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第7話

「……あのさ、全く信じてなかったわけじゃねーんだけど、清十郎って、本当に、元燕なのか?」  清十郎がダイナミクスを知らない理由を辿ると、この疑問に行き着く。とぼけている可能性を考えないわけでもないけれど、清十郎の人となりを思うと、後者の可能性はあっさりと消えていくのだ。 「はい。私は新に命を救っていただいた、あの時の燕です」  即答だった。  清十郎は考える間もなく頷き、懐かしむように目を細めると、僅かに頬を赤く染める。  まるで愛しい人を目前にしているみたいなその表情に目を奪われ、心までも奪われそうになった寸前で我に返った。  まだ康介が好きなくせに――、二股でもしようってのか――? こういうところだけは潔癖な自分に、胸の内がむず痒くなる。  視線を落として一息つき、気持ちをリセットしたくて軽く咳払いをする。深く息を吸い込むと、清十郎を見据えた。 「ダイナミクスって、知ってる?」  無理矢理に話題を変える事に決めた。清十郎は一瞬きょとんとした表情を見せたけれど、すぐに考え込むように視線を落とすと顎先を指で触れる。 「……力学、でしょうか?」  小首を傾げた清十郎は自信なさそうで、突然話を振った罪悪感が追ってきた。 「いや、違う。……悪い」 「私の勉強不足です。申し訳ありません」  深々と頭を下げる清十郎は、やはり嘘をついているようには思えない。 「いや。俺が悪かった。謝んなくていい。……、もう一個だけ訊くけど、ドムとかサブも知らないよな?」 「はい。詳しくは存じ上げません」  清十郎は真摯な態度を崩すことはないけれど、真っ直ぐな瞳が不安を滲ませていた。  Aランクドムの康介が清十郎を上だと言っていたから、清十郎はSランクドムで間違いないだろう。マッチングアプリにSランクなんていた事はなかったし、Aランクの康介だってかなりレアな方だ。  そもそもドム自体の人口が希少で、サブの半分にも満たないと聞いたことがある。サブだってユージュアルを含めた全体数でいったらそう多くもないのに、だ。  ――要するに、清十郎が俺の友人や知人繋がりではないと決まったようなもんだ。  質問の度に眉を下げる清十郎を見るのも心苦しかったから、この結論は自分にとっても都合が良い。  元燕だという話はこの際置いておくとして、友人や知人と繋がっていないのなら、それで十分だと強く思えていたからだ。 「知らないなら説明してやるし。だから、もうそんな顔するなって」 「新、……ありがとうございます」  清十郎の表情がみるみるうちに晴れ渡っていき、自分の胸の内も同じように雲が左右に散っていく。  そういえば、清十郎を家に置いておくと決めた時も、清十郎の顔が要因だった。  好みの顔を目の前にした俺は、無力だ。そんな風に思うと自嘲気味な笑みが漏れ、好みの顔なだけで好きなわけじゃないと、胸の内で自分に言い訳をする。 「じゃあ、とりあえず……、ダイナミクスの種類からな」  元燕だと言い張る清十郎の非現実さを追及する気も失せ、清十郎にダイナミクスについて説明をしてやる事にした。 「なるほど。本能を満たし合わないと体調不良を起こしてしまうのがドムとサブ。そして、それらの影響がないのがユージュアル、という事ですか」 「そうだな。簡単に言うと、ユージュアルが清十郎の思っていた人間ってところだな。それで、ドムとサブは……、康介と俺だな。身近な人間で言えば」  小声で復唱している清十郎に付け加えるみたいに言って、パステルグリーンのマグカップに手を伸ばした。  清十郎と自分の手前には色違いのマグカップが置かれていて、カフェオレの良い香りが気分を落ち着かせてくれる。清十郎の使っているパステルブルーのマグカップの元の持ち主が康介 だという事を除けば、良い雰囲気だった。 「康介はわかりやすくドムだな。あの雰囲気とか、支配的なところとか。まぁ、SMで言うとこのサディズム思考がドムで、逆のマゾヒズムがサブって感じか。