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第17話

 実験が始まる。もう何度も二人で繰り返している一連の作業。息はぴたりと合っている。  しかし、その完璧なリズムの中で、圭の意識だけがまたわずかにずれていく。  ――そもそも、圭が過去の離婚を打ち明けたあれ以降、お互いの間でプライベートな話題が出たことはない。元々個人的な話をする関係でもないが、ひょっとすると、秋吉なりに気を遣ってくれているのだろうか。だから年末年始のことも―― 「あれ?」  秋吉の声に違和感を感じ、圭は制御盤から目を上げた。  装置の一部、減圧状態のガラス容器に小さなひびが走っているのが見えた。圭の背筋が凍る。 「離れろ!」  圭が叫ぶのとほぼ同時に、ガラスが破裂する鋭い破壊音が響いた。一瞬、白い霧のような微細な気流が立ち上る。 「秋吉!」  自分でも驚くほど大声が出た。秋吉に駆け寄る足取りが縺れそうになり、無様にテーブルへ手をついて身を支える。舞い散る粒子と薬品臭の中、咄嗟に屈んだのだろう、床に両手両足をついた姿勢で装置を見上げる秋吉の明るい茶色の髪が見えた。 「うっわ、ビビったぁ……」  つい洩れたらしい言葉と、目を丸くしている横顔。意識はあるし、負傷したようにも見えない。しかし、まだ安心はできない。 「大丈夫か!? 怪我は!?」  秋吉は驚いたように圭を見上げた。それから自身の身体をざっと見下ろし、腕を動かしてみる。 「避けたから全然平気ですよ。どこも痛くないし、衝撃もなかったし」 「――、……っ……」  圭の剣幕にむしろ驚いているらしい秋吉の視線には応えず、崩れるように傍らに膝をついた。秋吉の両肩を掴み、その身体に視線を走らせる。  ゴーグルは割れていない。白衣も焦げていない。腕にも破片の痕はない。  どこにも異常はない。  ほっとした拍子に、震える息を吐き出す。  ――脱力しそうになった身体はしかし、耳を打った低い駆動音で一気に緊張した。  考えるより早く立ち上がる。装置が、まだ動いている。  圭のその動きに、秋吉もすぐさま察した。 「俺、こっちのバルブ見ます!」 「いい。座っていろ」  立ち上がろうとする肩を、制するように片手で押しとどめる。 「いや、平気ですって」 「座ってろ!」  思わず語気が強くなる。こんな声を出したのも、ずいぶん久しぶりだった。  秋吉は当惑したように瞬いたが、すぐに頷いて動きを止めた。  そんな秋吉を尻目に、圭は制御パネルへ駆け寄った。  加熱プレートの電源を落とし、警告ランプの点灯を確認しながらバルブを閉じる。  遮断弁を回し、ラインの圧を順に解放――機械のように正確に身体が動くその間も、鼓動は少しも静まらない。  先刻この目で無事を確認したばかりだというのに、圭の想像の中で、ガラスの破片が秋吉の身体を傷付ける不吉な妄想が暴れ出す。  裂けた皮膚。  神経への損傷。  止血処置の遅れによるショック症状。  頭の中で、講義で語ったことのある外傷の知識が次々と浮かび、そして秋吉の名前と結びついていく。  理性が想像を抑えようとしても、映像の洪水が脳裏に溢れ出す。指が震えていることに気づき、一度きつく握り込んだ。  ようやく全ての手順を追え、研究室に静寂が戻る。微かに漂う、薬品の焦げるような匂いだけが、先刻の嵐のようなひとときが現実のものだと告げていた。  深く息を吐いて、ゴーグルを外す。振り返ると、秋吉は既に白衣も脱いでいた。 「すみません。ちゃんと確認するべきでした。あのフラスコ、割と年代物だったから」  立ち上った秋吉の表情は、強張ったように硬い。  しかし圭には、その表情も言葉も知覚する余裕はなかった。彼が、自分の足でしっかりと立っている――いつもと何も変わらないその姿を目にするだけで、深い安堵と喜びが心の奥底に大きく波打つ。  白衣を脱ぐことも忘れ、ふらつくように秋吉の前へ歩み寄った。 「本当に、どこにも怪我はないか? 痛みは?」  真っ直ぐに見詰める。  秋吉は、どこか息を飲んだように沈黙した後、ふ、と解けるように笑った。 「ありませんよ。何なら、脱いで確かめます?」  おどけるように両手を広げた。いつもと同じ。冗談めかした、朗らかな秋吉の笑顔。  深く、胸の奥底が空っぽになるほど深く、吐息が漏れた。脱力してへたり込みそうになる。 「無事で、良かった」  それ以上は言葉にならなかった。気づけば手が伸び、秋吉の肩を掴んでいた。若々しく逞しい筋肉が、掴んだ指に確かな熱を伝える。 「……先生?」  呼ばれて初めて圭は、いつの間にか自分が秋吉の肩に顔を埋めていたことに気づいた。鼻腔に満ちる他人の――秋吉の匂い。 「――ッ!」  がば、と顔を上げる。頬が熱い。 「す、――すまない……!」  秋吉を見返すことができず、慌てて顔を背ける。火照りは頬にとどまらず脳まで焦がしていくようで、視界すらぐらついた。縺れる足取りで慌ただしく秋吉から離れる。 「少し疲れているようだ。先に帰る。後は頼んだ」  そう早口で言い残し、まるで逃げるように――いや、間違いなく、圭は秋吉から逃げ出した。  廊下を走る。  胸の奥で鼓動が痛いほどに暴れる。息ができない。  耳朶に蘇る、ガラスの破裂音。  エレベーターの操作パネルに手を押し当てたまま、ぎゅっと瞳を閉じる。  あの瞬間、秋吉を失うかもしれないという予感で目の前が真っ暗になるほど動揺した。  実験中にもっと大きな事故に遭ったことも、圭自身が危険な目に遭ったこともあるはずなのに。まるで初めてトラブルに遭遇した初心者のように、みっともなく動揺した。   ――その動揺は、教員が一学生に向ける感情としても、一人の成熟した大人が他者に向ける感情としても、遥かに一線を越えている。   自らの中に渦巻く『何か』。  春先からずっと圭を悩ませていた得体の知れないその感情が『恋』と呼ばれるものであることを、圭はもう否定できなかった。  ありえない。不合理に過ぎる。  開いたドアから転がるようにエレベーターに乗り込んだ。冷たい壁に半身を預け、そのままずるずると崩れるように膝をつく。  先刻、一瞬だけ鼻腔に満ちた秋吉の匂い。服越しに伝わった体温。  思い出すだけで胸が歓喜に打ち震える。  こんな感情は、許されるべきではない。それなのに、どうしようもなく。 「――……、っ……」  眩暈がした。エレベーターの壁に頭がぶつかる小さな鈍い音を聞きながら、圭は、自らがまるで底の見えない闇の奥底へ降りていくような錯覚に囚われていた。

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