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■サプライズ計画
――あの日起こった出来事は、もつれた末の事故として終息したはず……だった。
だが、確実に二人の関係に溝を作る原因となってしまった――
あれから一週間、イブキとチハルの間に流れる空気は妙にぎくしゃくとしていた。会社で顔を合わせる時は普通に事務的な会話が出来たが、甘い男女間を匂わせるような広がりはない。
プライベートだとそれが顕著に表れており、ケンカしているわけでもないのにケンカしているような気まずい雰囲気が漂っていた。恐らく、二人の中でまだ「恋人にショックを与えてしまった加害者」、「信用しきれなかった被害者」として、尾を引いているのだろう。
「チハル、脱いだものはきちんと洗濯カゴに入れようね。綺麗なコートにしわがつくのは嫌じゃない?」
「分かってるわよ。今見てるドラマがCMに入ったらやろうと思っていたの。イブキは気にせず部屋で仕事してて」
「分かった」
二人で喜ぶ事も、驚いたり失敗して困る事も、少しずつなくなってきている。引き金となったアイは今、謹慎処分と自ら称して仕事に打ち込んでいる様子。物分かりがいいのは結構だが、二人がこの状態では、むしろカンフル剤として間に割って入ってくれていた方が好都合だったのかもしれない。
「何か、修復するきっかけになるような行動をしなくちゃな……。どこかに出かける? 長期間の休みを取る暇はないから近場になっちゃうけど、目新しさはないよな。雨天続きなせいか、チハルもだるいだるいって愚痴を零してるし……」
ウィズミーランドの新アトラクションの話題がテレビで流れていた際も、「あ、ここいいかも!」と一瞬思ったのだが、チハルの「並ぶの面倒くさそー」、「あんな安っぽいぬいぐるみにお金出すの? 庶民ねぇ」、「叫んでるひどい顔を写真に撮られるなんて、冗談じゃないわ」という冷めた口調によって、選択肢から消去してしまった。仕事関係の憂さ晴らしを兼ねているのだと思われるが、あの様子では、他のアミューズメント施設でも楽しんでもらえるかどうか。
「うぐう、チハルのちょっと嫌なところに目が行くようになっちゃってる……。これが夫婦円満への試練か。でもそうなると、出かける以外で喜ばせられる事ってなんだ?」
共通の寝室で一人ベラベラしゃべりまくるのは、ばったり会った時に気まずいので、イブキは風呂場でぼそぼそとつぶやきながら思考と湯に浸った。ジャバッとお湯を顔面にかけて、練り直す。
「うーん、プレゼントはどうだろう? 婚約指輪並みのサプライズ感が望ましいけど、チハルが今欲しがってるものっていうと……美容器具じゃないか……」
喜びはするだろうが、どちらかといえば二人の関係を取り持つものがいいだろう。ペットはもうチハルの実家で二匹の大型犬が飼われているので十分。となると?
「こど、も……っ」
口にした瞬間、ぎゃーっとなってバシャバシャかき消すように湯をかけまくった。半年ちょっと前まで彼女いない歴=年齢だったので、ハードルが高すぎると思った。個人的にはもうちょっと段階を踏みたい……が、彼女はおこちゃまっぽい精神が残っているイブキと違って、完全にレディだ。彼女の両親も跡取りを欲しているはずなので、いずれにせよそろそろ本気で考えなくてはならないだろう。
「おっ、落ち着け僕……! いきなり子供を作ろうなんて申し出たって、ドン引きされるに決まってる! もうちょっとこう、円滑に進めるようなきっかけ作りを考えないと……!」
いつまでも長湯していると不審がられそうなので、イブキは湯船から上がり、バスタオルで体を拭く。自身のさほど筋肉のない、スマートよりはガリに近い体つきに注目すると、どんどん自信がなくなってきた。
一人で解決出来そうにないし、友達に相談してみようかな。寝巻に着替え、イブキは充電していたスマホを手に取った。
電源をオンにする。と、メールが一通届いている事に気が付いた。
(通信会社からの案内メールかな……あれ? アイさんからだ)
『最近調子はどうだ? あれから一週間、新たな悩みが増えているんじゃないかと心配になったから、イブキと少し会って話がしたい。場所は〇〇町にある喫茶店で。日にちや時間の指定は任せる』
(おおう、すごいグッドタイミング! そうだな。アイさんの方が一部始終を知ってるし、相談者としてうってつけかも!)
