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第14話

 季節は更に進む。  すでに銀杏の木は葉をすべて落とし、特有の臭いも、毎日の冷え込みの厳しさに紛れてすっかり薄れていた。 「先生! 肉まんとあんまん、どっち派?」  研究室に入ってくるなり聞かれて、圭は目を丸くした。ということは、秋吉が携えている白い小さな紙袋の中身は。 「……あんまん」 「ビンゴ!」  嬉しそうに笑いながら、差し出された圭の手に、紙袋から取り出したあんまんを載せる。 「藤堂先生、絶対あんまん派だと思った。甘いもの好きですよね、意外と」 「意外で悪かったな。――いくらだ?」  ほかほかと温かなあんまんに齧り付きながら、行儀悪く圭は立ち上がった。現金は財布の中だ。 「いいですよ。俺のオゴリです」  ふふん、と偉そうに胸を張る秋吉も、あんまんを齧っている。  他の三年生がインターンだチャレンジ選考だ就職試験だと目まぐるしくスケジュールを詰め込んでいる中、早々と内部進学で大学院に進むことを決めた秋吉は気楽なものだった。  秋吉の成績なら余裕で推薦枠に入れるため、今は好きなだけ研究に没頭できている。他の学生の指導に時間を割かれる圭の方が忙しいくらいだ。 「親御さんには反対されなかったのか?」  あの夏の日、こっそりデータベースで確認した秋吉の両親のことは、既に秋吉自身の口からもあらかた聞いている。  厳しすぎる教育方針が秋吉にプレッシャーを与えた時期もあったが、今は適度な距離感を保って良好な関係を築けているようだ。 「んー。そりゃまあ、大丈夫なのかって聞かれはしましたけどね」  今日はマイボトルを持っていないようなので、お礼代わりに、とコーヒーを淹れる。  紙コップを置いてやると、嬉しそうに綻んだ表情に、圭の視線が自然と吸い寄せられた。 「尊敬できる先生がいるから、って。そしたらなんか納得してくれました」  秋吉の大きな瞳はきらきらと無邪気に輝いている。  圭は無意識に物理学科の教授・講師の面々を脳内で思い返した。  まさか指導教員の松原ではないだろう。――高瀬だろうか。確かに彼は男女問わず学生たちから人気だし、信頼も厚い。 「そうか」  なら問題はないな、と圭は納得した。あんまんの最後の欠片を紅茶で流し込みながら立ち上がる。  秋吉が、む、と唇を引き結んだ。 「誰か聞かないんですか?」 「聞いてほしいのか?」  わざわざ聞かなくても当たり前に推測できたので、問い返した圭の表情はただただ不思議そうなものだった。  だというのになぜか秋吉は恨めしそうに、瞼を半分落として圭を見上げている。 「――……先生、時々ほんっと性格悪いですよね」 「何のことだ」  そもそも、圭は自分の性格が良いと思ったことは一度もない。そんな判断に意味があると思ったこともない。  途中になっていた実験を再開する前に手を洗っていると、ふと研究室のドアがノックされた。 「すみません」  聞こえたのは女子学生の声だった。  圭は、指導している数人の女子学生の顔を脳内で反芻しながら急いで手を拭き、ドアを開けた。 「あの。悠也くん、いますか?」  立っていたのは、赤みを帯びた豊かな長髪を緩く巻いた、ワンピース姿の見知らぬ女子学生だった。  女性の容姿に興味がない圭でも、美人だとはっきり認識できる目鼻立ち。気後れの欠片もなく圭を見据える瞳からは、勝気な性格が窺えた。 「美緒(みお)!」  圭の後ろから秋吉の声が響いた。秋吉にしては珍しく、はっきりと焦りを滲ませた声音だ。 「秋吉くん。差し入れ、持ってきたよ」 「何でここがわかったの。……先生、ちょっとすみません」  更に珍しく、少々荒い手付きで圭を押し退け、外に出ていく。  ドアが閉ざされると、二人の会話ははっきりとは聞き取れなくなった。  やや呆気に取られて立ち尽くしていたが、やがて我に返る。  ほぼ毎日研究室で顔を合わせるようになってからすっかり忘れていたが、そういえば秋吉は、女子学生には大層人気がある存在だった。あんな美人の恋人がいても全く不思議はない。  理性ではそう納得しながら、しかし、圭の胸の奥で波立ち始めた例の『何か』はちっとも静まらない。心拍数まで上昇し始めたことを自覚し、小さく息を吐く。 「――……」  気持ちを切り替えるために実験装置を起動させようとして、デスクの上に放置されている白い小さな紙袋に気づいた。  あんまんがふたつ入っていた、白い紙袋。湿気を吸った名残にしっとりとへたれている。  捨てようと拾い上げて――何となく止まる。  指を滑らせ、デスクの上でシワを丁寧に伸ばすと、折り目を残しながらもきれいな真四角に戻った。  美しい矩形に満足し、一人笑う。 「ダメだって! いらないから!」  突然、ドアが開く音と同時に秋吉の声が飛び込んできた。

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