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第8話
薄暗い路地裏を街灯の明かりに向かって歩き、胸の内にモヤモヤを抱えたままで清十郎の姿を探す。
清十郎は店のドアの前に姿勢よく立っていて、薄闇さえも味方にするような端正なシルエットに目を奪われそうだった。
「清十郎ごめん。待たせた」
謝罪を口にしながら心底悪かったと思っているはずなのに声は弾んでいて、さっきまでのモヤモヤも何処かへと消えていた。
こちらに気付いた清十郎の顔が、あっという間に柔和なものへと変わっていき、目が合うと無意識に息を呑んでしまう。
「新、お疲れ様です」
「遅くなってごめんな。変な奴に絡まれたりしなかったか?」
「はい。女性に時間の有無や道を尋ねられましたが、土地勘も時間もないとお断りしました。会話があったとしたらその程度なものです」
横並びになると示し合わせたかのように帰路へと足が向き、逆ナンパに真顔で対応した清十郎が安易に想像できて笑えてくる。
「どうかされましたか?」
「いや、随分素っ気ないんだなって思って」
優越感が笑いを誘い、嬉しいと感じる気持ちを抑えながら顔を向けると、目が合った瞬間に時間が止まった様な感覚がした。
「新を見失いたくありませんでしたので」
柔和な表情のままに紡がれた言葉がとても真摯的に聞こえ、思わず息を呑む。自然と落ちた視線がアスファルトに釘付けになっている間も、視界の端で感じる熱心な視線は解放してくれない。
「ぁ……、大袈裟。別に、清十郎が話し中だったからって置いていかねーよ」
顔を向けることが出来ないのは、確かな熱を耳まで感じていたから。
「新に置いていかれたら、私は泣いてしまうかもしれません」
「よく言うよ。……それより、なんか急ぎの用があったんだろ?」
笑いを含んだ清十郎の声が心地良く、堪らず零れた笑みを残したままで思い出したように問いかける。
「はい」
清十郎の良い返事が聞こえはしたが、その後は互いの靴音だけが辺りに響いていた。
軽い胸騒ぎと共に、こっそりと横目で清十郎を窺う。神妙な面持ちの清十郎は何やらブツブツと呟き、思案しているかのように視線が何処かを彷徨っていた。
横顔もスゲー良いけど、何考えてるか全く読めないんだよな。そんな風に思いながら視線を外し、短く息を吐く。
すると、意味をなさない清十郎の慌てた声が耳に届き、声が追ってきた。
「……申し訳ありません。覚えた事を頭の中で整理しておりました」
立ち止まった清十郎に肩越しで振り返り、自分も足を止める。
「覚えた事?」
唐突とも思えた話題変更に小首を傾げ訊ねると、一瞬清十郎の瞳が不安そうに揺れた。
街灯の下で束の間沈黙が訪れ、考える時間はあったはずなのに思考が停止する。
何を考えているわけでもなく、ただ清十郎を見つめていると、やっと清十郎の唇が薄く開き始めた。
「実は、コマンドを覚えました。他にも新が服用している抑制剤は万能では無く、副作用がある事も知りました。セーフワードも理解しています。新の秘密も、勿論最優先で厳守いたします」
真摯な面持ちで真っ直ぐに見据えられ、清十郎は淡々と言葉を紡いでくる。
どういう意味だ? と訊ける余裕も途中で消えていて、鼓動の煩さに目が泳ぐ。深呼吸をして、どうにか冷静な自分を取り戻そうと唇の内側を噛み締めた。
「私は、新のお役に立ちたいのです。一人が苦手でしたら、私を傍に置いてください。薬だけでは解決しないのであれば、私にお手伝いさせて下さい」
視線を少し上げると、熱の籠った清十郎の瞳に視線を絡め取られる。少量のグレアを纏ったその瞳は思わず生唾を呑んでしまう程に官能的で、吐く息があっという間に熱を孕んでいた。
考えるまでもなく、これはドムサブ間で行われるプレイの誘いだ。清十郎が相手で不満なわけは無いし、マッチングアプリ全盛期だった頃の自分ならすぐにでも飛びついているような話だと思った。
