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第6話

 食欲もないし、何処か寄りたい場所があるわけでもなくて、ただゆったりとした歩調で職場を目指す。  時間を潰したい。急いでもいない。どうしてだかこういう時だけは、信号にも引っかからずに、最短で目的地に辿り着けるのはなぜだろうか。  結局出勤時間より一時間も早く職場に着いてしまい、溜息と共に視線が落ちた。  職場は『ヴェール』という個人経営の喫茶店で、フランス語で緑を意味しているらしい。店名通りに店内も落ち着いた緑色が基調となっていて、カフェというよりは昔ながらの喫茶店という外観だ。  オーナーがキッチンを担当していてデザートを得意としており、もともと閑古鳥とは無縁ではあったけれど、『デザートが美味しい喫茶店』とメディアに取り上げられてからは客層が広がりを見せ、平日だというのに今日も窓の外から見える店内は賑わっていた。  女性客増えたよな。そんな風に思いながら店の裏手に回り、通用口から休憩室兼事務所に入ると、同期である須永がペットボトルのキャップを締めているところに出くわした。  須永との付き合いはほぼ職場だけではあるけれど、顔を合わせている時間が長い分、仲は良い方だと思っている。 「須永、お疲れー」 「……新、お疲れーって、早くない?」  挨拶を交わした須永の目が室内の壁掛け時計へと流れ、小首を傾げられた。  須永と鉢合わせたのは想定外だったけれど、この反応は予想通りだ。 『同居人の存在を忘れて久しぶりのセックスに没頭して淫らに喘ぎまくった結果、顔を合わせづらくて家を早く出てきた』  そんな事を言えるわけもなく、壁に貼られているシフト表を眺めると苦笑して見せる。 「あれ。俺、今日は昼からか」 「そうだよ。でも、今日も忙しいし、早いけど出てきちゃえば?」 「あー……、いや、時間まで寝る」 「そう言うと思った。じゃ、俺は戻るね」  大袈裟に欠伸をして見せると須永は眉を下げて人懐っこく笑い、事務所から出て行った。  足音が遠ざかっていくのを待ち、表情が徐々に真顔へと戻って行く。眠気なんて微塵もなくて、手持無沙汰から制服に着替える事にした。  制服は白いシャツと焦げ茶色のベストと同色のロングエプロンで、下は黒いズボンで自前だ。蝶ネクタイの色は黒で、この制服も喫茶店の売りだという。  制服に着替えたはいいけれど、時計の針は殆ど動いていない。ズボンの後ろポケットからスマートフォンを取り出すと椅子に腰を下ろし、アプリを開いた。  広告とニュースを流し見て、飲み会の誘いに指が止まる。酒でも飲んで、笑って騒ぎもすれば良い気分転換になるだろうけれど、今日でないのなら意味はない。  断りのメッセージを打ちながら、ふと清十郎の素性が気になって指が止まった。 「……清十郎って、本当に誰かの友達とかじゃねぇよな?」  清十郎の口から語られた眉唾物の話を、全て鵜呑みに出来る程お人好しではなく、僅かに残る懐疑心が溜息を吐かせてくる。  自分がゲイでマゾ気質のサブだなんて、誰にも知られたくない。だけど、女を好きになるなんて絶対に無理だし、今更タチをやろうとしても中折れするのがオチだ。  墓穴を掘りたくないから誰にも訊けず、疑心暗鬼でいるのも疲れる。  どうにもならない心境に頭を抱え、鬱陶しい程の溜息を勤務時間まで吐いて過ごした。  この日は適度に忙しかったおかげで、余計な事を考えずに済んだ。  閉店業務を終わらせて店を出たのは午後九時半頃で、街灯の下をいつものように歩きながら真っ直ぐに自宅を目指す。  途中、康介の言っていた言葉を思い出してスマートフォンのアプリを開くけれど、康介からの通知は何もなかった。 「今日来るって言ってたよな……」  具体的な時間は聞かされていなかったし、気が変わったのかもしれない。康介の予定は未定で、昨日だって突然連絡もなしに訪ねてきた。  他の男との予定でも入ったのか? そんな風に思うと、康介からの連絡を心待ちにしていたわけでもないのに、寂しさから唇を噛み締めていた。 「馬鹿みてぇ」  そんな自分に呆れ果て、大きな溜息を吐きながらアパートの階段を昇る。 そして、部屋の前に着くと鍵を持つ手が止まり、無意識に本音が漏れる。 「気まず……」  大きく息を吸い、息を吐いた。  なるようになる。開き直る意外の答えが見つからず、いつも通りに振る舞おうと笑顔を作って玄関を開けると、想定外の光景に大きく目を見開いた。 「な、……こ、康介?」  ダイニングキッチンの丁度真ん中にあるテーブルの傍で康介がうつ伏せに倒れていて、テーブルを挟んだ向こう側に清十郎が立ち尽くしていた。  血の気が引いていく感覚がして、靴を脱ぎ捨てると康介へと駆け寄っていた。  力なく倒れていた康介ではあったけれど外傷は見当たらず、顔色も悪くは見えない。口元に顔を近づけると確かな呼吸音が聞こえ、やっと安堵の息を吐くことが出来た。 「……清十郎、何があったんだ?」  僅かに震えていた声に自嘲気味な笑みが零れてしまい、平静に努めて清十郎を見上げると、困惑を滲ませた瞳と目が合う。 「わかりません。話し合いの最中に康介さんが倒れてしまい、……そこに新が帰ってきました」  清十郎の口調からは戸惑いと動揺が感じられて、それが余計に胸の内を騒めかせる。  康介に持病なんてあっただろうか。突然倒れた理由を脳裏で探るけれど、思い当たる節が浮かんでこなかった。  