イブキはスケジュールを確認して、早速次の日の土曜日に約束を取り付ける事にした。
メールを新規作成しようとした時、連鎖するように以前貰っていたアイからの受信メールの存在を思い出す。
(あー……っはは、本の紹介されてた事、すっかり忘れてた)
翌日、約束通り〇〇町の喫茶店の隅の席に、アイは一人で待ちぼうけを食らっていた。目立ちやすい相貌を隠すため、黒の帽子にまとめた長髪を隠し、身なりも落ち着いた色合いで揃えている。チハルの友人の噂の種になってしまったのを反省して、有名人のお忍びのようなスタイルにしてきたのだ。
それでも、近くまで寄ると滲み出るものがあるらしい。座席の硬い背にもたれかかり、自然な動作で足を組み替えると、コーヒーのおかわりを持ってきた女性店員が硬直したのが見られた。
アイはふうっと溜め息を漏らして、腕時計を確認。約束の時間からもう二時間近くは経っている。「今液(えき)、もうちょっと待てて管才(ください)」なんて暗号文一歩手前のメッセージは受け取っているので、マンションは出ているのだろうと推測する。
(時間を厳守するイブキにしては珍しいな。どういう理由で遅れたんだ?)
1 アラームをかけ忘れて寝坊。
2 チハルが起こしてくれなかった。
3 道中困っていた老人、あるいは外国人を助けていた。
4 シンプルに乗る電車を間違えた。
胸ポケットからボールペンを取り出して、喫茶店のナプキンに思い浮かんだ遅刻理由をサラサラとつづる。イブキがどんな思いでここへ向かっているのかを考えると、答え合わせの瞬間が楽しみになった。
そうして更に待つこと十分。まだ何も始まっていないというのに、ひどく疲れ切った様子のイブキが現れた。待ちくたびれて帰っていたらどうしよう、なんて考えているのが丸見えな困り顔をして、店内を見渡している。
吹き出しそうになるのをこらえながらアイがスッと手を上げると、イブキは安堵が入り混じった笑顔をほとばしらせて、掛け寄って来た。
「ハァッ、ハァッ、大遅刻かましてすみませんっ! 寝落ちして目が覚めたら一人で、一時間遅れでマンションを出たら、いつの間にか外国語を話す老夫婦の応対をする事になって、観光地行きのバス停まで二人を案内していたんです! そこまで地形に詳しくないから間違った駅に着いちゃうし、ああもう本当に僕って奴は――」
「ぐふっ! ぷははははっ!」
「!?」
憤慨するどころか、腹を抱えて大笑いし出すアイの姿が目の前に。イブキは状況が掴めず、怒りが一周回っておかしくなってしまったのかと思ってしまった。
クリームソーダと朝食代わりのクラブハウスサンドを注文し、お互い人心地つくと、アイはまずイブキの寝落ち理由を聞きたがった。これが別の、例えばチハルが相手であったならさっさと本題を促すのだが、今か今かと待ち続けたのだから、その分だけ長く過ごしたいと考えた。アイには話を聞くだけの資格があるし、第一イブキが寝坊するだなんて。気になるじゃないか。
寝落ちだから、ほぼそれで理由は述べているようなもの。大した時間稼ぎにはならないと踏んでいたが、アイの想像以上にイブキは興奮して食いついた。
「そうだ、アイさんの書いた小説読みましたよ! 『明日 の君 へ』、通称が……『あすきみ』でしたっけ? 無料分がすごく続きが気になるようなところで終わっちゃってて、思わず電子書籍版を購入しちゃったんです!」
「……え」
アイは思考を停止した。
「小学生編と中・高編と現代編、全部読破しましたよ! これまで恋愛ものは映画くらいで、小説の分野では未開拓だったんですけど、心理状態の変化が丁寧で、時間を忘れるくらい夢中になっちゃって――」
「ま、待て待て! まさか、ずっと読んでいたのはボクの小説だったのか!?」
「はい! ――ほら、このクリームソーダ! 待ち合わせ場所が喫茶店って聞いていたから、今日絶対注文しようって決めていて」
「あ……ああ、試験勉強中の秘密デートか……」
アイはグラスに半分ほど入った水を口にする。彼に止める気がないので、イブキはしばらく一読者としての感想を喋った。
話題の核となる『明日の君へ』――それは幼馴染同士の三角関係を描いた青春ドラマだった。家が近く、子供時代に遊び友達であった少年大空 と大地 に、美海 という少女が一人。成長していくうちに大地と美海が男女として意識するようになるのだが、一方で大空は性別の壁に阻まれて、援助に徹するしかない。そんな悩める少年が主人公であった。
なぜ美海の方に気持ちが向かないのか。それなら、自身だって戦場に立つチャンスがあったのに。ライバルとしての仲を深められたのに。思い人の優しさやちょっとした仕草、男同士だから開放的になっている役得な場面に心が揺れ、理性とは裏腹に、気持ちは大きく膨らんでいくばかり。