すげー簡単に言っちゃえばだけど」  我ながら雑な例えだとは思ったけれど、清十郎は「なるほど」と呟き頷いていた。  清十郎の世界にもSMが存在していたのかという疑問が湧いて出て、訊いてみようと口を開きかけたところで先を越される。 「とてもわかりやすい例えでしたが、新はサブだという私の認識は合っていますか?」  思わず閉口してしまい、視線が泳いだ。 「……合ってる。あれだろ、サブっぽくないって言いたいんだろ?」  湯気越しの清十郎が曖昧に微笑み、質問を肯定されたのだと察し、鼻で笑ってしまう。 「サブだって知られたくなくて隠してるんだから、当然だけどな」  視線を逸らしたままで言ってマグカップをテーブルに置くと、視界の端にあった清十郎の唇が薄く開く。 「なぜ、隠していらっしゃるのですか?」  自然と視線が清十郎へと向き、目が合うと真顔で小首を傾げられた。  顔は良いけど、察しが悪いのかも知れない。つい先日、康介と俺が寝室でしていた事を知らないわけでもないくせに。そんな風に思うと苦笑いが零れそうになるけれど、乗り掛かった舟だとも思った。 「……恥ずかしいからに決まってるだろ」 「何が恥ずかしいのですか?」  清十郎には全て打ち明けてしまおうと腹を括った矢先だったけれど、清十郎の台詞が煽りにも聞こえてしまい、鼓動が跳ね上がる。  気恥ずかしさで清十郎から反射的に視線を背け、煩く鳴り響く鼓動と火照り始める頬を隠すように頬杖をついた。 「直球だな」  独り言が零れ、やっぱり言いたくないと思う自分と満更でもない自分が対立し、清十郎の真っ直ぐな視線に晒されると、後者の勝利が決まる。 「普通は嫌がるようなことをされて、嬉しいって思う事とか。……普段はドムっぽいって言われるから、余計に知られたくねーんだよ。……けど、サブには俺みたいなマゾ気質は多いって聞くし、別に、俺だけがおかしいわけでもねーけどなっ」  直接的な言葉は喉元で吞み込んだけれど、顔の熱が冷めない事には変わりがない。気恥ずかしさから言葉尻が大きくなってしまい一瞥して様子を窺うと、清十郎は顔色一つ変えずに静か に頷いていた。  その意に介していない様な反応に、どうしてだか胸がチクリと痛む。 「隠したいだけなら薬を飲むのもありだろうけど、それじゃ根本的な欲求は消えねーし、性格がドムっぽくても、結局はサブだから……、一人でいるのは辛い」  勢いで喋ってしまった後で、余計な事を口走ったと息を呑むけれど、今更だ。 「だから、康介の捨て台詞は、俺がそういう奴だって意味なだけで、清十郎に対しての悪口じゃないと思う」  清十郎は気にしていないかも知れないけれど、胸の奥に引っかかっていた。 『いくらランクが上でも、アンタみたいなお上品なだけのドムに……、新を満足させられるわけない。新は、僕が好きなんだ』  どうしてここで康介を出してしまったのかと、閉じた唇が後悔に震える。  きっと自分と相性が良いのはサディストで我儘な康介で、温厚で優しい清十郎じゃない。清十郎と康介の共通点は、ドムだという事だけだ。  ――それでも俺は、清十郎の気が引きたいのか?  自問自答が脳裏を過ぎり、自分勝手な感情に気付くと同時に息を呑んでいた。 「新は、康介さんがお好きなのですね」 「……振られてるけどな。別に未練もねーし、どうでもいいけど」  清十郎の柔和な声に顔が強張り、吐息交じりの虚勢が零れる。  清十郎が微かに笑う気配がして、椅子が引かれた様な無機質な音が僅かに響いた。 「不躾なお願いではありますが、……少しだけ、お時間を戴けないでしょうか?」  間の抜けた声が漏れてしまいそうな清十郎の言葉にゆっくりと視線を向けると、真っ直ぐな瞳に捕らわれる。 「なんの、時間?」 「それはまだ秘密です」  不意に疑問が口から突いて出てしまったけれど清十郎はただ微笑むだけで、それ以上を口にしようとはしない。 「……ふーん。まぁ、いいけど」 「ありがとうございます」  言及したら格好悪い気がして、気のない返事をしてみせる。  けれど本当の自分は、清十郎の穏やかな笑顔を、それとは真逆の感情で見つめていた。 「新、最近元気ないね。