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■ジェラシー

 ある日、朝食を片付けて、出勤までに天気予報を確認しようとリモコンを取った時。イブキはチハルからこんな話を聞かされた。  近々上流階級が会合する立食パーティが開かれるので、一緒に出席してほしいとのこと。お嬢様学校時代の同級生もいくらか集まるゆえ、婚約者として紹介したいらしいのだ。 「あなたに会いたいって言い出す子がやけに多くてね。悪いけど付き合ってもらうわ。異論は認めないわよ」 「パーティか……。行くのは構わないけど、専用のフォーマルなスタイルの服は持ってないや。何曜日だって?」 「今度の日曜よ。私も新しいドレスがほしいから、前日に買いに行きましょ」 「……うん」  持っていない事を口実に断る事は難しいみたいだ。ぎこちなく笑うイブキの本心は、あまり乗り気ではなかった。区別したいわけではないが、住む世界の異なる人達の集まりはどうしたって独特の空気感や緊張感がある。会社の集まりでさえ周囲の視線をかき分けて前に出るのは苦手なのに、上流階級の中に放り込まれるだなんて、居た堪れなくなるに決まっている。その辺、チハルにはオブラートに包んで吐露した事はあったが、生まれた時から白鳥の彼女には、アヒルの苦悩はイマイチ伝わっていないもよう。直に慣れるでしょう、というのが決まり文句だ。  彼女の隣りに並ぶに相応しい男になるためには、避けて通れぬ道だよなぁ……。イブキは感情を押し殺して、スマホの内蔵カレンダーに「パーティ」と、覚悟の印を刻み込んだ。  しかし、身を切る思いで出陣した社交場で待ち受けていたのは、やはりイブキの想像通りであった。行き交う人々がチラリと盗み見るのは、煌びやかなドレスに包まれ、優雅にカーペットの上を進み行く白鳥一点のみ。オーラのないアヒルには「何で横にあんな奴が」みたいな厳しい視線を浴びせてくる。  ……とはいえ、それは日常でも見られた光景であり、今更な事。現実はもっと非情だった。 「え? チハル、あなたの婚約者って」  チハルの友人の一人が、包み隠さずこんな事を言ってきた。イブキとチハルは揃って度肝を抜かれる。 「そっち……って?」先の一言で何となく察したが、すぐに撤回はせずにチハルはうながす。 「いつだったか、カフェであなたを見かけたの。確かそこの人(イブキ)と、びっくりするぐらいのイケメン男性と一緒だったわよね? 婚約者がいるって聞いた時、てっきりそっちの殿方だと思っていたのにぃ。残念だわぁ……」 「そうそう。私もモカの話を聞いて、ちょっと気合いを入れておめかししたのよ。ワンチャンないかしらーってね! きゃはっ!」 「チハルったら、妥協しすぎ! どれだけのスペックか知らないけど、あんたならもうちょい贅沢出来たでしょう? 偽善活動でもしてんの?」  友人三人の話を耳にして、イブキは緊張で火照っていた体が急速に冷たくなるのを感じた。失礼かどうかよりも先に、確かに二人の方がお似合いかも、なんて考えてしまったのだ。今日何度目かの愛想笑いも、今はうまく出来ているか自信がない。  雑音が自分の中でどんどん遠くなっていく。当のチハルは何か言っているようだったが、イブキには聞こえなかった。身の丈に合わない場所で佇むばかりのこの状況に、イライラが募ってくるようになる。  気持ち悪い……。友人達が振りまくどぎつい香水に酔ったせいもあってか、気分を悪くしたイブキはついに逃げ出す決心をした。片付けなければならない仕事があったのだと適当に嘘をつき、チハルを残して帰る事に。彼女は同窓会のような雰囲気に呑まれていて、イブキの異変には気付いていないらしい。「そう。帰りは遅くなると思うから、先に休んでてていいわよ」と、それだけ残して友人達と休憩室へ向かって行った。 (チハルとアイさんか……。きっと誰しもが振り返るような美男美女カップルになるんだろうな……)  上着を脱ぎ、外の空気を吸って少し楽になったイブキは、タクシーに揺られている間、ありもしない事ばかり考えていた。自分の彼女の事を信用していないわけではないし、日頃から愛情もひしひしと感じている。ただ、弱った心がなぜか自分を追い詰めようとしてくるのだ。 (アイさんにもしその気があったら、チハルはどういう反応を見せるんだろう。僕の事を優先してくれる? それとも乗り換えちゃう? 