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第5話

 どの位意識を失っていたのだろうか。  白濁の匂いで充満した部屋で我に返り、ひんやりとした床を手で押して辺りを見回す。 思わず眉間に皺が刻まれる鈍痛は下半身からで、床やドアは白濁で汚れていた。 「新。お友達の清十郎さんが僕達のセックスの最中に、何度か部屋の前まで来ていたの気付いてた?」  声の方へと反射的に顔を向けると、ベッドの縁に腰掛けていた康介と目が合う。手招きをされ、康介の隣に腰を下ろすと窄まりから白濁がトロリと流れ落ちた。  思わず肩が小さく跳ね上がってしまうけれど、康介は意に介していない。  康介はすでに身支度を整えた後で、未だ全裸の自分とは対照的だった。  悪意を感じずにはいられない質問に首を緩く左右に振るだけで答えると、視線が床に落ちていく。 「清十郎さん格好良いし、今度三人でセックスしようか」  感情の読み取れない康介の声が近づいてきて、頬に柔らかい感触がした。 「……清十郎とは、無理」  口から発した声は自分でも驚愕する程に掠れていて、どれだけ喘いだのかと想像すると眉間に深く皺が刻まれる。  済んでしまった事は、考えたくない。すぐに割り切れるわけはないけれど、そう思い込むしかなくて、意識を無理やり今に戻した。 「どうして?」 「清十郎とは、……友達だから」  反射的に嘘を吐いていたのは清十郎に多少なりとも好意があったからで、巻き込みたくなかったからだ。  康介が三人でのセックスを所望する時は浮気を疑っている時で、今回も恐らく間違いない。 けれど、一方的に出て行ったのは康介の方で、仮に清十郎と寝ていたとしても、振られた後で浮気だと言われる筋合いはない。  それなのに、康介と寄りを戻せるかもという淡い期待が、それを喉元で呑み込ませる。    どうするのがベストなんだろう。そんな風に思いながら立ち上がり、覚束ない足取りで服を拾い集める。  太腿を伝う康介の白濁が未練を募らせ、答えなんて出せなかった。  ともかく、いつまでも全裸でいるわけにもいかず、体液に塗れた身体の上から服を着ていると、康介が独り言のように話を始める。 「……あの人さ、僕が新を寝室に連れて行こうとした時に睨んできたんだけど、グレア出てたんだよね。新はあの人がドムだって知ってて、友達やってるの?」  康介の言葉に視線が止まった。  あの温厚な清十郎が康介を睨みつけていたなんて、信じられなかった。  綺麗な顔立ちのせいで睨んだように見えただけだろ? 等と、清十郎擁護とも取られそうな憶測が次々と浮かんでくる。  ドムかどうかは清十郎本人の口から直接聞いた事はないけれど、ドムだろうとは薄々感じていた。 「……気のせいだろ。清十郎は喜怒哀楽の怒をどっかに忘れてきたみたいな奴だし。あと、俺は、今のところ清十郎からのグレアは感じた事ない。見た目がドムっぽく見えるかもとは、俺も思うけど」 「へぇ、新は清十郎さんの肩持つんだ。……しかも、随分と仲良さそうだね」  控えめな発言を試みたつもりではあったけれど、不満を露わにする康介の声からは苛立ちが伝わってくるようで、自然と苦い顔になる。  失言だったと後悔しても遅く、重苦しい雰囲気の中で大袈裟に溜息を吐かれると、謝罪が口から飛び出しそうだった。  けれど、先に声を発したのは意外にも康介の方で、立ち上がったかと思うと満面の笑みで提案してくる。 「まぁ、いいや。明日また来るから、それまでに、あの人追い出しておいてね。……新は、あの人より僕の方が好きでしょ?」  一方的に別れを告げてきた口が何を言っているんだ。そんな風に思うけれど、どうしてだか何も言い返せなかった。  都合の良い男になんてなりたくないのに、それ以上に康介が恋しかった。  ――俺は、馬鹿だ。  胸の内は酷く騒めいているのに、言葉が出てきてくれない。  康介はこの沈黙を肯定ととったようで、口角の上がった機嫌良さそうな微笑みと、頬への甘いキスを残していく。リップ音が鼓膜を揺らし、胸の騒めきが高鳴りへと一変した。 「新、また明日ね」  康介の穏やかな声が遠ざかっていき、肩越しに手を振られると、切なさで胸が締め付けられる。  寝室のドアが静かに閉まり、玄関のドアが開く音が僅かに聞こえてきた。  康介が喋っていることだけは明白だけれど、何を言っているのかまではわからない。続く清十郎の声で胸騒ぎがして、何を言われたのかと想像すると、強く目を閉じずにはいられなかった。  軽蔑してるんだろうな。そんな風に思うと吐いた息が震える。  頭を抱えていると玄関のドアが閉まる音が聞こえてきて、康介が帰った安堵感と寂しさが同時に胸の内に広がっていく。複雑すぎる心境は自業自得で、答えの出せない自分に思わず悪態が口から突いて出た。 「馬鹿すぎ。どうせ都合よく遊ばれてるだけだって、なんでわかんねーんだよ」  視線の先に映り込んだ康介の独占欲に溜息を付き、それを自分から隠すように手の甲を上に向ける。  気分は落ちるばかりで、何度目かの溜息が零れると、寝室のドアがノックされた。 「新、……何か、私にお手伝い出来る事はありませんか?」  清十郎の声は沈んでいるでもなく、様子を窺いに来た風にも聞こえず、普段と変わらない口調が余計に心を乱してくる。  