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第9話
我に返ると定まらない視線が左右を往復し、再び清十郎へ戻ると微笑まれる。
「……はっ⁉ なんで? どういうこと⁉」
驚愕が声を大きくさせ、思わず前のめりになっていた。
不思議そうに眼を瞬かせる清十郎との温度差は歴然で、自分が荒野なら清十郎は花畑だ。訊きたいことが脳裏で渋滞し、何から訊こうかと思案していると清十郎が口を開く。
「先日スーパーで買物をしておりましたら、偶然新のご友人の須永さんにお会いしました。そこで須永さんに、新と一緒に住んでいることを確認され、色々お話をした結果、料理が得意ならと、料理係のお仕事を紹介していただきました」
訊きたいことの半分位は聞けた気がするけれど、『色々お話をした結果』の『色々』が何を指しているのかが気になり、胸の内がムズムズし始める。
そもそも須永からは清十郎と会ったなんて話は聞いておらず、何かの勘違いであって欲しいと思った矢先、あることを思い出した。
『職場……愛、か』
――あの時、はっきりとは聞き取れなかったけれど、須永は確かにこう言っていた。
訊き返した時に感じた違和感は、須永が清十郎の件を隠していたからに違いない。
『職場恋愛……、か』と須永が零していたとしたら、清十郎の話との辻褄もばっちり合う。
「あっ、でも、まだ仕事を紹介してもらっただけで、確定ではないんだろ?」
口から突いて出た言葉を言い終わった直後、数分前の清十郎の言葉が脳裏で復唱され、勝手なぬか喜びの反動で真顔になる。
「……いや、雇ってもらったって言ってたよな。聞かなかったことにしてくれ」
自分で思う以上に自分は混乱しているのだと、やっと自覚した。
「やはり、新に相談をしてから決めるべきでしたね……」
清十郎の力ない声が耳に届き、反射的に顔を上げる。肩を落とし睫毛を伏せた清十郎は酷く落ち込んでいるように見え、胸が痛むと同時に奥歯を噛み締めた。
「いや、別に、……、ダメとは言ってないだろ。もっと早く話して欲しかったとは、思うけど。……清十郎がやりたいって思うならやれよ。格好悪いこと言うようだけど、家計も助かるし」
清十郎には笑っていて欲しい。そう思うと同時に、またしても許していた。
須永の言っていた通り、清十郎と進展があれば職場恋愛にもなるだろう。でも、周りに冷やかされるのだけは御免だから、一緒に暮らしていること以外は口外したくない。
「新、ありがとうございます」
「……良いって。それより、家事の分担しないとな。美味い飯に慣れすぎたから、飯だけ清十郎でもいい? 面倒な時はレトルトでも全然いいし」
「はい。食事はお任せください。それと洗濯や掃除は、私もご一緒させてください」
「なんでだよ。それじゃ分担っていわねーだろ」
面倒なことになった。そう思う反面で、嬉しそうに目を細める清十郎を、とても満たされた気持ちで見つめていた。
「では、そういうことでよろしいですね?」
「あー。まぁ、清十郎がそれでいいなら、それでいいよ」
物腰は柔らかいけれど、意外と意思は強いのかもしれない。
結局、家事は分担というよりも、現状維持に自分が手伝いとして加わるような形で落ち着くこととなった。
「新、お風呂が沸いておりますよ」
「あぁ。ありがと」
こんなに良くしてもらって、堕落しそう。そんな風に思いながら、心地よい温度の湯船に顎先まで浸かる。
水面から立ち込める湯気を両手で掬い、乳白色の湯が手首から落ちていくのをただ眺めた。
傷一つない綺麗な手首を見ていると、どうしてだが康介を思い出す。
康介のネクタイで両腕を縛り上げられ、不自由な状態でのセックスは、――凄く、良かった。
その時のことを思い出すと項がゾクゾクと粟立ち、視線が下腹部へと注がれる。
「康介、どうしてんだろ」
こんな気持ちになるのは、きっと最近は誰ともしていないからだ。
無理矢理に視線を天井へと向け、溜息を吐く。両腕を伸ばすと、波打つ水面がちゃぷちゃぷと耳触りの良い音を鳴らした。
一呼吸の沈黙で浴室のドアへと視線が流れていき、ドアの向こう側の様子を窺う。
清十郎がタオルを持って来るかもしれない。そんな風に思うと生唾を呑んでしまうけれど、ここで冷静な自分が意見をしてくる。
――一緒に働くことになったのに、そんな軽率なことしていいのか? 清十郎が口滑らせたら、転職だぞ。
至極真っ当な意見には血の気が引くようで、湯船に浸かっているというのに身震いが出た。
「そういえば、清十郎はいつから働き始めるんだ?」
肝心なことを聞き忘れたことに今更気が付くと眉間には皺が刻まれ、ゆっくり浸かっていたい気分もすっかり消えていた。
