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第23話

 連れて行かれたのは、大学近くの路地裏にある、落ち着いた雰囲気のバーだった。重厚な木の扉を開けると、ジャズの低い音色と、微かなアルコールの香りが漂ってくる。  カウンター席に並んで腰を下ろし、高瀬はビールを、圭はキールロワイヤルを注文した。  しばらくは他愛のない話が続いた。学会の準備の進捗、新しい論文のテーマ、高瀬の家族の話。  高瀬は、圭の内心の葛藤に気づいているのかいないのか、いつもと変わらない、大らかで気さくな態度だった。  二杯目に注文したモヒートが恭しくコースターの上に置かれる。口を付けると、爽やかな酸味が心地よい。  不意に、高瀬がカウンターに肘をつき、真剣な眼差しでこちらを見た。 「なあ、藤堂。最近お前、らしくないんじゃないか?」  核心を突くような、静かな問いかけ。圭はグラスを持つ手を止め、息を飲んだ。 「……何のことですか」  とぼけてみても無駄だろう。高瀬の目は、全てお見通しだと言っているようだった。  事実、圭自身、自分のパフォーマンスが著しく低下していることは自覚していた。研究への集中力は散漫になり、学生への対応もどこか上の空だったかもしれない。だが、その原因を打ち明けることなど到底できるはずがない。  それきり圭は押し黙った。グラスの中で、氷が小さな音を立てる。 「秋吉のことか」  事もなげに、しかし確信を込めて放たれた言葉。  圭は弾かれたように顔を上げた。動揺が、隠しきれないほど表情に出てしまったかもしれない。 「なんで分かっ――……どういう、意味ですか」  危うく口を滑らせそうになり、慌てて言葉を修正する。高瀬はそんな圭の動揺を楽しむかのように、にやりと口の端を上げた。 「お前さん、昔から分かりやすいからな」  そう言って、高瀬は表情を引き締めた。笑みが消えた横顔に、落ち着かない気分になる。 「あのプレゼン大会の後から、お前ら二人、ほとんど毎日研究室で何かやってただろ。それが、年末あたりからピタッと来なくなった。そりゃ、周りも気づくさ」  高瀬は、グラスを静かに置いた。  何故か叱られている気分になり、圭もグラスを置く。 「噂になってたんだぞ。『あの氷の藤堂が、秋吉と何か揉めたらしい』ってな。おかげで秋吉の奴、しばらくあちこちで質問攻めだ」 「そんな、ことが……」  圭は絶句した。自分が秋吉を避けることで、彼にそんな負担をかけていたとは思いもしなかった。自分のことに精一杯で何も見えていなかった。罪悪感が鉛のように圧し掛かる。 「ま、秋吉は元々目立つ奴だからな。だが、お前さんも、自分が思ってる以上に周りから注目されてる。――前も言ったが、お前はその辺、もう少し自覚した方がいい」  高瀬の言葉は、穏やかだが鋭い。  ただ、そう言われても圭とて好んで注目を集めているわけではない。むしろ、できる限り目立たずに生きていきたいと思っている。だが、結果として、自分の行動が秋吉を巻き込んでしまっていたのだとしたら、彼にきちんと謝罪を――いや、もう自分は彼とは関わってはいけないのだ。  グラスを握り直しながら、圭は改めて高瀬に視線を向けた。  もうひとつ気になること。それは、そんな状況下での秋吉の反応だった。 「秋吉は、何と?」  恐る恐る尋ねると、高瀬は少し呆れたように肩を竦めた。 「誰にどう聞かれても、『別に、何もありません』の一点張りだ。この俺が聞いてもな。頑固な奴だよ、あいつも」  高瀬は、そこで言葉を切った。そして、何かを思い出したように、ふっと表情を和らげた。 「……そのくせな、講義棟の窓からとか、食堂の隅からとか、遠くに見えるお前の姿をさ、まるで捨てられた子犬みたいな目で、じーっと見てるんだよ、あいつ」 「――……」  その言葉に、圭の胸が強く締め付けられた。捨てられた子犬。そんな顔を、彼にさせているのか、自分は。想像しただけで息が苦しくなる。 「ということは、やっぱり原因は、お前――ってことになる。違うか?」  高瀬の観察眼は、あまりにも鋭い。全てを見透かされているようで、圭は何も言い返せなかった。モヒートのミントが、やけに苦く舌に残る。  高瀬は、言葉を失った圭をしばらく黙って見つめていた。その瞳は、非難するでもなく、詮索するでもなく、ただ深い理解と、どこか心配するような色を湛えていた。学生時代、メンターとして圭を指導していた時の高瀬を思い出し、カウンターの上に置かれた圭の手がきゅっと握り込まれる。  小さく、高瀬のグラスの中で氷が音を立てる。 「……本当は、お前には言うなって、秋吉から口止めされてるんだがな」  高瀬は、少しだけ躊躇うように間を置いた。その前置きに、圭は嫌な予感を覚える。 「あいつ、海外の大学への留学申請、出したらしいぞ。来年度から」 「――留学?」  その言葉は、圭にとって完全に予想外のものだった。頭を鈍器で殴られたような衝撃。一瞬思考が空白になる。  それでも圭は必死に平静を装おうとした。手が微かに震える。悟られまいと、カウンターの下で強く握りしめる。 「そうですか。いい話ですね」  震える呼吸を懸命に抑え、平坦な声が出るように意識を集中する。指先で眼鏡のブリッジを押し上げる仕草は、ひどく落ち着きがない。 「彼は優秀だ。外の世界を見てさらに視野を広げるのは、秋吉にとって間違いなく有益です。……彼には未来がある。どこへでも行って、自分の好きな道を自分で選べばいい」  自分に言い聞かせるように、圭は言った。そうだ、これでいいのだ。彼が遠くへ行ってしまえば、この苦しい感情からも解放されるだろう。彼のためにも、自分のためにも、それが最善の道なのだ。  そう、無理やり自分を納得させようとした、その時。 「……お前にだって、ちゃんと未来はあるだろうが」  高瀬の声は噛み締めるように深い。 「お前は、自分の好きな道を、自分で選べないのか?」  その問いに、圭は答えることができなかった。選べないのではない。選んではいけないのだ。自分の心に正直になることは、秋吉の未来を閉ざすことと同義なのだから。  高瀬は、それ以上何も言わなかった。ただ、その温かく、そして少しだけ哀しげな瞳が、答えを失った圭を静かに見守っていた。  バーのカウンターに、重い沈黙が落ちる。ジャズの音色だけが、圭の混乱した心を慰めるでもなく、ただ静かに流れていた。

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