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第13話

 秋が徐々に深まりつつある十月のある日。  研究室で、圭と秋吉は同じノートパソコンを覗き込んでいた。 キーボードを操作する秋吉の傍らで、圭はじっとディスプレイのグラフの変化を見詰めている。  例のプレゼン大会をきっかけに生まれた圭と秋吉の交流は、途切れるどころか徐々に頻繁になっていた。  今では圭の研究室に秋吉がいることは珍しくなく――それどころかすっかり『いつもの』光景になりつつある。 「ここか」  圭の言葉と同時に、秋吉がキーを叩く手を止めた。  圭のしなやかな指先が、グラフの曲線の一点を指し示す。 「確かにずれているな」 「ですよね。松原先生が言うような理論値にならなくて」  圭は、ディスプレイにじっと顔を向けたまま、眼鏡のブリッジを押し上げた。切れ長の瞳を沈思するようにわずかに伏せる。  傍らでなぜか秋吉が息を飲んだような気がしたが、そんな些細な違和感は直ぐに、思考の中でめまぐるしく展開し始めた数式の奔流へ押し流された。 「明確な誤りというわけではなさそうだが――」  短い集中を切り、現時点での結論に至った圭が秋吉へ視線を転じる。  と、思いのほか近くにある秋吉の瞳と真っ直ぐにぶつかり、どきりと鼓動が跳ねて頬に熱が昇った。  ずっと圭を見詰めていたのでなければ、こんな視線の重なり方はしない。  自分が考えに耽っている間、見つめられていたのだと気づいた瞬間、ひどくどぎまぎした。  ディスプレイに向けて屈めていた身体をさりげなく起こし、放置していたタンブラーを取り上げながら窓の外に目を遣る。  秋吉の視線から逃げようとしていることを自覚し、その自覚が更に理由のわからない焦燥を呼ぶ。 「理論モデルの限界かもしれない。松原先生に、実験データを添えて提案してみるといい。彼も研究者なら無下にはしないだろう」 「……わかりました」  わずかな沈黙の意味は、もう聞かなくても分かる。  秋吉の直接の指導教官が松原であることを、秋吉はどうやら歯がゆく感じ始めているらしい。指導教官を替えてほしいと率直に漏らしたこともある。  しかしそれは、一介の教員に過ぎない圭にとって、どう扱っていいのかわからない要望だった。とりあえず今年度は我慢しろ、と言うしかない。 「あ。もう紅葉してますね」  窓際に立つ圭に、秋吉も並ぶ。  圭のタンブラーには紅茶、秋吉はコンビニコーヒーを入れたマイボトル。他愛ない日常が積み重なり、気づけば、お互いがお互いの好みを少しずつ理解しつつある。 「絶景だな」  まだぬくもりを残す紅茶に口を付けながら、窓の外の見事な銀杏の大木に視線を奪われる。毎年のことだが、四階から見下ろす黄金の大樹は圧巻の一言だ。  ふと、銀杏の木の傍らで、こちらに向けて手を振っている誰かに気づいた。  それが自分に向けられたものではないことは、すぐにわかった。見知らぬ華やかな女子学生の集団。  傍らの秋吉を見ると、銀杏をのんびり眺めているらしく全く気づいていない。 「秋吉」  秋吉を呼ぶ呼称は、いつの間にか呼び捨てになっている。 「はい?」  にっこりと圭を見詰める大きな瞳。こうして笑うと、どこか子犬を思わせる。 「友達じゃないか?」  指で下を示すと、驚きに目を丸くした。直ぐに人懐っこい笑みを浮かべながら窓を開く。  爽やかな初秋の風が吹き込み、圭の黒髪を乱した。 「悠也くーん! 何してんのー?」 「課題ー! レーザー干渉のレポート!」 「うっわ、またなんか難しそうなことやってるー!」  四階分の距離を隔てて会話を始めた秋吉に小さく苦笑を浮かべながら、圭は実験装置の前へ戻った。  あの女子学生たちは、全員、圭の知らない顔だ。ということは他学部か他学科の学生なのだろう。どういうつながりなのか圭にはさっぱりわからない。  他愛のない遣り取りは、圭だけでなくかなりの範囲に聞こえているだろうが、頓着しないその無神経さも微笑ましかった。 「ねー、これからカラオケ行かなーい?」  誤解しようのない無邪気な誘い。  何の屈託もないその声音に、ふと胸につきりと小さな痛みが走り、装置を操作する手がわずかに止まる。  ――圭の胸の奥に時折現れる、正体のわからない『何か』。それは、こうして圭の胸を締め付けることもある。  装置から顔を上げると、なぜか肩越しにこちらを見ている秋吉と目が合った。  カラオケに誘われている、その話題の流れは既に聞こえている。圭は軽く顎を引いた。 「偶には息抜きをしてもいいんじゃないか」  というより、本来、圭が許可を出す筋合いすらない。秋吉はあくまでも自主的に、圭の研究室で課題をしているだけなのだ。  理性でそう判断しながら、しかし、自分の知らない場所で知らない誰かと楽しそうにしている姿を想像すると、胸の奥の『何か』がざわりと新たな波紋を広げた。  そして圭は、その波紋の存在を秋吉に知られてはいけないと反射的に思った。  装置に表示された数値を確認するふりで視線を下げる。 「行ってくればいい。明日、続きをやろう」 「――……」  視線を下げたままでも、秋吉がこちらを見ているのが分かった。なぜ、こんなに気まずく感じるのか。  ひと呼吸の間が空く。 「ごめん、しばらく忙しいから! またねー!」  朗らかな秋吉の声が響いて、思わず圭は弾かれたように顔を上げた。  視界の中で秋吉は背を向け、女子学生に別れの挨拶をしている。またね、と言い交わす声は、会話が始まった当初から変わらず溌溂としていた。 「……良かったのか?」  どこか呆然としてそう問うと、丁寧に窓を閉めてから秋吉がゆっくりと振り返った。  圭を映した黒の双眸に、一瞬ひどく真剣な光が揺らめいた気がして言葉を失う。 「なんか、最近あんま遊ぶテンションじゃないんですよ。課題してるほうが落ち着くってか」  一瞬の光は勘違いだったと思わせるような、おどけた口調と声音。  なんだそれは、と笑み交じりに答えながら、普段の秋吉と変わらない明るい雰囲気に、圭は内心で安堵した。

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