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第20話
目的の専門書をようやく数冊選び出し、書庫を出る。以前なら何ということもない、寧ろ本好きの圭にとっては至福だったはずの時間さえ、今は鉛のような疲労感で足が重い。
うっそりと影を背負ったような足取りで閲覧室へ戻った、そのとき。
書架の影、死角になった通路から、不意に、見慣れた影が――秋吉が、姿を現した。
「!」
鼓動が跳ねる。足が凍り付いたように止まる。
しまった、と思った時はもう遅かった。目を逸らす暇もなく、真正面から視線がぶつかる。
完全に油断していた。
普段なら、彼の周りには誰かしらの気配があるはずだった。その賑やかさを指標に、圭はこれまで巧みに彼を避けてきた。
しかし、今、圭の目の前にいる秋吉は、珍しく一人きりだった。偶然の一致とは思えないほどの、あまりにも完璧なタイミング――まるで、圭が書庫から出てくるのをどこかから見張っていたかのような。
冬の柔らかな陽光が差し込む窓を背に、秋吉の黒い双眸は深く沈んでいた。こうして向かい合うのはずいぶん久しぶりだ。笑みのないその顔は、以前よりも少しだけ大人びて、何かを決意しているような硬さを帯びて見えた。
圭の脳裏で、警鐘が鳴り響く。すぐに視線を逸らして立ち去れ。そう理性が叫ぶ。
しかし、身体は硬直し、理性の声とは裏腹に彼の姿から目が離せない。
動けない視界の中、秋吉が圭に向けて一歩を踏み出すのが見えた。
「――っ!」
動揺した圭の手から、抱えていた数冊の重い専門書が滑り落ち、鈍い音を立てて床に散らばる。
静かな図書館に響いたその音に、周囲の学生たちの視線がいくつか集まる。圭は慌てて屈み込んで本を拾い集めようとした。そして秋吉もまた、ほとんど同時に同じ動作をしていた。
一冊の本に、同時に伸びた手。
指先が触れた。
ほんのわずかな、偶然の接触。その瞬間、圭の身体には電流のような衝撃が走った。
途端に、あの夜の――すべての契機になったあの実験の記憶が脳裏を埋め尽くす。フラスコの割れる音。消えた秋吉。無事を確かめたときの深い安堵。縋り付いた体温、匂い。幸福に満ちた、苦しいほどに甘い記憶。
駄目だ――思い出すな。
思考を断ち切り、手を引こうとする。
だが、一瞬の隙に、秋吉の大きな掌が手首を掴んだ。
「――っ、離せ……!」
動揺して叫びそうになるのを寸前で堪え、掠れた声で制止する。秋吉の手は熱く、力強い。振りほどこうとする圭の手首を、秋吉は更に強い力で握り締めた。決して離さないとでも言うように。
「先生」
低く、真剣な声。
顔を上げると、すぐ間近に秋吉の整った顔があった。ひたむきな黒い瞳は、今は強く何かの意志を秘め、真っ直ぐに圭を射抜いている。その奥に揺れる光は、怒りでも、悲しみでもない。もっと切実な、何かを探るような色をしていた。
「そんなに、俺と目を合わせるの、辛いですか?」
心臓を鷲掴みにされた、そんな錯覚。冗談ではなく鼓動が止まりそうになる。秋吉の低い声は、静かだが有無を言わせぬ迫力を湛えている。
近すぎる距離、真っ直ぐすぎる視線。鼓膜にうるさく鳴り響く鼓動音。動悸が早鐘のように胸を打ち、呼吸が浅くなる。頬も耳朶も首根もひどく熱い。
「何のことだ」
平静を装おうとした声は、自分でも分かるほど硬かった。
秋吉の瞳をこれ以上見返すことができず、視線を逸らす。掴まれた手首も、まるで火傷したかのように熱い。
「離してくれないか。秋吉くん」
努めて冷たく丁寧に、突き放すように言う。『秋吉くん』と呼んだのは勿論わざとだ。
秋吉はしばらく無言で圭を見つめていたが、やがて、ゆっくりと手を離した。
意外にあっさり解放されたことにわずかに驚く。が、とにかく早く逃げなければ、と、圭は残りの本を拾い集め、立ち上がった。
慌てて踵を返そうとした矢先、秋吉がすっと立ち上がり、圭の前にさり気なく立ちはだかるように姿勢を正した。
そして、周囲にわざと聞こえるような、明瞭な声で言った。
「藤堂先生。ご相談したいことがあります。これから十分ほど、お時間をいただけないでしょうか」
静寂が支配する図書館に、その声ははっきりと響き渡った。何事かと遠巻きにこちらに注目する周囲の視線が、圭の肌をちりちりと刺す。
断ることも無視することも、この状況では不可能だった。
圭は、短く息を吐き、観念したように俯いた。
「……分かった」
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