半乾きの髪でダイニングに戻ると、眉根を寄せた清十郎が寄ってきて椅子に座らされた。丁寧な口調で『待て』を告げられ、おとなしく待っているとドライヤーを手にした清十郎が背後に立つ。
「新、髪が傷んでしまいますよ」
「あー、寝るまでには乾くかなって」
「面倒なのでしたら、私をお呼びください」
清十郎のシフトが気になって仕方なかったとも言えず、曖昧に笑うとおとなしく椅子に座っていることにした。
髪に触れる指先と、頭を撫でるように掠める指先の感触。優しい指先はとても心地よく、気づけば脱力していて目も虚ろになっていた。ドライヤーの音が消えると猫背になっていた背筋を伸ばし、清十郎を見上げると満足そうな横顔が視界に映る。
本当に面倒見が良いよな。そんな風に思いながらも、口角が僅かに緩んでしまう。恐らく洗面所にドライヤーを片付けに行った清十郎を待ち、戻ってきたのを見計らって顔の緩みを整えると声を掛けた。
「聞き忘れてたけど、清十郎の初出勤はいつからなんだ?」
「はい。シフトは新と同じでと希望を出しましたところ了承していただけましたので、明日……」
「えっ⁉ マジで⁉」
「はい。よろしくお願いいたします」
「ぉ、おう。……こちらこそ、よろしく」
口を挟むつもりなんてなかったけれど、驚愕のあまり口から突いて出ていた。清十郎は特に 意に介している風でもなく、柔和に微笑むと軽く会釈をしてきた。
急すぎる。心の準備を一切させる気のないスケジュールに、鼓動が速くなり息を呑む。テーブルに置いていた手は無意識に組まれていて、それを凝視していると、すぐ近くで小さな物音が耳に届いた。
「麦茶です」
「ぁ。ありがと」
テーブルに置かれていたグラスを見て音の正体を察し、グラスに手を伸ばしたところで清十郎が風呂に入ると言ってダイニングを出て行く。
急に静かになった室内は妙な心細さを感じさせ、清十郎が出て行った先のドアを、目で追う
ことを止められなかった。
「新、おはようございます。そろそろ起きていただかないと遅れてしまいますよ」
「…、ん、嫌だ、…眠ぃ」
清十郎の低くて柔らかい声が降ってきて、カーテンを開ける音が部屋に響く。
日差しから逃れたくて布団を頭から被ろうとしたけれど、一足早かった清十郎に奪い取られ、観念するしかなかった。
昨夜はなかなか寝付くことが叶わず、熟睡できた気もしない。理由は言わずもがな清十郎のことで、自分の知らないところで清十郎が須永とオーナーと接触していたことだ。
口数の少ないオーナーは、きっと大丈夫。だが、問題なのは噂話大好きな須永だ。仮に須永が清十郎から何か聞いたとして、他のスタッフに話すことはないだろうけれど、確実に自分は揶揄われるだろう。
「……絶対、嫌だ」
ベッドの縁に座りながら溜息交じりに不意に呟いてしまうと、清十郎の困惑気味の声が降ってきた。
「新、どうかされましたか?」
「別に、どうしもしない」
反射的に虚勢が口から突いて出てしまうけれど、見上げた先の清十郎はどう見でも納得したようには見えなかった。
「清十郎が、須永とオーナーと、どんなこと話したのか気になって、……あんま、眠れなかった」
普段なら言わないような弱音にも似た言葉がすぐに出てきたのは、半分寝ぼけていたからだろうか。
「なるほど、そうでしたか。昨夜、もっと詳しくお話していれば良かったですね。新、申し訳ありません。ですが、ご安心ください。以前に新の秘密は厳守するとお話ししました通り、余計なことは一切口外しておりません。……須永さんには新との関係を聞かれましたが、同居させて頂いている友人だとお答えいたしました」
清十郎が『同居』と答えたという質問の意図は引っかかるところだけれど、一先ずほっとした。安堵からの笑みを0零すと、清十郎も目を細めて笑みを返してくれる。
「いや、俺も訊けばよかったよな。あと、俺も清十郎が元燕だってことは言わねーから。オーナーも須永も良い人だけど、……かと言って、すんなり信じるかっていうと別の話になるだろうし」
「かしこまりました。私も素性は伏せておこうと存じます。少し、ややこしいとは自覚しておりますので」
口裏を合わせることになったのは素直に嬉しいし、安心感から気分も上がる。ただ、清十郎が自身の素性をややこしいと自覚していたことは少しだけ意外で、顔を見上げると困惑気味な笑みを返された。
そのことについて深掘りしたい気持ちはあったけれど、時間は待ってはくれない。
「それでは、新。お召し物のお着替えを。私は火の元、窓の鍵を見て参ります」
「あぁ、うん。わかった。すぐ着替える」
清十郎に急かされたのもあり、ティーシャツを勢いよく脱ぐと、背を向けていたと思っていた清十郎と目が合った。
ドアは半分開いているから、何か言おうとして振り返ったのかもしれない。
清十郎の喉が確かに上下して、僅かに視線を上げると頬が赤みを帯びていた。