ともかく救急車を呼ぼうとズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、康介が小さく呻く。 「康介⁉ 大丈夫か? どこか痛いとか」 「生意気……っ」  上体を起こす康介の背中を支えながら声を掛けるけれど、初めて聞く康介の低い声で項が粟立つと同時に言葉を失う。  康介の表情は怒りを露わにしていて、清十郎を睨み付ける目からはグレアが溢れ、反射的に視線を逸らしていた。 「いくらランクが上でも、アンタみたいなお上品なだけのドムに……、新を満足させられるわけない。新は、僕が好きなんだ」  清十郎への敵意を剝き出しにした康介の声は怒りに満ちていて、視線の端に映る唇は僅かに震えている。  康介の言葉から何が起きたのかを察した気はするけれど、尚更康介にかける言葉を見失っていた。  とはいえ、一時的とはいえ気を失っていた康介を目の当たりにした以上、ドム同士の争いを放置するわけにもいかない。自分がとばっちりを受ける可能性は否めないけれど、事の発端はどう考えても自分だから。  清十郎へと視線を投げると、それに気付いた清十郎が眉の下がった顔を向けてくる。  清十郎と康介の温度差の違いに違和感を覚え、掛ける言葉を思案していると康介の声が揺れ動 いた。 「帰る」  手のひらから温もりが離れていき、康介を見上げるとバツが悪そうに背を向けられる。 「康介、大丈夫か? 俺、送ってい」 「うるさい。僕に構わないで」   反射的に声を掛けてしまったけれど最後まで喋ることは叶わず、あっと言う間に康介は部屋から出て行ってしまった。  殺伐とした雰囲気こそ薄れたけれど、静まり返った室内の空気は重苦しい。  たかだか数分の事だったのに、身体が重く感じ、心なしか息苦しさもある。  康介のグレアに充てられてしまったのかもしれない。そんな風に思うと、康介の引きつった口元が脳裏に浮かんだ。  緩慢な動作で立ち上がり、椅子に腰を下ろす。 「清十郎も座れよ」  吐息交じりで清十郎に声を掛けると、無意識に玄関へと視線が流れていた。  こんな状況でも康介の身を案じている自分に溜息を吐き、意識を清十郎へと戻す。  心ここにあらずにも見えるけれど、清十郎がダメージを負っている様子は見られない。勝者なのだから当たり前かと思う反面で、温厚な清十郎がグレアを発したことが信じられなかった。  康介が自分の不在時を狙ったのかは定かではないけれど、結果として清十郎に返り討ちにされたという事だろうか。そんな風に漠然と思案していると、清十郎が手前の椅子に腰を下ろすと同時に頭を下げてくる。 「新、申し訳ありませんでした」 「……あ? 何が?」 「康介さんが、帰ってしまいました」 「あー、康介、プライド高いからな。清十郎が気にする事じゃねーよ。……でも、まぁ、とりあえず、俺が帰ってくる前に何があったのか訊いて良い?」  肩を落とし暗雲を背負っているような清十郎が小さく頷くと、口元が緩みそうになる。普段の凛としている姿を思い出すと尚更で、いつの間にか気分が安らいでいた。  神妙な面持ちで清十郎がぽつぽつと語り始め、自分の中にあった憶測が確信へと変わっていく。  どうやら康介は、清十郎が一人でいると踏んで訪ねてきたようだった。  開口一番に『新はいないよね』と言いながら部屋に上がってきて、清十郎に自分とセックスをしたのかと訊いてきた。  勿論そんな事実はなくて、清十郎が首を横に振ると、――尻を叩くとか、血が滲むほど噛んでやると涎を垂らして喜ぶ――等と、プレイの内容を嬉々として話してきたらしい。  全てが事実で視線が泳いでしまうけれど、清十郎には理解出来ていないようだった。  清十郎は眉間に深く皺を刻む程の深刻な顔をしていて、潔癖そうな瞳がとても綺麗だった。 「新を傷つける事は止めて欲しいと、康介さんにお願いしたのですが、……新を侮辱するような言葉を返されてしまい、気が付いた時には、康介さんが倒れておりました」 「……そっか」  これ以上の言葉が出てきてくれない。  康介が言った『侮辱するような言葉』で清十郎が怒ってくれた事は嬉しい。けれど、侮辱されても仕方のないような性癖を持っているし、もしかしたらその言葉で興奮するかも知れないのも事実だ。  曖昧に笑って見せると、清十郎も眉を下げながら微笑んでくれる。  あまりに気まずすぎて訊けなかったけれど、尻を叩かれて喜ぶような自分を、清十郎はどう思ったのだろうか。言及してこない清十郎に安堵しながらも、胸の奥がチクリと痛んだ。 「新? どうかされましたか?」 「ぁ、いや、えっと、……清十郎って、ドムだったんだなって思って」  清十郎は表情の変化に敏感だ。指摘された後に思い出し、無理やりに話題を繋げると、清十郎が柔和な笑みを見せる。 「そうですね。新がそう言うのなら、私はドムなのでしょう」 「え?」  他人事にも聞こえる清十郎の台詞に思わず訊き返してしまうと、清十郎もまた驚愕するような顔をしていた。 「清十郎って、最上位Sランクのドムなんじゃないのか?」 「私が最上位Sランクの、ドムですか?」  清十郎にオウム返しをされてしまい、思考中と共に束の間沈黙が訪れる。  清十郎は長い睫毛を瞬かせてただこちらを窺うように見つめてくるだけで、目を逸らすことも出来ないままに息を呑んだ。

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