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第10話

「君の気持ちは、少しだけ分かる」  圭はゆっくりと口を開いた。その声は、彼にしては珍しく、硬さを欠いていた。……優しい声の出し方を、少しだけ思い出した気がする。  訝しげに秋吉が顔を上げる。その瞳は、警戒心に張り詰めている。 「私も、君と同じ三年生の頃、今の君と似たような状況にいたことがある」  秋吉の眉がぴくりと動いた。  圭は、窓の外へ視線を転じた。  真っ直ぐに見詰められたままで語るには、まだ少しだけ痛みが残る一場面。  丸椅子に腰を下ろし、窓の向こうに広がる深更の闇へ視線を向ける。 「当時の指導教官は、私に期待してくれていた。『藤堂の頭脳なら、この程度の課題は数日でクリアできるはずだ』――そう言われるたびに私は、自分が特別な存在なのだと思えて誇らしかった」  ガラス越しの夜闇を瞳に映しながら、頬に秋吉の視線を感じる。 「実際に結果も出し続けた。どれほど困難な課題だろうと必死でこなした。『完璧に』な。」  語りながら、圭はあの頃の息苦しさを久しぶりに思い出していた。  賞賛の言葉が重い鎖となり、自分を雁字搦めにしていた日々。 「いつしか私は、常に完璧な結果を出すことを求められていた。完璧でなければ、自分には価値がない。本気でそう思うようになっていた。だから私は常に『完璧に』すべてをこなし、何ひとつ失敗せず――」  ふ、と、不意に小さく笑う。  秋吉に視線を戻した。大きな黒の瞳が、更に大きく瞠られていた。 「そんなこと、できるわけがない」  苦い記憶が胸の裡に蘇る。 「ある時、ついに失敗した。初心者でもやらないような基本的な数値の転記ミスを、よりにもよって一番大事な研究発表の日にやらかした。指導教官にもとんでもない恥をかかせたから、皆が見ている前で怒鳴り付けられた」  圭を見詰める秋吉の双眸からは、もう警戒の色は消えていた。引き込まれたように聞き入る真摯な表情がそこにはあった。 「――初めての挫折、というやつだ。何より、自分で自分が許せなかった。大学をやめてしまおうとすら思った」  今振り返れば、そこまでの大事ではないと思える。だが、八年前の自分にはそれが理解できなかった。 「余程思い詰めているように見えたのだろうな。ある日、とある先輩が――高瀬先生が飲みに誘ってくれた。そこで言われたんだ。『完璧なんぞクソくらえだ』と」  つい、笑声が零れてしまう。見なくても、秋吉が目を丸くしているのが分かった。 「……高瀬先生らしいですね」 「そうだな」  笑みを収めて一度視線を伏せ、眼鏡のブリッジを押し上げる。 「完璧な結果を一度だけ出すことよりも、試行錯誤を繰り返しながら、たとえわずかでも前進し続けることの方が、研究者としては遥かに価値がある。……高瀬先生はそう教えてくれた。その言葉が、当時の私を少しだけ救ってくれた」  圭が口を閉ざすと、秋吉は俯き、何かを堪えるように唇を噛んだ。  圭の言葉は、強張っていた彼の心の一端を確かに解いたのだろう。  だが、その奥には、未だに重く沈む影がある。  言葉にしきれない何かが、まだ彼の中に渦を巻いている――そんな気がした。  やがて秋吉は、小さく息を吸って、ぽつりと口を開いた。 「……でも。今回は、本当に、失敗するわけにはいかないんです」  哀れなほど硬く握り締められた拳が見える。声の震えに、彼の抱えるプレッシャーの大きさが滲み出ていた。  学内政治の道具にされ、たった一人で矢面に立たされようとしている恐怖。  圭はあえて、そっけないほどの口調で言った。 「心配ない」

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