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第15話
「ダメだって! いらないから!」
突然、ドアが開く音と同時に秋吉の声が飛び込んできた。
びく、と肩を跳ね上げて入り口を見遣ると、秋吉が部屋に入ってドアを閉めようとしていた。
「なんでー! せっかく手作りしてきたのに!」
「いいってば!」
女子学生が細い隙間から強引に紙袋を差し入れようとするのを、焦りからか、やや強引な手付きで荒く押し戻す。
じゃあね、と打ち切るように言い捨ててドアを閉め、秋吉は深くため息を吐いた。
圭はまた呆気に取られた。
「……彼女じゃないのか?」
秋吉が弾かれたように圭を振り向いた。
真っ直ぐに圭を見詰めた黒の瞳に、泣きそうな、傷付いたような表情が一瞬揺らめいた気がして、圭は一瞬息を飲んだ。
「違いますよ」
直ぐに顔を背けられたせいで、一瞬の表情は見間違いかと思うしかない。圭は困惑した。
「デートの予定があるなら、今日の予定を変更しても構わないが」
「だから違うって!」
秋吉がうんざりしたように声を上げた。
こんなふうに感情を露わにする彼を見るのは初めてで、圭の困惑が深くなる。
どうして急にそんな刺々しい言い方をするのかさっぱり分からない。プレッシャーに苦しんでいたあの夏の一時期だけが例外で、基本、秋吉はいつだって明るく朗らかな若者のはずだ。
圭の沈黙をどう解釈したのか、秋吉の視線が気まずげに揺れた。
「……すみません。ちょっとイラついて。――八つ当たりです」
ごめんなさい、と深く頭を下げたのはいつもの秋吉だった。
不可解さは拭えないが、往々にしてこうした問題は圭の理解を超える性質のものだと知っている。
秋吉が積極的に語らないことなら、こちらから踏み入るべきではない。
「私は別にかまわない。実験を続けよう」
あえていつもと同じ乾いた声で言い、装置へ向き直る。
――と、視界の端で、秋吉が、デスクの上に放置された白い紙袋を見咎めたらしい様子が見えた。
先刻、圭が無意識にきちんと広げ直した、白い真四角。
「秋吉?」
紙袋の傍らに立ち尽くしたまま動かない秋吉を訝しげに呼ぶ。それでも秋吉は俯いたままだ。
「先生」
どうした、と口を開きかけるのと、秋吉の声が同時だった。
「――なんだ」
答えると、秋吉が顔を上げた。静かな――真剣な表情。
圭は内心で身構えた。
「先生は、結婚しないんですか?」
そして身構えて良かったと安堵した。
さすがに、何の準備もしていない状態では、秋吉からこの質問を向けられて平静を装うのは困難だっただろう。
揺らぎそうになる視線と表情を辛うじて律し、いつもの無表情で秋吉を見返す。
降りた沈黙は、ほんのわずかな刹那だった。
それでも秋吉は、短いその沈黙に何かを感じたらしく、はっとしたように視線を逸らした。
「すみません。不躾でした」
「いや」
否定の言葉は自分でも驚くほど速く、滑らかに唇から零れ落ちた。
ゆっくりと秋吉に歩み寄り、丸椅子に腰を下ろす。視線で促すと、秋吉も傍らの椅子に座った。
「三年前、離婚した」
余計な情報を省き結論だけを告げる。圭が最も好む、誤解の余地のない端的な報告。
秋吉が息を飲む気配が伝わる。
「結婚したのは、私と妻が大学院生の頃だ。妻は、同じ研究室の同期だった」
研究発表の時と同じ、淡々とした口調。
言葉の続きを待つ秋吉の表情は、痛々しいほど真剣だ。
「私は、彼女の明晰な論理と、私には及びもつかない斬新な発想を尊敬していた。いつか二人で共同研究をしようと夢を語り合ったこともある」
視線が揺れる。目の前に整然と並ぶ実験装置の数々すら、圭にとっては振り返りたくない過去のトリガーだった。
逃げるように顔を背けると、振り返った先の窓の外では既に黄昏が下り始めていた。
「だが、早紀子にとって私は、彼女自身のキャリアを手に入れるための、ただの踏み台だったらしい」