恋人同士だからってすっかり気が緩んでいたけど、アイさんだって分類上は男なわけだし……――嫌だなぁ、何でこんな事考えちゃうんだ)  良くしてくれてる人に疑問を抱くなんて。相当疲れているらしい。イブキは降車地からとぼとぼと帰宅すると、スタンドの明かりだけつけてベッドに身を投げた。スマホを開くと、浮かび上がった時刻はまだ9時になったばかり。就寝には早い時間だ。  ぐうぅ、きゅるるぅ。 「あー……、そう言えば、全然料理に手を付けてなかった。勿体ない事を――いや……、あの場で何か口にしても、吐き気を助長させるだけだな。リバースなんてしたら、彼氏どころか人間としても終わってたよ。でも……うう、ローストビーフとかケーキとか、美味しそうだったなぁ。今からコンビニ行くのメンドクサイよぅ……」  冷蔵庫に食材があっても、料理スキルなんてゼロだ。一人暮らしの時もスーパーの総菜やパックご飯などの出来合いで済ませていた。  つまみの残り物とかないかな……。赤子のように泣きじゃくる腹を抱えて、イブキはキッチンを物色しようと思い立つ。  その時、インターホンの音が室内に鳴り響いた。こ、この音はもしや、空腹に喘ぐ男を憐れんでの福音だろうか……!? 疲弊しきったイブキはガバっとベッドから起き上がると、期待に胸を膨らませて玄関に直行した。 「かっ、神様、仏様、アイ様あああああ~~~っ!! 周りがどれだけ冷たくあしらおうとも、アイ様だけは僕を見放さなかったああああっ! お肉おいしーよぅっ! 感激だぁっ!!」  アイの訪問から数十分後、イブキはキッチンを借りて作られた即席のカットステーキに舌鼓を打っていた。手間のかかるローストビーフではないものの、イブキが今一番食べたいと望んでいた、贅沢な肉料理を出してくれた。 「流石に大げさではないか? あまり見ないはっちゃけっぷりだな」アイは苦笑しながら、レンジで温めたパックご飯を茶碗に盛りつけ、食卓に並べる。 「はうう、ご飯まで……! うううう、自炊できないし出かける気力も無かったしで、もうどうしたらいいか分からなかったんですぅ~~! はあぁ~幸せ~~!」  お行儀に気を配る相手はこの場にいないので、カトラリーではなく箸で肉を口に放り込む。火加減と塩コショウの塩梅が絶妙だ。  ガツガツと思いっきり堪能しているイブキの姿を、一仕事終えたアイは満足げに見つめている。テーブル向かいのチハルの席に腰かけると、自身も自分用に作った料理に手を付け始めた。 「それにしても……はむ。外出する事は事前に話していたのに、どうして僕が部屋にいる事が分かったんです?」 「なに、買い出しの帰りにたまたまお前の姿を見かけてな。一人で、しかもひどく疲れ果てたような足取りだったのが気になったんだ。一体お前の身に何があったんだ? 格好からして、パーティには出席したのだろう。なぜチハルは一緒でないんだ?」 「そ、れは……」  あなたに妬いてしまったんです、なんて言えるはずもなく。イブキは手を止めて俯いた。御馳走を並べられて一時的にどうでもよくなっていたが、同じ男として劣っていると感じているのは今も変わらない。頼りになるし、明るくて優しくて、料理も出来る。こんなふうに辛い時に寄り添ってくれる人に……お隣同士、いつまでも良好な関係を築けていけたら、と思うような人に、醜い感情をぶつけたくはなかった。 「こ、香水の香りが充満する会場に酔っちゃって、帰ってきちゃいました」イブキは差し障りの無い原因の一部を話して、無理やり明るく取り繕った。「チハルと添い遂げるなら、ああいう世界にも慣れなくちゃいけないのに、彼女を置いて飛び出しちゃうなんて、僕ってばホントにダメな奴ですよね。情けない限りですよ、あはは」  自分を貶すような言葉はスルスル出て来る。自分で自分を傷つけて笑い者にしようとした。  だが、向かいのアイは傷だらけの帰還兵をあざける真似はしなかった。ただただ、真剣な眼差しを向けて、一言。 「そうか、頑張ったんだな」 「!」  心から憂うような温かい言葉が、真っ直ぐイブキの胸に突き刺さった。文脈的には何気なく零したとも考えられなくはない。が、今のイブキにはすべてを見透かした上で気遣っている物言いに聞こえたのだ。  ……まずい、涙出そう。イブキは目を閉じて、感情が溢れ出そうになるのをこらえた。

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