そんな顔で見つめられて、息を呑まずにはいられない。微量のグレアが感じられる視線に鼓動が逸り始め、露わになっている乳首が擽られているみたいにムズムズしてきたかと思うと、硬く尖っていた。
清十郎の視線が僅かに下がったのを見届けると、途端に顔が熱くなる。
どうしよう。見られてるだけで、――立ってる。鼓動を煩くしながらそんな風に思ってしまうと、顔を合わせている余裕なんてどこにもなかった。
「……キッチンで、お待ちしております」
両手首を覆っている脱ぎかけのティーシャツをただ凝視していたところに、僅かに緊張を滲ませた清十郎の声が耳に届く。
何を伝えたかったわけでもないけれど、薄く唇を開いたままで顔を上げる。けれど、視界に映ったのは、ゆっくりと閉まるドアだけだった。
甘く気まずい雰囲気を体験後の着替えは、思うように進んではくれない。
敏感な部分を布が僅かに掠めるだけで、ソコへと手が伸びそうになる衝動に駆られる。その度 に深呼吸と、萎える想像を無理矢理脳裏に敷き詰め、なんとか堪えた。
「きっつ……」
震える溜息と共に、弱音が溢れる。
自室から出て顔を合わせた瞬間だけは身体の奥底に残る微熱と、僅かな居心地の悪さを感じたけれど、そこは大人同士だ。
曖昧に笑い、中身がどこにもない会話を交わしながら部屋を出て、いつもの道を歩き始める。
否応なしに耳に入ってくる環境音が煩いどころか心地よく、気分を和らげてくれるようで好きになりそうだった。
時間経過と共に不自然な沈黙も徐々に減ってきて、話の調子も普段通りに戻り始める。
そして、清十郎の敬語にふと『これで友人と言えるのか?』と、疑問をもてる程には余裕が出来てきた。
「なぁ、俺らって、同居してる友人ってことになってるんだよな?」
「はい、その通りです」
「だとすると、清十郎のその喋り方、全然友達同士っぽくないよな。……変えれる?」
言った直後に無茶ぶりだと思ったけれど、心の準備が出来ていなかったのは今日の自分も同じだ。だから、清十郎にも出来るだけで良いから頑張ってもらいたい。
それに、清十郎の言葉使いがこのままだと十中八九、須永がにやけ顔を披露してくるはずで、普通に腹も立つから回避したかった。
眉間に皺を刻む清十郎は、考え中が見て取れる。急かしたくはなかったけれど、勤務先である喫茶店が次の曲がり角の先にあり、「どう?」と小首を傾げて見せると、清十郎が戸惑いがちに唇を開いた。
「変えることは可能だと存じますが、具体的にはどのような口調にしたらよろしいでしょうか?」
「あぁ、そうだよな」
清十郎の眉間に緩く皺が刻まれていた理由が理解でき、自分の言葉の足りなさに思わず苦笑してしまう。
「んー。じゃあ、清十郎が真似できそうな喋り方って、例えば誰?」
家で一人の時はテレビを観ているらしい清十郎に期待を込めて訊いてみたけれど、その返答には口元が緩みそうになる。
「新です。新以上に興味惹かれる存在はおりませんので、真似できるとしたら、新かと存じます」
「そ、そうかよ……。でも、二人で同じ喋り方してたら、不自然だよな」
熱くなる顔を隠したくて手で口元を覆い、清十郎から顔を背けながら言うと、清十郎が微か
に笑う気配がした。
「では、新にだけ、新風の喋り方はいかがですか? 新以外の方には、今までと同じで良いかと存じます」
清十郎に向き直ると、柔和な笑顔はあれど笑っていた様子は窺い知れなかった。小首を傾げられてしまうと、曖昧に笑う以外の方法が思い浮かばず乾いた笑いが零れる。
「……そうだな。じゃ、そんな感じで。店も見えてきたし、今から俺に対しての敬語は禁止な」
目と鼻の先にある店を視線で示してみせる。いつも飄々とした清十郎ではあるけれど、さすがに少しは緊張でもしているんじゃないかと横目で窺うと、余裕綽々の笑みが待っていた。
「あぁ、任せてくれ」
「……っ‼」
清十郎の低い声が胸に響き渡り、普段とのギャップに目を見開いていた。
「新、どうかしたか?」
「ぁ、いや……、どうも、しない」
顔を覗き込まれると喉の渇きを感じ、睫毛の震えが抑えられない。視線を上げられず、清十郎の唇を見つめながらやっと口を開くと、形の良い唇が弧を描く。
「心配するな。新の秘密は私が守ってやる」
「うん、……、頼りにしてる」
加護を得た。そんな感覚で胸の内が熱くなると、自然と眉根が下がってくる。抑えている自分の性であるサブが今にも顔を出してしまいそうで、唇を強く噛み締めた。
――失敗したかもしれない。
口調が違うだけで、こんなにもときめきを覚えるとは思わなかった。
不安が先立ち、後からついてくる清十郎の見えぬところで、大きな溜息を吐いた。
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