降りる、わずかな沈黙。
見なくても秋吉の気配が伝わる。何があったのか聞きたい、けれど聞けない――そんな、焦れた気配。
「……研究データを盗まれた」
圭の声はどこまでも乾いていた。ここまで落ち着いて語れることに、圭自身もわずかに驚いていた。
あるいは、傍らでじっと耳を傾けているのが秋吉だからかもしれない。
「海外出張中だった彼女が論文を発表したちょうど同じ日に、判の押された離婚届が届いた。――青天の霹靂だったが、論文を見て私はすべて理解した。なにしろ、私の草稿をちょっと手直しした程度のものだったからな。傷付いたり怒ったりする前に、よくバレずにここまでできたな、と逆に感心したことを覚えている」
横顔に、秋吉の強い視線を感じる。
圭は小さく笑って見せた。
「勿論彼女が『海外出張』から帰ることはなかった。向こうで条件の良いポストを手に入れたそうだ」
淡々と語る声を切り、秋吉に視線を向けると、まるで自分のことのように厳しく唇を引き結び、拳を握り締めているのが見えた。
――怒ってくれているのか。
圭の胸の奥に揺れる『何か』が、今は、ひどく温かく圭を満たす。
その感覚が瞳に揺れそうになる気がして、わずかに双眸を伏せる。
「だから、秋吉のさっきの質問に答えるなら、――結婚は、もう絶対にしない。という返事になる」
窓の外の闇を瞳に映したまま、ふと、口端が緩む。
「……私は、きっと彼女を、最初から愛してはいなかったんだろう」
ぽつりと落ちたその言葉に、自分でも少し驚いていた。
「同じ志を持つ仲間として、尊敬はしていた。心地よい距離感だった。……でも、それだけだ。彼女は、きっと、それに気づいていた」
苦笑が零れる。
「だから、そもそも私には愛される資格がなかったのだと思う。――いや、それ以前に、他人をちゃんと『愛する』ということがどういうことなのか。……今も、正直よくわからない」
苦い笑みを口端に乗せたまま、以上だ、と圭は告白を締めくくった。
「何か質問は?」
重い雰囲気になるのは不本意だったので、秋吉に向けて首を傾げて見せた口調もまた、軽いものだった。
しかし秋吉は、圭のその口調に呼応しようとはしなかった。
変わらない真っ直ぐな視線が圭を見据えている。ひたむきな光を湛えたそのまま、数呼吸の間が空く。
真剣で揺るぎのない沈黙が少しばかり気詰まりになり、圭が何か言おうとしたのとほぼ同時に、秋吉が口を開いた。
「質問はありません。話してくれてありがとうございました」
普段は冗談が好きで、自分や他人を茶化すこともある秋吉だが、実はひどく生真面目な性質だということは圭ももう知っている。
律儀に折り目正しく礼を言われ、却って恥ずかしくなった。
「いや、こちらこそ。面白くもない話を聞かせてしまった」
「質問したのは俺の方ですから」
言いながら秋吉は立ち上がった。
窓の外はもう真っ暗だ。闇を背負った秋吉を、圭はどこか圧倒されたように椅子に座ったまま見上げた。
「先生に知っててほしいことがあります」
「――は」
間の抜けた声が漏れる。
今までに何度か見たことがある、痛々しいほど真面目でひたむきな、大きな黒の瞳。
「さっきの、女の子。酒井美緒 っていう経済学部の子です。小学校のときの同級生で、入学式の時にたまたま再会して。それ以来、何かとあっちから絡んできてるだけです。彼女じゃありません」
「わ、分かった」
「俺に彼女はいません」
「……はあ」
「彼女を作るつもりもありません」
「――……はあ」
なんだ、急に? なぜ自分はこんなプライベートなことを聞かされているんだ?
圭の頭上に浮かぶ無数のクエスチョンマークに当然気づいているだろうに、秋吉はそれ以上は何も言わなかった。
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