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第10話

 清十郎を店の裏手に案内し、従業員通用口のドアを開ける。 「お疲れ様でーす」  腹が痛いと逃げてしまいたいところだったけれど、そんなことが出来るわけもなく平静を装い中へと入った。  事務所には水分補給中の須永がいて、丁度ペットボトルをテーブルに置いたところで視線がぶつかる。須永の瞳が左右にゆっくりと流れ、気まずい空気がその場に澱み始めた。 「須永さん、おはようございます。本日からよろしくお願いいたします」 「……‼ 燕谷さん、おはようごさいます。こちらこそよろしくお願いしますね」  沈黙を吹き飛ばしたのは清十郎の挨拶で、それに接客顔の須永が続いた。  ――さすが須永、白々しい。  須永に対しての思いが視線に出ると、それに気付いた須永の片眉が下がる。 「おはよう須永。清十郎から聞いてるよ。オーナーに口利いてくれたんだって?」  形だけの笑顔を作って須永を見据え、にじり寄ると力強く手首を掴む。後退する須永のスニーカーが視界の端で止まると、観念したように笑いながら口を開いた。 「ぁ、うん。……、ばったり会って、声掛けてみたら専業主婦やってるって言うから」 「清十郎が専業主婦って言ったのかよ?」 「それは、言ってないけど……、でも、新の為に家事がやれて嬉しいとか、新の帰宅時間が待ち遠しいとか言ってたよ。あと、ずっと触っていたい位、髪がサラサラだとか」 「須永っ‼ お前、清十郎と何話したんだよ。余計なこと言ってねーだろうな⁉ ……、清十郎も微笑んでないで、こいつになんか言ってやってくれよ!」  無意識に小声になってはいたけれど、狭くて静かな事務所内では、須永と自分だけの会話で成り立っているとは到底思えない。出入口ドアの前で静かに立っている清十郎へと顔を向け、微笑ましく見守っている風な姿に思わず声を大きくすると、清十郎は小さく頷き、ふっと微笑んだ。 「新の赤くなった顔、凄く可愛い。……須永さんも、そう思いませんか?」 「そっ、そういう――」  無邪気な清十郎の笑顔に開いた口が塞がらず、自覚せざる得ない程の熱が、頭のてっぺんから爪先までを一瞬にして支配する。  清十郎。そういう事を言えって意味じゃない……。そんな風に思う反面で、清十郎に話を振ってしまった自分のミスを痛感する。  視界の端で小刻みに震えている須永へと、言葉も出てこないままで顔を向けると、想像通りだった。 「可愛い……。俺も、俺もそう思います!」  声と肩を震わせて懸命に笑いを堪えている風な須永の顔もまた赤面していて、全てが面倒に感じ始めると口元が引きつってくる。  苦笑いを浮かべるしかない自分と、ただ穏やかに微笑んでいる清十郎、嗚咽を漏らすみたいに笑いを堪えている須永。何とも例え難い空気でその場に立ち尽くしていると、ホールへと繋がっているドアが勢いよく開いた。 「燕谷さん、おはようございます。いやー、本当に嬉しい。燕谷さんがキッチンに入ってくれればお客さんも喜ぶし、俺も休める。この年になると好きでやってる事とはいえ辛くてね……。あぁ、すみません。では燕谷さん、店内とキッチンを案内しますね。……篠崎君もありがとう、感謝してるよ」  満面の笑みを浮かべて早口で喋るオーナーを目の当たりにしたのは、恐らく初めてだ。須永も同じことを感じたのか、僅かに目を見開いていた。  よっぽど休みが欲しかったんだな。そんな風に思うと、オーナーの下がった目尻に光るものが見えた気がしてしんみりとする。顔の火照りも徐々に治まりをみせ、視線で行ってくると伝えてくる清十郎に小さく頷いて見せると見送った。  ドアが閉まり、須永と二人きりになった事務所に再び静けさが訪れる。 「……新」 「何も言うな。聞くな」  質問攻めなんてされたくない。そんな思いから須永の声を遮り、溜息交じりに拒絶を口にした。 「そんなに嫌―?」 「当たり前だろ。真っ赤な顔して笑いやがって」  小首を傾げた須永の目が、僅かに笑っているように見えてしまうのは自意識過剰だろうか。無意識に落ちた視線を上げ、吐き捨てるように言って須永を見遣ると、目が合った須永が苦笑いを浮かべながら頷いた。 「わかった。ごめんね、怒らないでよ。とりあえず、今日の事は誰にも言わない」 「マジで余計なこと言うなよ。恨むからな」 「大丈夫だってー。俺は新と燕谷さんのこと応援してるんだよ?」  