なんかあった?」 「なにが? 別に元気なくは無いだろ」  今日は閉店一時間ほど前から客の入りが止まり、ラストオーダーの時間が過ぎた所でキッチン担当のオーナーに「後はよろしく」と言われ、須永との二人営業になっていた。 「でも、ぼーっとしてるよね、最近」 「ぁー……。何もなさ過ぎて、気が抜けてるのかもな」  人間観察が趣味だと言っていた須永だったけれど、まさか自分も観察対象になっているとは思わなかった。  適当に話をはぐらかそうとしたけれど、須永の視線は明らかに疑ってきている。  ない腹を探られるのは構わないけど、図星なんだよな……。そんな風に思いながら寄ってしまいそうな眉根に力を籠め、密かに溜息を吐いた。 「そんな目で見んなよ」  仕事中に上の空でいる時間が増えた自覚はあり、理由は清十郎に時間が欲しいと言われた件に関して、未だに何の話もないからだ。  あの時の清十郎の表情からはネガティブさは感じられなかったけれど、コンプレックスでもある『実はM』だとカミングアウトした後では、ポジティブ思考で待っていろと言われても無理のある話だった。  新しい家が見つかったとか、見つけたいとか。そんな話だったら、かなりつらい。でも、ただの同居人でいるのも、きっとつらい。そんな風に思うと遠い目になってしまい、零れそうな溜息を呑み込む。 「俺は何もない毎日も幸せだって思うけどなー。さては、……好きな人でもできた⁉」 「……っ⁉ なんでそうなるんだよ」 「だってさ、好きな人が出来たら何か起きて欲しいじゃん?」  須永の言っている全部が、理解できるような気がした。清十郎と暮らし始めて平穏な日々の良さを実感したけれど、今はその穏やかな日々に物足りなさを感じている。 「別に、好きってわけじゃねーし」  自分に寄り添うような須永の言葉に否定することも忘れ、またしても虚勢を張っていた。すぐにハッとして否定を口にしようとしたけれど、須永は悟った風な顔でこちらを見てにやりと笑う。 「でも、少しは意識してるんでしょ? 新の彼女とか今まで見た事ないけど、新って美人のお客さんにも動じないし、きっと今回の人も美人なんだろうなー」 「美人って言っても客だろ。……そんな事より、そろそろ閉店準備しようぜ。残りあと一分で来る客なんていないだろ」  須永の想像力に密かに震えながら、店内の時計へと視線を向け閉店業務を促す。話に夢中になっていたのか、須永は時計を見た瞬間に驚愕を顔全体で表していた。  ショーケースの照明スイッチをオフにしながら、話が中途半端で終わったことに胸を撫でおろす。ダスターを片手に店内照明のスイッチへと手を伸ばしたところで、須永の声に制止される。 「……待って、窓の外で覗いてる人がいる」  須永の視線の先を辿ると、窓の外で右往左往している人影が目に留まった。 「あー。ちょっと見てくる。レジはまだ締めるなよ」 『照明を落とすまでは営業中』というオーナーの方針もあり、短く息を吐きながらもその方へと足を向ける。  店の出入口のドアから顔を出し、窓から覗いていたであろう後姿に声を掛けると、心臓が止まるかと思う程に驚愕した。 「せ、清十郎⁉」  思わず声が大きくなってしまい、口元を手で覆いながら目を白黒させていると、黒のパンツに白いシャツ姿の清十郎が、柔和な笑みを浮かべてゆっくりと歩み寄って来る。 「新、お仕事お疲れ様です。突然申し訳ありません。新のお耳に早急にお入れしたい事がございまして、お迎えにあがりました」 「……ぉ、お迎えにって、よくここがわかったな」 「以前、新からいただいた洋菓子の紙袋に店名がありましたので、検索いたしました」  僅かに眉を寄せた清十郎が、目を伏せて微笑む。緩み始める唇に力を籠め、高鳴り始める鼓動には気付かない振りをした。 「そ、そうか。今、店閉めるから、……少し待てるか?」 「勿論です。新の為でしたら、何時間でもお待ちいたします」 「じゃあ、……そこで少し、待ってろ」  清十郎の返答には肩が跳ね上がりそうな程にドキリとしてしまい、そんな自分に酷く狼狽しながらドアをそっと閉める。  