結婚式当日。大空は友人スピーチを頼まれていたが、二人の前に現れる事は無かった。その時にはもう行方が知れなくなっていた。大地は大空の実家へ赴き、鍵付きの小箱を発見。思い出の鍵を使って開けると、日記帳とタイトルの一文から始まる、結婚式に出す予定だった祝福の手紙が封入されており、ようやく大空の想いを自覚して崩れ落ちる――『明日の君へ』とは、そんな切ない結末の物語だ。
身近に本当に主人公達が存在しているような、第三者のエスパーとして人生を覗き見ているような描写に、甘くて、胸が苦しくなって、画面の中に飛び込んでエールを届けたいのに、決して叶わない事にイブキは悶えた。
チハルが風呂場から出た後は、場所をソファに移して続行。読後、イブキはしばらく放心状態で眠れなかったという。ビターエンドなのもよくなかった。頭がぐるぐると考えるのをやめられずに朝を迎えて、チハルが外出する時刻にようやく糸が切れたそうだ。
「生の感想を聞けるとは、冥利に尽きるな。こちらとしては、考え方やどう物事を見ているかを暴露するようなものだから、顔見知りに見せるのは極力避けていたのだが……イブキに受け入れられて良かった。読んでくれて感謝する」
「こちらこそです。あと……この間は否定するような失礼な事を言ってすみませんでした。きっと主人公のような人達は世界中にいて、折り合いを見付けようと戦っているのに、僕は異性同志が結ばれるのが当然だなんて、勝手に決めつけてて……」
「思い詰めなくていい。ボクは疑問を投げかけるために書いたわけではない。正直、連載向けに受けを狙った部分もあるからな」
「あんなに細かく心の機微を書いているんですから、完全なるフィクションというわけでもないのでしょう? きっと人生観が変わっちゃうような素敵な人がいたんでしょうね――って、これは下衆の勘繰りか。推し量るような真似しちゃってすみません。何でもないです」
たはは……と微笑みながら、イブキはクリームソーダをゴクゴク。アイは減っていく翡翠色に光る液体を静観しながら、頭の中で大空と大地が試験勉強をするワンシーンと重ね合わせた。
「イブキ、サイン……しようか?」
「サイン? ああ、作家さんが執筆本にちゃちゃっと書く、あれですか?」ストローから口を離した後、イブキは何か書けるものがないか、右往左往して止まる。「あー……、電子版だから無理か。アイさんの本、書店に売ってますかね? 手元にも残したいですし、後で買って来るので、その時にでもいいですか?」
「今、書きたい。後に回したら、その時には気分が失せているかもな」アイは頬杖をついて、グラスのふちを指でなぞる。
「なら、手帳でいいですか? この真っ新なページとか」
イブキは革の手帳を広げて差し出した。するとアイはなぜだか席から立ち上がり、イブキの隣りに座って来た。
抱きすくめるように腕が絡んできて、「あ、アイさん!?」と緊張が走る。アイは黙したまま油性ペンのキャップを咥えて開けて、イブキの右手を拘束し、サラサラと何かを書く。
アイが元の席へ戻ると同時に手のひらを確認すると、そこには相合傘のマークが描かれていた。イブキの『i』と、アイの『i』で挟んでいる。わざわざ大文字の『I』にしていないところが、人間の頭と胴体っぽく記号化していて、より傘を差しているふうに見えてくる。
刹那、イブキの脳裏に『明日の君へ』のワンシーンが流れ込んできた。大空が勉強する大地を目の前に、気持ちが抑えられなくなった末、クリームソーダ入りのグラスの表面にこっそりと相合傘を書き込んだのだ。誰かに見られてもいいように、『大』空の『D』と、『大』地の『D』を挟んで。
「さ、サインってこれの事ですか……!?」イブキはカーッと熱くなる。
「ああ、ファンサービスとしてはピッタリだと思わないか?」
相手の慌てふためく様を面白がってニヤニヤするアイ。イブキは右手をぎゅっと握りしめると、「つ、冷たい物飲んじゃったんで、ちょっとトイレに行ってきます!」と、言うが早いか、その場から退散していった。
アイは笑った。扉の閉まる音がすると、うっすら涙が滲んだ目尻をこすって、机の上に力なく項垂れる。
「なぜ……んだ」
ぽつりと呟き、伏せた腕から面を上げると、目前の、氷塊だけが入ったガラスのコップの表面に触れる。冷やされた事で発生した水滴が、つうーっと真っ直ぐ表面をつたって、滴り落ちた。
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