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第12話

 夏休み明けに開催されたプレゼン大会は、結果的に大成功を収めた。  秋吉の研究内容の独自性と将来性、そして圭による理論的な補強と落ち着いた語り口は、集まった聴衆とマスコミ関係者に強い印象を与えた。会場からは惜しみない拍手が送られ、記者たちは熱心にペンを走らせていた。  質疑応答では、やはり秋吉個人への注目度が高く、彼の容姿やプライベートに踏み込もうとする無遠慮な質問も飛んだが、それらはすべて圭が礼儀正しく、しかし断固とした態度で遮った。 『彼はまだ将来ある一学生に過ぎません。研究内容以外の過剰な取材は、どうかお控えいただきたい』という言葉に一部の記者は渋面を作っていたが、圭にとっては何ら痛痒を感じない些事だった。  ――その間、圭の隣に立つ秋吉が、どこか誇らしげに、そして安堵したように圭の横顔を見つめていたことに、圭自身は気づいていなかった。  閉会後、学長から直々に称賛の言葉を賜り、推薦者である山崎学部長は満面の笑みで二人を労った。その傍らには面白くなさそうに唇を引き結んでいる松原教授の姿もあったが、もはや圭の意識にはほとんど上らなかった。  今はただ、隣に立つ若者の成し遂げたことへの安堵と、静かな誇らしさで胸が満たされていた。  喧騒が少しずつ引いていく会場の片隅で、高瀬が近づいてきて、圭と秋吉の肩をそれぞれ力強く叩いた。 「よう、二人とも、お疲れさん! 大したもんだったぜ」  その屈託のない笑顔に、張り詰めていた空気が少し和らぐ。 「あとは俺らが適当にやっとくから、お前らはもう休め。特に秋吉、お前、まだ顔色悪いぞ」  高瀬の言葉に、秋吉は少し照れたように笑って、ありがとうございます、と頭を下げた。  圭も礼を言い、秋吉と共に会場を後にした。  外に出ると、夏の終わりの気配を含んだ風が、火照った頬に心地よかった。  夕暮れにはまだ間がある空は高く、微かに黄金色を滲ませて澄み渡っている。二人分の影が、敷石の上に長く伸びていた。  しばらく無言で歩く。蝉の声も、もう盛りを過ぎたようだ。  心地よい疲労感と大きな山を越えた達成感を共有する沈黙は、気まずいものではない。  不意に、秋吉が足を止めた。 「……終わりましたね、先生」  ぽつりと呟いた。その声には、深い安堵の色と――同時に、どこか惜しむような寂寥も滲んでいるように聞こえたのは、気のせいだろうか。 「ああ」  圭も立ち止まり、秋吉を振り返った。  見詰めた先の秋吉の顔にはまだ少しだけ疲労の色は残っているものの、数週間前の追い詰められたような表情はもうない。  本来の彼が持つであろうまっすぐな、ひたむきな光が、その大きな瞳に戻ってきている。 「困難な課題だったが、君は見事にやり遂げた」  圭は続けた。その声は、自分でも驚くほど柔らかい響きを帯びていた。こんな声を出したのは何年振りだろうか。 「本当によくやった、秋吉くん」  自然に口端を綻ばせ、静かに秋吉を見据える。  秋吉が、息を飲むように瞳を瞠った。 「……先生の笑ってるとこって、レアですね」  圭は困惑した。確かに、笑うどころか普段はほとんど表情を動かすことはない。 「仏頂面で悪かったな」 「悪いなんて言ってないですって。普段の顔も、……いいと思います、俺は」  繋げられた声が思いのほか真剣な響きを帯びているように聞こえて、どきり、と、圭の胸の奥で鼓動が跳ねた。そしてそんな自分の反応に密かに狼狽する。小娘でもあるまいに。  頬が異様に熱を持ち始めた気がして、慌てて顔を背けた。  その圭の反応を別れの合図だと思ったのだろう。秋吉がやや慌てたように声を張り上げた。 「あの、先生!」  確かにこのあたりで別れるつもりだったので、そのまま脇に伸びた小道へ歩こうとして止まる。  肩越しに振り返った視線の先で、秋吉は、傾きかけた陽光に照らされ、橙色に染まって見えた。 「何だ」 「プレゼンは終わっちゃいましたけど、――これからも、何かわからないことあったら聞きに行ってもいいですか?」 「――……」  脳裏に浮かんだのは、先刻、山崎の隣で苦虫を噛み潰していた松原の顔だった。  確かに、指導教官があれでは、スムーズに研究を進めるのは難しいだろう、と圭は納得した。 「勿論だ」  短く答え、今度こそ踵を返す。  もし松原から何か文句を言われたら、その時に考えればいい。  いつも冷静にリスクを回避する圭には似つかわしくない思考だったが、今は気にしないことにした。 「本当に、ありがとうございました!」  明るい声が背にぶつかる。振り返らなくても、秋吉が深く頭を下げているのが分かった。片手を軽く上げて応える。  背を向けたまま歩き出しながら、さっき見た秋吉の笑顔がふと脳裏に浮かぶ。  その瞬間、また胸の奥で、あの感情が静かに揺れた。秋吉と一緒にいるとき、秋吉のことを思うとき、決まって深いところで波打つ『何か』。  振り払うように、首を振った。そんな曖昧なものにこれ以上気を取られたくなかった。  数字と記号と方程式では合理的に答えを出すことができない、そんな種類の問いは、遠ざけて生きていく。そう決めたはずだった。  ――それなのに。  圭の決意とは裏腹に、胸の底で揺蕩う『何か』は――秋吉の笑顔を、あのひたむきな黒い瞳を思い出すたびに波打つそれは、あまりにも温かく、柔らかくて、拒むことができない。  研究棟の前で、圭は一人、足を止めた。  見上げた秋の空はどこまでも遠い。圭の静謐な数式の世界を揺らす未知の『何か』も、空の果てよりなお遠く感じられた。

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