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第21話

 何も言わない秋吉の後を、少し距離を置いて歩く。  圭は、冷静を装ってはいたが、秋吉が意図的に人気のない場所を選んで進んでいるような気がして、そわそわと落ち着かなかった。  どこへ行くのか。何を言おうとしているのか。  迷いのない足取りも、沈黙したままの背中も、圭の疑問を拒絶しているようでただ苦しい。  やがて辿り着いたのは、大学の敷地でも奥まった場所――古い講義棟へ続く細い小道だった。人目を避けるように枝を広げている木々の影が、冬の陽を受けて地面に長く伸びている。  その中に、見覚えのある木を見つけて、圭は小さく息を飲んだ。  桜の古木。春、満開の花をつけていた枝は、今はすべての葉を落とし、骨のように細い枝を冷たい空に突き出している。  あの日、散り初めの花弁が舞う中、ノートを拾った。表紙の角がわずかに擦れた、使い込まれた水色のキャンパスノート。ページを開いた瞬間、びっしりと走り書きされた思索の痕跡が――理論に挑み、もがきながらも諦めず、真摯に書き連ねられた若い研究者の泥臭い試行錯誤の軌跡が、目に飛び込んできたときの驚き。  それは、圭が初めて、秋吉悠也という青年に興味を抱いた瞬間だった。  気づけば、無意識に呼吸を詰めていたことに気づく。ゆっくりと吐き出しながら、桜の木の下で足を止めた秋吉の背に視線を向ける。  静かすぎる。鼓動の音が秋吉に聞こえそうだった。何とか平静を保とうとするが、乱れる鼓動は静まる術を持たない。体側に垂らした指先がわずかに震えたのを自覚し、圭はきつく拳を握りしめた。 「……相談とは?」  努めて無機質な、淡々とした口調で言おうしたが、喉の奥に引っかかる乾いた違和感が、みっともなく声を掠れさせた。  秋吉は振り返らない。  胸の奥では、変わらずうるさく鼓動が鳴り響いている。  圭の胸に恐怖が渦巻く。  こんな場所まで連れてきて、秋吉が自分に何を言おうとしているのかさっぱり分からない。不可解なまま降りる沈黙が怖い。――だというのに、手を伸ばせば届く位置にある背中に、秋吉の近くにいられるこのひとときに、確かに歓喜している自分の感情の動きが、何よりも恐ろしい。  足元で、枯れ葉が乾いた音を立てた。秋吉が振り返り、真っ直ぐに圭を見据えた。  静かな、夜の海を思わせる黒い瞳。  冷たい風が吹き抜けて、容赦のない冬の空気が鋭く頬を掠める。枝の間をすり抜ける音だけが、静寂をかき混ぜた。  そしてその風が途切れた一瞬。 「好きです」  凛とした、ただ一言だった。  ――何を言った?  瞬間、反射的に聞き間違いだと思った。脳が誤認だと判断しようとする 。  混乱を露わに眼鏡の奥で慌ただしく瞬く視界の先、秋吉は真っ直ぐ圭を見据えていた。 「恋愛感情として。俺は、藤堂先生のことが、好きです」  はっきりと再び紡がれた言葉に、圭の思考が今度こそ凍り付いた。  頭の中が真っ白になる。  音が消えた。風の音も、あれほどうるさかった心臓の鼓動さえ遠のいていく。  現実感がない。  秋吉が、自分に恋愛感情を?  ありえない。  理論も分析も忘れ、理性が即座に否定する。それは圭にとって絶対にあってはならないことだった。  嘘だ、と叫びたくなる衝動を懸命に抑え、息を吐き出す。喉が震え、引き攣れた音が漏れた。  何もかも拒んで耳を塞いでうずくまってしまいたい――だがその裏で、告白の言葉を反芻してしまう自分がいた。  信じてはいけない。けれど、信じたくなる。  甘い誘惑と、それを断ち切るべきという理性が、激しくせめぎ合う。  しかも、自分は彼の将来を知っている。秋吉のような人間には、あたたかな日常が、自然な幸福が、約束されている。  そこに自分が介入することは、エゴだ。  自分のような過去を背負い、人を愛することすら満足にできない人間が、彼の人生に何をもたらせるというのか。  立ち尽くしたままの圭の中で、無数の思考が回転しながら収束せず、ただ混沌となって渦を巻く。  何も言わない圭を見詰めたまま、不意に秋吉が、ふっと微笑んだ。それは強がりのようで、諦めにも似ていた。 「返事はいりません」  その言葉に、圭の胸が小さく軋む。 「――なんか、……先生には、ちゃんと言っときたくて。……ただの俺の我侭です」  わずかに俯いた視線をもう一度上げ、秋吉は小さく笑った。 「……すみません」  そう呟いて、彼は踵を返す。  動けなかった。  待て、と叫びたかった。けれど、それを口にした先を想像してしまった。  自分も『好きだ』と告げて――その先に、何がある?  秋吉の未来を、彼が築くべき幸福を、潰すつもりか? 教員である自分が。『愛する』資格のない自分が。  その問いが、圭の声を封じ込める。  遠ざかる秋吉の背中を瞳に映したまま、圭はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。  記憶の中の笑顔、深く光るひたむきな黒い瞳、時折見せる不器用な仕草。――無数の記憶の断片が暴れ、激しく渦巻いて圭を苛む。  ごう、とひときわ強い風が吹いた。頭上で枝が軋む。  揺れる枝の先にあるのは鈍色に閉ざされた冬の黄昏だけだ。  時間が止まったような景色の中で、圭の心だけが取り残されていた。

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