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  「――いや、『仕方ないなあ~』じゃねーだろ。 何寝ぼけてんだよ、このアホんだら」 「うん?」  久し振りに高校時代の友達同士で集まろうというメールが届き、イブキは友達の一人が経営する居酒屋で飲み会をしていた。店主の溝口(みぞぐち)が魚をさばいている前で、イブキ、一ノ瀬(いちのせ)早川(はやかわ)がカウンター席に座り、順番に身の上話をする。  イブキが卒業後のシンデレラストーリーを語ると、一同最初はあれやこれやとぶー垂れていた。が、アイの登場により一変。気まずそうに溝口と早川が顔を見合わせる中、バシッと言ったのは一ノ瀬だった。  イブキははて?と、はてなマークを頭上に飛ばす。 「僕、何か気に障る事言った?」 「ちっげーよ! お前、明らかにおかしい状況なの分かってねえのか!? どー考えても婚約者、に気があるじゃねえか!!」 「って~。確かに超人めいた美男だけど、アイさんはれっきとした人間だよぉ~」 「おまっ、ぜってー違う漢字当てはめただろ!」こういう時のイブキはボケではなく素であると、一ノ瀬はよく知っていた。「浮気だよ浮気! 他の男に白昼堂々ベタベタするのを片割れがボケーっと眺めてる状況ってのが、ちと概念からズレてるが、とにかく危機的状況だっていうのは理解しやがれ!!」 「ええ~? 二人が仲良くしてるのはいい事だと思ってたんだけど。アイさんもちゃんとストップかけてるよ。それってつまり、一定の線引きは出来る常識人って事で、それ以上の進展は有り得ないって事にならない?」 「うっせーぞ掃除夫! これから妻になるって奴が、仕事とか収入とか、お前と比べて品定めしてる時点でもうフラグ立ってんだよ! てか、『掃除夫』ってランク格下げの最低な発言がポロっと出ちまうところがもう何ていうか……あ"ーーー……っ!」  その後、せっかくの飲み会は今すぐ帰れと一点張りの一ノ瀬によって、イブキだけ先に帰らされる結末となった。食事代や飲み代がおごりとなったのはいいが、もうちょっと彼らと楽しく過ごしたかったな……と、イブキは残念に思う。  とはいえ、イブキが留守の間に何かあってからでは遅いと案じての命令だという事は、しっかりと伝わっていた。後日、改めて予定を擦り合わせようと考えつつ、イブキは電車の切符を購入した。  ――一時間後。一ノ瀬の忠告は正しかったのだと、イブキは思い知る事となった。  まず、マンションの全体が見える場所から、イブキとチハルの暮らす1005号室のリビングが明るい事、そして隣りの1006号室が暗い事に気が付いた。家主が就寝、または不在という事である。  ぽつり、ぽつりと小さな雨粒がスマホの画面に落ちていく中、表示された時刻は8時19分。アイは夜型だから、この時間帯に床に就く事はそうない。なので寝ているかもしれない、という推測はほぼ消滅。  いつものように、イブキ達の部屋に遊びに来ているという線も普通に有り得た。だが、ここに今更ながら一ノ瀬の叱責とチハルの行動の異常性が結び付いて来て、エレベーターに運ばれている間、気が気でなかった。  ――今だけ瞬間移動が使えたらいいのに。早く……早く、確認したい。  ――大丈夫……だよね? 「思ったより帰るの早かったね」って、二人はこれまで通り温かく迎え入れてくれるよね?  エレベーターが目的地に着くと、イブキは早々と廊下を歩いた。部屋のドアの真ん前に立つと、一瞬入るのを躊躇いはしたが、ノブを握った手指に光る婚約指輪に背中を押されて、覚悟を決めた。 「た……、い、ま……」  人生でこんなにも弱々しく「ただいま」を発した事はない。  そして、「おかえり」と言ってもらえなかった経験も。  リビングに辿り着いたイブキ。そこで目にしたのは、ソファで抱き合う男女の姿だった。 「あ……ああ……っ!」  一歩後退して、ガツンッと後頭部や背中を激しくドアに打ち付ける。だが、痛みなどに気を取られている余裕などなかった。こちらに背を向けてひざ掛けにもたれているチハルと、背もたれに片手をついて組み敷くアイ。