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第9話
その夜。
圭は珍しく研究室に籠らず、公立図書館で時間を潰していた。
自分の研究室に灯りが点いているのを見た秋吉が、昨夜のことを思い出して引き返してしまう気がしたためだ。
大学での実験自体を諦めることはできないだろう。秋吉に課された課題は、大学に備え付けられている実験装置を使わなければ完成させることはできない。
数日様子を見る可能性も考えたが、あの切羽詰まった様子を見れば、実験室に寝泊まりしたいほどに時間が惜しいだろうことは想像に難くない。
研究棟の建物を前に、腕時計に視線を落とす。
昨夜、秋吉を偶然に発見した時刻が近い。
見上げれば、案の定、最上階の一番奥――昨夜秋吉が使っていたあの実験室の窓だけが煌々と明るい。
予想は当たったが、少しも嬉しくない。
複雑な思いを抱えたままため息を吐き、圭は人気のない研究棟に足を踏み入れた。淡々としたいつもの足取りで目的の実験室へと向かう。
「!」
昨夜と同じくノックをすると、昨夜と同じく、しなやかな背が小さく跳ねた。
「藤堂先生……」
ドアを開いた秋吉の表情は、どこか観念したように見えた。その整った顔立ちを陰らせる疲労の色は、昨夜よりも濃い。
何か言いたげな秋吉を無視し、立ち塞がるその身体を押し退けて部屋に入る。
駆動している実験装置には目もくれず、荷物置き場になっているデスクの一角を片付けて、携えてきたポリ袋の中身をせっせと並べ始めた。
「え、? な、何やってんですか、先生。何ですかそれ」
「見て分からないか?」
おにぎり。サンドイッチ。鮭弁当。のり弁当。トンカツ弁当。カレー。チキン南蛮。ほうれん草のおひたし。ごぼうのきんぴら。春雨の酢の物。鶏のからあげ。鯖缶。照り焼きチキン。赤飯。いなり寿司。カット野菜サラダ。ポテトサラダ。マカロニサラダ。――すべて、スーパーで買い揃えられる類のあれこれだ。
ただし、その量も種類も、二人分にしては常軌を逸している。
「いや分かりますよ。分かりますけど、……え?? な、何で?」
「私は君の好みを知らないから仕方がない」
「はあ?」
「とにかく、食べなさい。どれでも好きな物を選ぶといい」
ちゃんとお茶も買ってきた、と、とどめのようにペットボトルを並べ、秋吉に視線を向ける。
秋吉は、名状し難い表情を浮かべ、ずらりと並んだ食料の数々を眺めた。その両目が忙しなく瞬いている。
「――何で……」
立ち尽くしたまま、秋吉の声がひび割れた。
「何でこんなことするんですか。頼んだ覚えはありません」
自分に向けられた秋吉の怒りの視線を、圭は静かに受け止めた。
その表情を圭は確かに知っていた――過去の自分が、高瀬に向けたものと同じ。
「同情ですか? 俺が、他人に助けてもらわないとロクに課題もこなせない半人前だから? だから憐れんでやろうって? 『氷の藤堂』なんて言われてるくせに、ずいぶんお優しいんですね」
振り翳される言葉の刃。その痛みを、圭はよく知っていた。かつての自分も高瀬にそれを向けた。
だが、その刃が傷つけるのは、向けられた相手ではない。それを振るった本人――かつての圭自身であり、今の秋吉だ。
自分の言葉に傷つき、血を流している秋吉の心が、圭にははっきりと見えた。
「……迷惑です。放っておいてくれ、って言ったじゃないですか」
突き放すような、それでいて縋るような響きを帯びたその言葉を、圭は静かに受け止めた。
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