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第19話

 年が明け、大学には学生たちの喧騒が戻ってきた。  寒気は厳しさを増し、キャンパスの木々も寒そうに葉を落とした姿で立ち竦んでいる。  そんな一月中旬のある日、圭は、大学図書館の薄暗い閉架書庫にいた。  冷え込みは容赦なく、書庫を満たす空気はひんやりと澄んでいる。窓から差し込む午後の陽光も薄曇りに遮られて鈍く、ぬくもりを伝えるには程遠い。  しん、と冷えた空気の中、取り出した分厚い書籍のページを捲る。動く気配は他にはない。  誰にも話しかけられず、誰にも見つからない。この場所で過ごす時間が、圭は好きだった。特に今は、大学内で警戒を抱かずにいられる数少ない場所のひとつでもある。  とはいえ、年が明けて大学が再開してからというもの、圭の周囲で秋吉の気配を感じることはほとんどなくなった。休暇前は、秋吉を囲む女子学生たちの華やかな声が聞こえ、慌てて向きを変えることもあったが、今ではそんな場面はほぼない。時折、研究室の窓越しに、集団の中にいる姿を遠く見かけるだけだ。  だから、無事、秋吉のことを頭から追い出すことができている――はずだった。  ページを捲る。印字された文字列を追う。集中しているはずの思考に、しかし柔らかく絡み付いてくる記憶。  それは、晩夏のある日。文献に直接当たることの重要性を説いた時の、他愛もない遣り取り。 『今は何でもネットで検索できるし、データベースも整備されている。便利なものは活用すべきだ。――とはいえ、初版の学術書や古典的名著には、PDFでは拾えないニュアンスがある』 『そうなんですか? 例えば?』 『ページ構成や注釈の扱い方ひとつにも、書き手の意図や空気感が残っている。本という物体として接することでしか得られない、直観的な気づきがある――と、私は思っているが。実は、個人的な好みで言っているだけかもしれない』 『好み? 本が好き、ってことですか?』 『ああ。物理的に本を触るのが好きだ。紙の質感を指で感じるのと、――あとは、ページを捲った時の音と、少しだけ空気が揺れて顔に触れるのも』 『……意外です。先生、そういうのスルーするタイプかと思ってた』 『そうか?』 『俺も分かりますよ、それ。先生と好きなものがかぶるの、嬉しいです』 「!」  パン、と高く音を立てて本を閉ざした。  秋吉の声が、真っ直ぐに圭を映して笑ったひたむきな黒の瞳が、断ち切られる。 「――……」  無味乾燥な閉架書庫の静謐の中、深く息を吐いた。その場にうずくまりたくなるほどの無力感。  今はもうほとんど動く秋吉を目にする機会はないし、その肉声を聞くこともない。だからそのまま忘れていけると思った。交流がなくなり接点がなくなれば、ただの教員と学生に戻れるはずだった。  だというのに。  秋吉の存在が遠くなればなるほど、ふとした拍子に他愛もないやりとりの記憶が蘇る。  耐えがたいのは、どの記憶の中でも、自分が秋吉の隣で笑っているという事実だった。無防備なほど穏やかに、幸せそうに笑う自分が、何も気づいていない愚鈍さが、いっそ呪わしい。  どうしてあんなふうに心を許してしまったのだろう。胸の奥が締め付けられる。  大学内のあらゆる場所が、景色が、ことあるごとに圭の記憶を残酷に掘り起こす。  今、手にしているこの本も。研究室のテーブルも、あらゆる実験装置も。大学構内の小路も、桜の古木も。エレベーターも、大学の正門も。  何を目にしても、どこにいても、秋吉の声が、顔がちらつく。忘れようと、離れようとする圭の努力を嘲笑うかのように。許されない感情を抱いた罪を圭に知らしめようとするかのように。 「――罰、だな」  一人呟く声は、ひどく掠れている。  耐えるしかない。圭は顔を上げ、思考に蓋をするように眼鏡のブリッジを押し上げた。  時間と労力を研究に投じれば、そのうち感情の波も収束する。  三年前もそうだった。裏切りと喪失が重なり、すべてが崩れたあのときでさえ、実験と論文に没頭することで乗り切った。人は、どれほど深く傷ついても、慣れる。癒えることがなくても、無視できるレベルに鈍化する。  気を取り直して本を抱え直した脳裏に、しかし、また。 『話してくれて、ありがとうございました』  三年前の離婚を口にしたあのときの、秋吉の真っ直ぐな声。  礼儀とも、同情とも違う、ただ一人の人間として向き合おうとする真摯な眼差し。  理性的であることを信条としてきたはずなのに、秋吉の存在だけは、それを何度も揺るがせてくる。  圭はたまらず、頭を抱えた。  理屈では処理しきれない感情が、またもや心を侵食してくるのを感じながら。

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