最中ではないが、アイの胸元のシャツが大きく開かれていて、まさにこれから何かしようとしていた――そんなふうにイブキの目には映っていた。  次の瞬間、大きな音に気付いたアイと、イブキの悲しんだ視線がかち合う。アイはカッと目を見開いた。 「イブキ、違う!」背もたれを強く握りしめて、すぐさま距離を取り出す。「誤解だ! テーブルの足に少しつまずいて、こうなってしまったんだ!」 「え? イブキ?」ソファのせいで身動きが取りづらい体制のせいか、遅れてチハルも振り返る。「やだ、思ったより帰るの早かったわね」 「何を悠長な事を言っているんだチハル! どう見ても勘違いされて当然の状況なのだから、お前も一緒にフォローしろ!」 「で、でも、ホントに何もいかがわしい事なんてしてないし……むしろ、堂々としてればよくない?」 「いいわけあるか! 嫁入り前だというのをいい加減自覚しろ!」  呆れかえった様子で𠮟り付けるアイと、ご機嫌斜めなチハル。このお兄ちゃんと妹の兄妹ゲンカのような光景に、イブキはだんだん硬直が解けていった。服が乱れているのはもつれ合った末のようにも見えるし、雰囲気的にも示し合わせた感じではない。チハルが見栄で嘘をつこうとすれば、イブキ目線からでももっと分かりやすいし、アイはアイで間違った事はすぐに認める質だ。 「ご、ごめん。僕の早とちりだったみたいだ。ちょっと嫌な想像しちゃったけど、違うって分かったから。だから二人共、ケンカしないで」  イブキは落としてしまったカバンを拾い上げると、チハルとイブキの寝室がある部屋へ向かっていった。イブキが帰って来た以上、秘密裏にやらかす事はないだろう……なんて理性的な考えがあったわけではない。彼の中にはまだ受けたショックが癒えていなくて、一刻も早くその場から立ち去りたい気分だったのだ。それほどまでにリビングで見た光景は、嫌な予感を全部濃縮して具現化させたようなシーンであった。  逃げてきちゃってよかったのかな……と、ベッドに全身を預けながら考え込む。が、やがて本当にそれ以上の進展はないと安堵する事になる。心配したアイがイブキについて来てくれたのだ。 「入るぞ」ノックをして、返事を待つ前に突入する。「イブキ、余計な気を遣わせてしまってすまなかった。ペアの男側がいない時に訪問するのは、流石にまずかったな」 「アイ……さん」イブキは少し安らいだ表情を浮かべ、ベッドから起き上がった。「いえ……、ちょっといろいろ思うところがあって、大げさに反応しちゃっただけなんです」  こちらこそすみませんでした、と、体を相手に向けて静かに頭を下げる。アイは物憂げな表情を張り付けたままだ。  締め切ったドアを軽く一瞥すると、「思うところとは?」と、イブキの隣りに座ってきた。 「うえ? 別に大した事では……」話を広げられたくないところを突っ込まれて、動揺し始めるイブキ。 「いい。全部でなくても構わないから、抱えている事を話せ。きっと楽になる」 「んん……」  少し迷ったが、根も葉もない事でも受け止めてくれる気がして、イブキはぽつりぽつりと打ち明け始めた。男として劣等感を抱いていた事や、友達に指摘された恋人の変化、そして疑心暗鬼に揺らいでしまう、己の心の狭さへの自嘲……。玄関の開く音がくぐもって聞こえ、チハルがコンビニにでも出かけたのだろうと予測し、完全に二人きりになったのだと分かると、抑えていた心のダムは決壊していった。 「僕、ずっと三人で仲良くしていきたいと思ってるんです。それなのに、自分の中に渦巻く卑しさのせいで、悪い方に考えちゃうのを止められなくて……」 「バカだな、そんなのは誰しもが持っている感情じゃないか。むしろ、深く考えるのをやめてしまったら、底抜けで危うい善人か、人間味のないロボットみたいな奴が出来てしまうぞ。仕事においても、ある程度の慎重さは大事だろう。――まあ、確かに考えすぎの域ではあるがな。いいかイブキ、ここできちんと意思表示をしておくぞ。『ボクとチハルの間には何もない』」 「……はい」優しい瞳を向けるアイに、濡れた目尻を拭って返事する。 「頭の中で復唱するといい。『ボクはお前の事を大切に思っている』」 「ボクは、お前の事を大切に思っている……」 「『なぜなら、一目惚れしてしまったから。