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第18話

 年の瀬を告げる鐘の音も、初詣客の雑踏も、この部屋には届かない。  世間から隔絶したマンションの一室で、圭は、来る日も来る日も、資料がうず高く積み上げられたデスクの前に座り、パソコンのキーを叩き続けていた。  大学は年末から休暇に入っていたが、帰省する場所もなく、共に年を越す人間もいない圭にとって、休日はただの時間の空白に過ぎない。  そうした空白を研究と論文で埋めるのはいつものことだったが、この年末年始は特に、寝食を忘れるレベルで没頭していた。――別に、特段何か切羽詰まる事情があるわけでもないのに。  ふと、カップに残った冷えた紅茶に目を落とす。  もう半日以上、何も口にしていなかった。  コンビニでサンドイッチでも買ってくるか、と立ち上がろうとしてふらつく。  あの日以来、圭は、徹底して秋吉を避け続けている。  実験の翌日、いつものように研究室を訪れた秋吉に向けて、『もうここには来ないでくれ』と告げた時の秋吉がどんな顔をしたのか、目を逸らしていたので分からない。  食い下がられたが、君の指導教員は松原先生だ、と無理矢理話を終わらせてドアを閉ざした。  そしてそれ以降、圭の研究室に秋吉が現れることはなかった。安堵と同時に堪えようもなく胸の裡に広がる寂寥を、圭は厳重に心の奥底へ封じ込めた。  こういう状況になれば、秋吉がキャンパス内で大層目立つ存在であることはありがたかった。遠くからでも、女子学生に囲まれている姿は否応なしに目を引く。  廊下を歩く時も、食堂の入り口を通る時も、研究棟のラウンジで同僚と話している最中ですら、華やいだ気配が近付いてくれば即座にその場を離れた。  その変化に、秋吉が気づいていないはずがない。けれど、圭は考えなかった。というより、考えないようにしていた。  あの時、確かに触れてしまった。熱を感じた。匂いを知った。そして、気づいてしまった。  ――私は、秋吉に、恋をしている。  そんなはずはない、と思った。思いたかった。  なのに、肩に顔を埋めたあの瞬間が、どうしても脳裏から離れない。  思い出すたび、身の置き所もない恥ずかしさで身体の奥が焼けるように熱くなるのに。理性を逸脱した自分が心底怖ろしく、どうしてあんなことを、と後悔しているのに。  けれど、同じ記憶が、どうしようもなく温かい。あの体温、あの匂い。それを思い出すだけで、胸の奥がじんと満たされる。  理解できない。幸福と恐怖が同居している。そんな感情、知らない。向き合えば、壊れてしまいそうだった。  だから、これは罰なのだ。  教師でありながら、教え子に対して抱いてはならない感情を持ってしまったことへの、罰。  自分が抱くべきでない、誰かを『愛する』という感情を持ってしまったことへの、罰。  そして今、その代償として、秋吉の存在を周囲から徹底的に排除することでしか自分を保てない。他の学生たちにするような、当たり前の接し方すらできない。  もうすぐ年末年始の休暇が終わる。大学が再開してしまう。今の圭には、それが何より恐ろしい。  自分はこのままずっと、理解できない矛盾した感情を胸の一番奥底に封じ込めて、息を詰めるように秋吉を避け続けるしかない。秋吉が大学からいなくなるまで。  彼は大学院へ進むことを決めていると聞いた。ということは、――あと何年だ?  我に返った。身支度の途中だった。  開きっぱなしの蛇口を締めて視線を上げる。  洗面台の鏡に映る顔は、生気がなくやつれていた。その自らの有様が可笑しく、自嘲の笑みが漏れる。  外へ出ようとして、靴箱の上に放置していたきり忘れていたスマホの存在が目に留まる。  休暇に入って以降、一度も触れていない。手に取ると、ロック画面は無数の通知に埋め尽くされていた。  画面を開き、指先を滑らせて通知の数々をスライドしていく――その手が、凍り付いたように止まった。 『あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします』  定型文そのままの一言。秋吉からのメッセージだ。連絡先を交換していたことなどすっかり忘れていた。  メッセージに気づかずにいて怒られたのは、確か十一月の寒い日のことだったか――無意識に遡行する記憶がどうしようもなく愛しい。  また、息ができなくなる。 「……くだらない」  呟いた声は、ひどく掠れていた。  圭の白い指先が、小さく震えながら、秋吉の連絡先を削除した。

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