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第8話

須藤 優鷹。年は32歳。大きいとは言えない会社でとても優秀な社員として働いている。血液型は分からない。好きな物も分からないが、いつもいい香りのする珈琲を飲んでいる。そんなことくらいしか彼を知らない。視線の合わない彼を、自分はいつも目で追っている。声を掛けることも後を追うことも出来ない。見かける度、通り過ぎる度、見つめることしかできない。どうしていいか分らないまま、日々が残酷に過ぎていく。 須藤さんはもう、自分を見てはくれない。当たり前のことだ。自分で彼の腕を振りほどいたのに、許してもらえる筈がない。自分で大切な繋がりを棒に振ったのだから。今更。そう思われていることだろう。自分でそう仕向けたというのに、嫌われてしまったことにこんなにも自分の芯柱がバラバラと引き千切れて、苦しくて吐きそうだ。ごめんねと言わせたあの日、須藤さんはどんな気持ちだったのだろう。自分のような矮小な存在のせいで、傷付けてしまったかもしれない。どうして、怖くなんてない、と伝えられなかったのだろう。どうして、ありがとうと一言口に出来なかったのだろう。どうして自分はこんなに愚かなんだろう。どうして、今になってこんなにも恋しいのだろう。取り戻せなんてしないものを追い求めて、なぜ上手く出来ないのか。一体どうしたら、惨めな自分から抜け出せるのか。ぐるぐるぐるぐる、また耳の奥がいつまでも騒がしくなる。耳を塞いでも頭を押さえても、寝ても朝を迎えてもおさまらない。楽なはずの静寂な孤高の毎日のはずだったのに、周りに誰もいないはずなのに騒がしい。ポツンと自分自身しかいなくても、耳の奥はざわついている。怒号に蔑みに殴る音、何かが割れる音。嘲笑の声。遠い遠い先に、彼の優しい声。柔らかで楽しそうな、須藤さんの笑い声。 視線は嚙み合わないまま、自分の前を他の社員と談笑しながら須藤さんは通り過ぎていく。やってはいけない。これは悪い事だ。とても、悪い事。誰かに頼ってはいけない。自分を律しなければならない。分かっているのに。分かっているのに。 なのに自分は、過ぎ去っていく須藤 優鷹のスーツのジャケットの裾を掴んでしまう。グン、と後ろに引っ張られて驚く彼の顔を見上げることは出来なかった。

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