お前に』」 「なぜなら、ひとめぼれ……え?」  いきなり恋に関するワードが出てきて、驚いたイブキは顔を上げた。その瞬間、いたずらが成功したような、恥ずかし気な表情と真っ向からぶつかって、イブキは心臓をドキリとさせる。  元々顔立ちが中世的であるせいか、はにかんで耳に髪をかけるアイが、一瞬だけ恋する乙女のように見えてしまった。励まそうとしてからかったとか、勢いで変な事をぼやいたとか、そういうふうにはちょっと見えない。 「あ……、ああああの、ぼくにはかのじょが……っ!」ふにゃふにゃな声で、イブキは体をそらす。 「分かっている。なに、少し可愛いと思っただけだ。キスしたいとか、××××したいとかはまあ、考えた事はあるが……」  あるんかい! ……え、マジで? 「いいな、その表情。ひどくしおらしいのもそそるが、そんなふうにテンパった顔で取り乱している姿もぞくぞくしてくる」  あ、マジだこれ。 「あ、頭の整理が追いつかない……っ! ええ、どういう事? チハルじゃなくて僕? 男ですよ? 男が男を? そんな事ある? アイさんは実は女性でしたってオチですか?」 「正真正銘男だ。ほら、確認してみろ。証拠は目の前にある」  そう言うとアイは長い髪をかき上げて、喉仏がチラつく首筋や胸元のシャツのボタンを空け、引き締まった胸や腹部などの証拠を次々と提示し始めた。それらを、「うわあああっ!」とイブキは慌ててベッドに倒れ込み、顔面を枕で覆い隠す事でやり過ごす。眼界に広がるすべてが奇跡のように整っていて艶めかしく、恥ずかしさのボルテージが上昇してしまったのだ。男相手に、女の裸体でも目撃してしまったような反応をしてしまうだなんて、情けないのやら……仕方がないのやら。 (な、何考えてるんだよ! 僕にはチハルがいるだろう! チハルの事を考えろ! チハルチハルチハルーーーっ!) 「――ふっ。まあ、イブキがチハルを一番に考えているのは言わずもがな理解しているつもりだ。二人の仲を引き裂こうとは思っていない。ボクは、恋人になっても変わらずピュアであり続けるイブキもまた、好きなのだからな」  抜き身の刃のように光った目をまぶたのさやに納めると、開けたシャツのボタンを一つずつ留めていくアイ。イブキが恐る恐る枕から顔を覗かせると、彼は自身のスマホを操作をしていて、ついっと指を滑らせた。 「この、検索にかかった本の紹介ページ。イブキのメールにURLを添付して送っておくから、気が向いた時に読んでくれると嬉しい」 「これって……?」緑色の空をバックに少年二人と少女のシルエットが描かれた、爽やかな青春ものっぽい表紙がピックアップされた画面を見せられて、イブキは寝そべったままアイを仰ぐ。 「ボクの処女作。序章の十ページ分だけ無料で読める。……イブキがあり得ないと決めつけていたのが引っかかってな。こういう世界をエンタメにしたものもあると、触りだけでもとどめてもらえると助かる」  スマホをポケットにしまうと、退散する雰囲気を醸してベッドから立ち上がったアイ。が、ふと何か思い出したように静止すると、ベッドに沈んでいるイブキに上から被さるようにして詰め寄り、 「あいつは金や名誉の事ばかり気にかけていたからな。これは二人だけの秘密だ」 「!!」  耳の奥まで声が届く位置で囁いて、去って行く。イブキは真っ赤に燃え上がった顔で、そろりと人気のなくなったドアを見つめた。  ――その後、風呂場から上がった頃に、友人代表として一ノ瀬から着信が届いていたのに気付いたイブキ。別れてから何の連絡もしていなかった事に、今更ながら申し訳なく思った。  ……平常心を保てる気力がない。ショックに打ちのめされた事……は、勘違いだったし、薄れてきているのだが、アイからの衝撃の告白が浮かんでくると、体がカッと熱くなってのぼせてしまいそう。友人らも、間男認定した奴から熱烈なアプローチをかけられただなんて夢にも思うまい。  迷ったイブキは、電話でなくメール上で「全然問題なかったよ」と返事した。

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