温度差を感じずにはいられない須永の返答には重々しい溜息が零れたけれど、こうなってしまったのも全て自分のせいだ。  清十郎の口調よりも注意しないといけない部分に、どうして気付かなかったのだろう。  苛立ちを隠せない溜息を吐き、『凄く可愛い』そう言われた時を思い出すと妙に喉の渇きを感じて、テーブルにあったペットボトルを奪うように取ると一気に飲み干した。 「あっ、それ俺の」 「……うるせー。仕事するぞ」 「燕谷さんに言いつけちゃおうかな」 「あぁ、くっそ……」  口が堅い事だけは評価するけれど、仲が良い分遠慮がない。須永にだけは知られたくなかったと思う一方で、消去法でいったら須永が無難だとも思える。複雑な心境に吐いた息が僅かに震え、ドアノブに触れながら開き直るしかない、と自分に言い聞かせた。 「いらっしゃいませ」  営業用の顔で挨拶をして、ショーケース前のテイクアウト客をさばいていく。爽やかな笑顔を振りまく須永は、テーブルに注文を取りに行っていた。  今日も女性客だらけだ。そんな風に思いながら接客の合間に店内へと視線を巡らせ、常連客の会計にレジへと向かうと機嫌よさそうな声が飛んできた。 「篠崎さん、ご馳走様でしたぁ。今日も美味しかったです」 「良かったです。いつもありがとうございます」 「ところで、あの、キッチンに新しい人入ったんですかー?」 「……あぁ、入りましたよ」  視線の先にはキッチンでオーナーと和やかな雰囲気で話している清十郎がいて、早速話題となった清十郎の容姿に自然と口元が綻ぶ。レシートを受け取る常連客も自分と同じように口元を緩ませていて、見た目の良さだけで笑顔を誘う清十郎の偉大さに感嘆の声が漏れそうな程だった。  白いコックコートと、焦げ茶色のロングエプロンもよく似合っている。物腰が柔らかく、人当たりも良い清十郎だから、きっとオーナーとも上手くやっていけるはずだ。  ショーケースにケーキを並べながら清十郎が良い具合に馴染んでいる未来を想像し、胸の内が温かくなった――、なると当たり前に思っていたけれど、なぜだか落ち着かない。  作った笑顔で事務的に接客をこなしながら、清十郎の声に聞き耳を立てる。  客の視線が清十郎に向けられる度に、清十郎が自分以外に向けた楽しそうな笑い声が耳に入る度に、こめかみに青筋が浮かぶ思いだった。  ざわざわと煩い胸の内を深呼吸で抑え込み、笑顔で唇の内側を噛み締める。眉間に皺を刻んでしまいそうな感情を何度も振り払い、それが何なのか認めざるを得なくなった頃、背後から声を掛けられてハッとした。 「篠崎さん、お疲れ様ですー。今日からキッチンの燕谷さん、モデルみたいですね。高身長羨ましい……。あっ、オーナーから聞いたんですけど、篠崎さんの友達なんですか?」 「……、おう、お疲れ。あぁ、少し抜けてるとこあるけど良い奴だから、よろしくな」 「はいっ! こちらこそよろしくお願いしたいです! それにしても、この店のイケメン度凄いですよね。また口コミでお客さん増えそう」  黒髪が清楚な印象を与えるこの男子は学生アルバイトで、身長が百七十センチ未満だと嘆いていた記憶がある。けれど、この店に求人以外で入った数少ない学生アルバイトで、見た目は余裕で並み以上だ。  俺好のみじゃないけどな。そんな事を思いながらも口に出せるわけはなく、客がショーケースに近づいてくると雑談は終了する。  客と話している学生アルバイトの横顔を眺め、いつの間にか気分が落ち着いていたことに気が付くと短く息を吐き出した。  ショーケースの後方にあるキッチンを視界の端に捉え、清十郎が見えるまでさり気なく視線を巡らせる。  コックコートにロングエプロンを身に着けた清十郎の姿は新鮮で、それなのにとても様になっていた。  本当に、なんでも着こなすよな。そんな風に思った傍から鼓動が跳ねてしまい、平静を保とうと密かに大きく息を吸う。  けれど、スパチュラとボールを持った清十郎がホール側に向けて極上の笑顔を振りまいた途端、引っ込んでいた感情が滝のように溢れはじめる。  ちょっとした黄色い歓声が耳に入ると口元がピクピクと痙攣をはじめ、手にしていたダスターをきつく握り絞めていた。 「あれ、オーナーが仕事の一環として頼んだみたいだよ。うちって店員が売りなとこもあるけど、よく思いつくよね」  須永に話しかけられると肩が跳ねてしまい、「大丈夫?」と言いたそうな顔を向けられて肩を叩かれる。  油断し過ぎていたせいで言葉が出ず、自分がどんな顔をしていたのかと不安になり、曖昧な笑いを返すことしか出来なかった。  ――俺は、こんな奴だったか?  独占欲が強いとは自覚していたけれど、抑えられると自負していた。康介が他の誰と会っていても我慢出来ていたのに、清十郎が自分以外に愛想を振りまくことが許せない。  目の前で起きていることと、それ以外の差なのかもしれないけれど、同居人である清十郎に対する想いの度を越えている。  清十郎と康介、どちらが好きなのかと訊かれたら即答できる自信もない。  けれど、不意に清十郎と目が合う度に、胸が締め付けられるような苦しさと、耐え難い苛立ちを感じていた。 「生クリームを絞るという体験を初めていたしましたが、あれは簡単そうに見えて難しいですね。オーナーの熟練の技には目を見張るものがありました」 「んー? でも、オーナーは清十郎の事を随分と褒めてたぞ。手先が器用で覚えも早いって」  職場ではあれだけヤキモキしていたのに、清十郎と二人きりになった途端、胸の内を占めていたモヤモヤはすっかり消えていた。  少しだけ雲がかかる夜空の下を、清十郎と横並びで歩いて帰路を目指す。  職場では極力気持ちを殺し、清十郎は仕事をしているだけだと自分に言い聞かせた。清十郎が褒められると自分の事以上に嬉しく感じるし、清十郎が笑っていると安心するのも事実なのに、複雑過ぎる。  独り占めしたいわけではないけれど、自分だけを見ていて欲しい。清十郎のパフェ作り初体験話に相槌を打ちながらも、頭の片隅では矛盾を感じる自分勝手な願望が浮かんでいた。  自宅のあるアパートが見えてくると、弾んでいた会話が途切れる。何を思うわけでもなく鍵を漁ろうとポケットに手を突っ込むと、清十郎がぽつりと呟いた。 「あの……、新は今日、私に対して怒っていらっしゃいませんでしたか?」  反射的に目が泳ぎ、質問に動揺するあまり地面に部屋の鍵を落としていた。 「はぁ? どういう意味?」  笑い飛ばしてやろうと出た声が僅かに上擦ってしまい、それを誤魔化そうとしゃがみ込んで鍵を拾う。階段を昇る度に鼓動の速度が上がるようで、鍵を持つ手に薄らと汗が滲んでいた。  怒っていたというよりはただの幼稚なヤキモチで、それを説明する事も正直抵抗がある。けれど、それ以上に動揺を誘うのは、清十郎にそんな自分を見られていたからだ。 「私と目が合っても、私が見えていないような素振りを何度かされてましたので」 「そう、だったか……?」 「はい。私がお客様に笑顔を向けるという仕事をした辺りから、新のお顔が沈んだように見えました。不快な思いをさせてこんな事を思うのは不躾かと存じますが、……私はそれを嬉しく思い、期待してしまいました」  穏やかな口調ではっきりと言った清十郎に思わず息を呑んでしまい、横目で窺うように見遣ると、気遣うようにも照れ臭そうにも見える笑みを向けられる。  全てを見透かされている。そんな思いから反射的に顔を背けてしまうと、鍵を握っていた手に清十郎の手指が重ねられ、ゆっくりとこじ開けられると鍵の感触が消えた。 「期待したって、なんだよ」  清十郎の靴の踵を凝視しながら呟くと、鍵の開く音がして清十郎の気配が揺れる。腰に清十郎の手指が触れ、ドアの中へと促されるままに足を進めた。 「言葉通りです。新が私の振る舞いに嫉妬して下さったのではないかと、期待しました」  ドアが静かに閉まると同時に、清十郎の甘く囁くような声が鼓膜を揺らし、息苦しさを覚えるほどに鼓動が跳ね上がる。 「……少しだけ、嫌だった、かも」  図星をつかれたくせに、またしても要らぬ虚勢が口を突いて出ていた。  とんでもなく嫌だったくせに。そんな風に思ったけれど、清十郎にはこの一言で十分だったのだと、前髪を揺らす清十郎の熱い息遣いが言外に示している。  そしてその直後、所謂壁ドンをされていて、視界の左右に清十郎の腕が移り込み、僅かに視線を上げた先には、形の良い唇が弧を描いていた。 「では、少しだけなら、許していただけますか?」 「え……?」  顔を上げた瞬間に蕩けてしまいそうなグレアが全身を駆け巡り、視界が濡れる。  肩で息をして、喉を上下させると、清十郎が徐に顔を近づけてきた。唇まであと数ミリを思わせる唇は、触れてはくれない。頬を撫でる熱い息遣いに睫毛を震わせると、清十郎に低く囁かれた。 「セーフワードは、康介でいかがですか?」

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