――だけど、何かが嫌だ。
清十郎がどんな風に自分を虐めてくれるのか、どんな冷たい視線を浴びせてくれるのか。一瞬にして脳裏を埋め尽くした淫らな妄想で身体の中心がじんわりと疼くけれど、心の一部は冷え切っている。
「……気持ちは嬉しいけど、俺は、少しでも気持ちのある同士じゃねーと、プレイする関係にはなりたくない。俺を恩人だとか言ってたけど、そこまで身体を張る必要はねーぞ」
初めて会った男と、その足でホテルに行った事なんて何度もある。
今更清十郎に純潔アピールでもする気か? と、我ながら呆れてしまうけれど、恩返しの見返りあっての関係なんて受け入れたくなかった。
「聞かなかったことにするし、清十郎も考え直せよ。自虐的にも程があるんだよ」
わざとらしく溜息を吐き、笑い飛ばして見せるけれど言葉尻が震えていた。
動揺し過ぎ、……格好悪すぎる。
目を覆いたくなる自分の失態に苦笑いが零れ清十郎から顔を背けると、耳にかかる髪が僅かに揺れる。
風も吹いていない、寒くも熱くもない気温。そんな日に髪を揺らしたのは、清十郎の熱い吐息だった。
「承知いたしました。……新に好意をもっていただけるよう尽力いたします」
低く甘い囁きに項が粟立ち、その心地よさに思わず息を呑む。
「……なんだよ、それ」
横目で清十郎を窺うと、柔和な笑みと穏やかで優しいグレアに蕩けそうだった。
あの日の夜は気まずさも手伝って、口数が少ないままで帰路についた。
というよりも、語彙力が半分以下に成り下がっていて、言葉が上手く出てきてくれなかったのだ。
須永に清十郎への淡い恋心を知られてしまった時、あの時はどう話せば上手く乗り切れるだろうかと思っていたけれど、今は須永と一緒のシフトになるのが待ち遠しい。
身勝手な話ではあるけれど、それ位、清十郎から言われた言葉を、第三者目線で聞いて判断して欲しかった。
『新に好意をもっていただけるよう尽力いたします』
何度も脳裏で復唱される言葉はあの日の清十郎の甘い声色付きで、目を閉じると身体に熱が籠り始める。
だから努めて思い出さないようにして、今日も清十郎の見送りで家を出た。
須永とシフト被りをするこの日は早番での出勤で、メインメンバーは須永とオーナーの自分を含めての三人だ。土曜日という事もあり、昼過ぎからはアルバイトが二人来る。
人数が増えれば、それだけ須永と話す機会が減ってしまう。オーナーが事務所から出て行くと同時に須永を視界の端に捉え、ネクタイを整えながら声を掛けた。
「須永、ちょっと良い?」
「うん? 良いよー。あの話でしょ?」
ロッカーを閉めた須永の口角が上がり、瞳が輝きだす。話が早くて助かるけれど少しだけ複雑で、視線が泳ぎそうになる。
「察しが良すぎて怖―よ」
「だって新、出勤してからずっとソワソワしてるんだもん」
得意げに笑う須永の言葉には苦笑いしか出ず、強張る口元にさりげなく手を置いた。
「監視するなよ」
「人の趣味にケチつけないでよー」
大袈裟に溜息を吐いて見せるけれど、須永に効果がないのは想定内だ。
だから、さっさと話してしまおうと清十郎に言われた言葉を須永に告げると、須永が大きく目を見開き「おぉっ‼」と感嘆の声を漏らした。
「何、俺は朝から惚気を聞かされてるの? それって遠回しだけど、確実に告白だよね? 新の事が好きって前提で話してるよね?」
「…やっぱ、そう思うよな」
須永の解釈が自分と同じだったことに安堵し、清十郎に好意をもたれているという前提が鼓動を速くさせる。
好きだから、俺の気持ちはともかく俺としたいってこと? そう思うと同時に清十郎の照れ臭そうに笑う顔が脳裏に浮かび、胸が締め付けられるような衝撃と共に、声にならない声が零れた。
「職場……愛、か」
「ん? 悪い、聞こえなかった」
頭の中を忙しくしていた所に須永の呟く声が耳に届き、我に返り首を傾げて見せたけれど須永はきょとん顔を返してくる。
「え、何が? それより、あんな美人にそんな風に言ってもらったって事は、付き合うんでしょ?」