どんな顔をして、ドアを開ければいいのかわからなかった。 「……いや、大丈夫だ。少し寝るから、起きるまで放っておいて」 「かしこまりました」  精一杯に声を張ったつもりではあったけれど、口から出たのは疲弊が伝わりそうな掠れた声だけだった。  部屋の窓を全開にして、汚れた箇所に除菌シートを念入りに滑らせる。  何はともあれ風呂に入りたかったけれど、ドアの向こうの清十郎の存在が二の足を踏ませていた。  ドアに片耳を張り付けて清十郎の気配を窺い、タイミングを計るとトイレに走る。  用を足したついでに浴室へ直行することも考えたけれど、未だに匂いが籠っている気がする寝室を空けたくなくて、再び寝室へと籠った。  汚れているのは自分の身体だけで、寝室で特にやれることはない。身も心も疲弊していたせいか、ベッドに倒れ込むように横になるといつの間にか眠っていた。  考える隙もなく寝落ち出来たことは不幸中の幸いで、目が覚めたと同時に腹の虫が鳴り響く。 「今、何時だ……?」  顔を顰めてしまう鈍痛の発生源である腰を手で摩り、薄暗い室内に視線を巡らせた。  この部屋に時計はない。寝ぼけ眼でそう思い上体を起こすと掛布団が落ちていき、胸元の甘い痛みに身体が震える。  僅かに擦っただけの両乳首は硬く尖り始め、康介との行為を思い出すと喉が上下した。  悩みの種と化した出来事を思い出すだけで、下腹部が僅かにでも反応する自分は終わっていると思う。  ドア越しに声を掛けてきた清十郎からの動揺は感じ取れなかったけれど、確実に自分の嗚咽 と喘ぎ声は聞いているはずだ。  同居人のあんな声、聞きたくなかったよな。そんな自分の率直な意見で胸を深く抉られ、羞恥からくる顔の熱さに耐え切れず、再びベッドに身体を倒す。 「ん?」  寝返りを打った先で、僅かに弾力を感じる硬い物が頭に触れた。  反射的に手を伸ばし、その方へと視線を遣ると、あるはずのないペットボトルが目に留まる。ひんやりとして冷たいそれは透き通っているから、恐らくミネラルウォーターだ。  まさかと思うと同時に、眉が情けなく下がる。清十郎が持ってきてくれた物だと察し、そういえばと、目が覚めた時の状況を思い出すと鼓動が煩く鳴り始める。  ただベッドに寝転がった覚えしかない自分が真っ直ぐの姿勢で枕を使い、布団をかけて寝ていた。  神経質な方では無いけれど、さすがに寝姿勢まで直されたら目を覚ましていてもおかしくはない。それなのに、触れられた事にさえ、全く気が付かなかった。  寝ぼけて何か余計なことを口走ったりしていないかと思うと、眉間に緩く皺が寄る。  泳ぐ視線で息を呑み、上体を起こすと両手でペットボトルを握りしめた。 「清十郎……」  無意識に零していた名前に溜息を吐き、ペットボトルに口をつける。    身体中に染み渡るような感覚に自然と安堵の息が零れ、ドアへと向いた視線が緩やかに落ちていった。  淡い光が瞼に触れ、薄目を開くとカーテンの隙間から顔を背ける。  もっと眠っていたかったと朝陽を恨んでしまったのは、康介の夢を見ていたからだ。  もう終わった恋だと割り切らなければいけないのに、昨日の今日で期待している自分がいる。  どうせ康介は清十郎の存在が気に入らないだけで、俺に未練なんてない。気まぐれで俺の様子を見に来ただけで、寄りを戻すつもりもないはずだ。 「わかってるくせに、……なんで夢にまで見てんだよ」  夢の中の笑顔が眩しい康介は自分が作り出した幻想で、現実の康介は欲求不満を満たしてくれるだけで、本当に欲しいものは与えてくれそうもない――。  感傷に浸りたい気分ではあったけれど、今日は昼からの出勤でそうもしていられない。 清十郎と顔を合わす事に抵抗がないわけではないけれど、いつまでも閉じこもっているわけに もいかず重い腰を上げる事にした。  寝室のドアをそっと開けると、外の気配を探り様子を覗き見る。 キッチンには清十郎が立っていて、迷いが脚を止めさせた矢先、清十郎が肩越しに振り返った。  ほんの一瞬訪れた沈黙が気まずさを増長させ、意を決して口を開きかけたところで、清十郎 が先に声を掛けてくる。 「新、おはようございます」 「ぁ、おはよ」 「新……」 「俺、昼から仕事だから、シャワー浴びてくる。時間も微妙だし、朝ご飯もいいや。用意してくれたのに、ごめんな」  清十郎が何かを言おうとして、それを遮るように言うと浴室へと急ぐ。  僅かに眉を寄せた清十郎の表情には罪悪感を覚えるけれど、今は康介との事に触れて欲しくなかった。  熱いシャワーを浴び、ボディソープの香りの中に僅かな白濁の匂いを感じると、昨夜の行為が否応なしに思い出される。  言われるがままに康介の上に跨り、腰を振って喘がされた記憶だった。 「あぁ、くそ……」  今の今まで関係をもった人以外に自分の性癖を知られた事なんてなくて、後悔と羞恥で眉間に深く皺が刻まれる。  一人になって叫びたい。そんな風に思うと吐いた息が弱々しく震え、洗面台の鏡に映った自分の顔は今にも泣きだしそうだった。  ――だから、余計に清十郎と顔が合わせづらくて、逃げるようにして家を出た。

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