月の学部会議で山崎学部長が提案した、大学PRのためのプレゼン大会の開催要項だった。  日時は夏休みが終わってすぐの水曜日。参加予定者には主要マスコミの名前が連なり、登壇者は敬信大学の誇る錚々たるメンバーが並ぶ――そしてその末尾に記載された『秋吉悠也』の名。 「俺でも嫌だぞ、こんなメンツの中で発表するの」 「同感です」  書類を折り畳み、元のページに挟んでノートを閉じる。秋吉を追い詰める元凶は、これだ。 「松原先生はOKしたのかねえ……」 「したんでしょうね。山崎先生も、さすがに一言断りを入れるでしょうし」  しかし、と、圭が言葉を繋げる。神経質そうな所作で眼鏡のブリッジを押し上げるのは、考える時の彼の癖だ。 「それにしては、ケアが足りていないように思います。なぜ、秋吉くん一人であれほど追い詰められているのか」  高瀬は両膝の上に肘をついて両手を組み合わせ、面白そうに圭に視線を向けた。 「そりゃ、松原先生にメリットねえからな」 「メリット?」 「奴さん、前の学部長選挙で山崎先生に僅差で負けただろ。つまりお互い政敵同士だ」  圭は目を丸くした。学部長選挙、などという単語の存在すら忘れ去っていた。圭にとってあまりにも遠い、異世界の出来事としか思えない。 「松原先生にとっちゃ、このプレゼンで秋吉が成功したとしても、推薦した山崎先生の功績にしかならない。しかも当の秋吉は見てのとおりのイケメンでモテモテ、かつ成績も超優秀、ときたもんだ」 「……それは、松原先生にとって誇らしいことなのでは?」  高瀬が小さく笑う。苦笑と表現するには柔らかい。圭を見る視線は、学生時代、メンターとして接していた時と同じ温かさに満ちている。 「全部、松原先生が秋吉と同じ年齢だったときには持ってなかったモンばっかなんだろ。――嫉妬だよ。寧ろ、しくじってしまえとまで思ってても不思議はねえわな」 「――ばかげている」  圭の胸の奥で、突き上げるように心拍数が上昇した。  脳裏に浮かぶのは、あの春の日に拾ったノートと昨夜置き去られていたノート。どのページにもぎっしりと書き殴られていた試行錯誤の軌跡。  あの真摯なノートの持ち主が、そんなくだらない感情の犠牲になっていることに、圭は、久しく忘れていた怒りの感情がゆっくりと頬を熱くするのを感じていた。  じっと圭に視線を向けた後、高瀬は、ばかげてるよな、と呟くように漏らし、紙コップの中身を啜った。 「秋吉も秋吉だ。それならさっさと誰かにヘルプ求めりゃいいのによ。……まあ、そのへんの機微にゃ、お前さんのほうが詳しそうだけどな?」  やや痛いところを突かれ、圭の細い眉が、つ、と寄る。  高瀬の指摘は的確だった。そうだ、今の秋吉の状況は、あの頃の自分と同じだ。 「確かに、秋吉くんが誰にも助けを求められないでいる気持ちは、私にも少しは理解できます。だからこそ、彼を助けてやりたい」  言葉にすると、それはひどくしっくりと圭の内心を満たした。  彼を、秋吉を、助けてやりたい。彼の黒い瞳のひたむきな光を曇らせたくない。 「この理不尽な状況を見過ごすわけにはいきません。担当教官が――松原先生が彼を守らないのなら、私が守る」  圭は静かに高瀬を見詰めた。  『氷』と形容されるに相応しい、冷徹で感情のない表情。しかし、切れ上がった瞳の奥には確かに、熾火のように怒りが燃えている。 「高瀬先生」  細いシルバーフレームが外からの陽光を細く弾く。  静かな怒りを秘めた怜悧な視線を前に、高瀬が背筋を伸ばした。 「これから山崎学部長にアポを取ります。同行していただけませんか」

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