突然捲し立てるような早口になった須永に違和感を覚えるけれど、言及する間もなくタイムアップとなった。
事務所の鳩時計から鳩が飛び出し、須永と二人でホールへと向かう。
この日は須永と雑談をする暇もなく、結局帰る時間も別々となってしまい終了した。
一人で街灯の下を歩き、自分だけが都合の良い解釈をしたわけではなかったことに表情が緩む。
彼氏だったら最高だと思う時もあった清十郎に好かれているとしたら願ったりで、今日も笑顔で出迎えてくれる姿が目に浮かぶ。尽くしてくれて優しい清十郎と過ごす日々は、きっと陽だまりのようだろう。
でも――、俺の中にはまだ康介がいる。
ペアで揃えた食器を処分できずに使い続けているのも、康介との大切な思い出だから。
清十郎が好きだという自覚はあるけれど、康介を想う自分がいる自覚もある。どちらとも付き合っているわけではないのだから好きにすればいいと思う反面で、不誠実にも思える自分に、半ば呆れながら苛立っていた。
星一つない真っ暗な空を仰ぎ、纏まらない想いに溜息を吐く。
アパートの階段を昇りながら、腹の虫を大いに刺激する匂いの発生源が自室からだとすぐに察し、眉は下がり口角が僅かに上がる。
ドアノブに手を掛けたところで腹が鳴り、控えめに開き始めるドアの隙間から清十郎が顔を覗かせた。
「新、おかえりなさい」
「ただいま」
こちらの存在を捉えた途端に細められる清十郎の瞳に目を奪われていると、清十郎の睫毛が気恥ずかしそうに伏せられる。
「ぁ……、えっと、美味そうな匂いがするんだけど、今日は何作ってくれたんだ?」
長い睫毛を目で追いたい気持ちを抑え、平静に努めて玄関を上がった。
後ろから鍵を閉める音が耳に届き、清十郎の弾んだ声が追ってくる。
「……はい。今晩はガーリック風味のトマトソースで鶏肉を煮込んでみました。他にもサラダ、スープ、パンも焼いてみましたよ」
「パンも焼いたのか? いつも凝ってるけど、今日は凄いな」
テーブルの上には取り皿と箸が用意されていて、キッチンに立つ清十郎の背に声を掛ける
と、店レベルの料理を両手に満面の笑みで振り返った。
清十郎の手料理に舌鼓を打ち、テーブルの上に空の皿が揃うと両手を合わせる。
「ご馳走様でした。……食いすぎた」
「気に入って頂けて嬉しいです」
限界だと思ったところ固めのプリンという最高のデザートまで出てきてしまい、我慢できずに全て綺麗に平らげていた。
腹は今にもはち切れそうだったけれど、至福この上ない気分だ。
だがきっと体重増加は否めない。次の健康診断が脳裏に浮かび、筋トレでもするかとぼんやり考えたところで、珈琲の良い香りが鼻孔を擽る。
至れり尽くせりとはまさにこのことだ。
「なんか、……いつもありがとうな」
どちらかと言えば、尽くすことの方が多かった元恋人との時間を思い返す。湯気の立つ琥珀色をゆったりとした気分で眺めていると、自然と口から突いて出ていた。
「いえ。私がやりたくてやっている事ですから。……それよりも、新にご報告したいことがございます」
「……えっ⁉ 何?」
口に含んだ珈琲を慌てて飲み込み、清十郎へと顔を向ける。
清十郎はどこか得意げに見え、告白じみた言葉を思い出すと、内心穏やかではいられない。 思考を巡らせ、何を言われるのかと想像するけれど、真っ直ぐに見つめてくる清十郎の瞳に気を取られていると、何も浮かんできてはくれなかった。
男女であれば検査薬で陽性が出たとか、そんな話が出そうな場面ではあるけれど、自分も清十郎も男で、そもそもセックスなんてしていない。
ただ胸の内を騒めかせ、鼓動を煩くしながら息を呑むと、やっと清十郎の唇が開いた。
「実は、新のお仕事先のカフェで雇っていただける事になりました」
寝耳に水過ぎて頭の中が真っ白になり、ただ硬直していた。
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