清十郎の姿が視界から消えた途端に安堵の息が零れ、振り返ると目を丸くした須永が立っていた。 「……っ⁉」  声にならない声が口から飛び出し、想定外過ぎた須永の出現に鼓動が跳ねる。 「お、お前、気配ゼロとか止めろよ」  半笑いで言って須永の横を通り過ぎようとすると、顔を見ずとも興味津々だとわかる弾んだ声に引き留められる。 「新っ。さっきの人、友達?」 「ん。あぁ、……今、一緒に住んでる」 「え、一緒に住んでるの? 初耳」  どうして俺は、焦ると余計な事を口走ってしまうんだろう。そんな風に思いながら胸の内の自分が膝から崩れ落ちていると、須永の畳み掛けるみたいな質問が飛んでくる。 「新の事、何時間でもお待ちしますとか聞こえたんだけど、さっきの人はサブ? ……新って、やっぱりドムなの?」 「なんだよ、急に」 「だって俺ユージュアルだし、周りもユージュアルしかいないからドムサブに興味あるんだよね」 「興味ってなぁ……」  清十郎はあの物腰でドムだ。そして、自分はサブ。ユージュアルからしたら物珍しいのも理解はできるけれど、その分偏見もありそうで返答には慎重を期す。  目の輝きが眩しい須永にどう答えるのかが正解かと思案し、ノーコメントを貫くことに決めた。  黙々と閉店業務をこなしながら、幾度となく飛んでくる須永からの質問を躱し続ける。  あとは事務所でタイムカードを押すだけとなった頃には、須永はすっかり拗ねていた。 「新と一緒に働くようになって数十年、ほとんど毎日顔を合わせてるのに話してくれないなんて、悲しいな。信用されてないのかな、俺」  狭い事務所で二人きり。帰ろうとした矢先に大袈裟な溜息を添えて言われると、気まずさから視線が泳ぐ。 「別に、須永を信用してないわけじゃねーよ。でも、ドムとかサブって少数派だろ。鼻にかける奴もいるけど、俺はそれは違うって思ってる。だから、あんまりダイナミクスの話はしたくねーだけだよ。……それと、須永とは数十年も働いてねーぞ」  自分がサブでゲイだという事を伏せて本心を伝えると、須永が僅かに目を見開いた。 「……ごめん。俺、ドムがそんな風に思ってるなんて考えもしなかった」 「別にいい。ただ、性格とダイナミクスのイメージがイコールじゃねー奴もいるって事だけは知っといてくれよ。あと、俺はダイナミクスをカミングアウトするつもりはねーから秘密だからな」 「わかってる。みんなが新の事、裏でドムだって言ってるけど黙ってるよ」  須永が申し訳なさそうに眉を八の字にして笑い、含みのある言い方に釣られるように笑って見せた。  本当はドムじゃなくてサブだなんて余計に言えない雰囲気で、罪悪感が沸々と湧き始める。  でも、どの道サブだと言うつもりはない。そんな風に思うと気持ちを切り替えたくて短い吐息が零れ、清十郎を思うと視線が外へと続く通用行へ流れた。 「新、ダイナミクスの話はもうしない。だから、一個だけ教えて」 「なんだよ? 外で待たせてるから手短にしてくれよ」  ドアノブに手を掛けながら、肩越しに振り返る。  須永の目の輝きが戻っていると気づいた瞬間に、嫌な予感が背筋を撫でた。 「外の彼と、同居と同棲のどっちなのかだけ教えてよ?」 「……っ⁉」  想定外の質問で声にならない声が口から突いて出て、口元の強張りが抑えられなかった。 「大丈夫だよ。俺が口堅いのは知ってるでしょー? 新が男もいけるとは思ってなかったけど、あれだけの美人ならありかなって俺も思うよ」  胸の前で腕を組み頷く須永が「秘密は厳守する」と力強く付け足してきて、溢れるように溜息が零れた。  須永は噂好きではあるけれど、噂話をばら撒いている姿は見たことがない。 「今は、……同居だ」 「そっかー! 新、頑張ってね」  やっと解放されたという安堵感と、根負けして口を割ってしまった敗北感が交差して、乾いた笑いが口元を引き攣らせる。  須永に男が好きだと知られてしまった。軽率だったかもしれないと、胸の内が騒めき始めると力ない声が漏れた。 「須永、マジで頼むぞ……」

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