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「アイさん、今回は料理の特訓に付き合ってくださってありがとうございました! おかげさまで最高のサプライズプレゼントが贈れそうです!」  帰り支度を整えたイブキは、元気に一礼した。アイは腕組みをして微笑む。 「本番は一人でも出来そうか?」 「はい!」 「もう一度言うが、分からない事があれば気軽にメールでも何でもしてこい。うまくいったかどうかの報告も聞かせてくれ」 「はい! 本当に、何から何まで親身になってくださって、感謝の気持ちが絶えません。機会があれば、また料理を教えてくださいね!」 「……」  アイに返って来る言葉に迷いはない。イブキはもう一度頭を下げると、キッチンテーブルにまとめておいたレジ袋やハーブ瓶などの荷物を取りに向かった。  すると、 「――チハルのどこに惹かれているのか、聞いてもいいか?」 「!」  突然イブキは右腕を掴まれた。思いがけない熱に振り返ると、迷いの影を纏ったアイがそこにいた。  現在の時刻はもう夕方。部屋に明かりの類が点いていないせいか、落ち始めている日の影響によって、その揺れ動く瞳は一層儚く見えた。  イブキは言葉の意味をじっくり考えて、唇を開く。 「――春が、訪れたと思ったんです」 「春……?」  アイが一歩歩み寄ると、イブキは静かに頷いた。 「初めは身の丈に合わないって、きっとうまくいかないだろうって思っていたんです。チハルは会社でも高根の花みたいな存在で、仕事は出来るし、おしゃれで男群からの評判もいい。なので僕は、他人のふりを……いや、もっと冷たかったかな。顔を合わせてもちょっと会釈するくらいだったり、話しかけられてもさっさと切り上げたりして、随分とそっけない態度を取ってしまいました」 「……」 「でも、彼女はずっと真剣だった。突き刺さる攻撃的な視線にもめげずに話しかけてくれたり、ランチに誘ってくれたり、不安な時も何度もはげましてもらいました。そんな健気で人懐っこい彼女に、どんどん焦がれていったんです。僕も彼女を支えていこう。結婚して夫婦になって、二人で幸せな未来を築いていこうって、そう思ったんです」  打ち明けるうちにどんどん思いが膨らんでいき、気付けばチハル自身に向けているつもりで話していた。反対に、アイは変わらず暗い表情。思いの強さを確かめるつもりで聞いた身でありながら、彼の右手はイブキの腕に繋がれたままであった。 「アイさんは? どうして恋人がいると分かっていても尚、僕を思い続けてくれるんですか?」  イブキは振りほどかずに向かい合った。叶わないと理解してしているはずなのに、プレゼントの相談や料理の特訓に付き合って背中を押すだなんて、本心ではきっと辛くて堪らないはず。一緒にいる中で、薄々感じるような場面があって、イブキはその気持ちを無下にしたくなかった。 「そういうところだよな」  アイはイブキの右手を引いて、手のひらをなぞった。 「昨日ボクがサインした跡……ハートと名前のところが、まだほんの少しだけ残っている。とっくに消えていてもおかしくないのに、なぜだろうと不思議に思っていたんだが、キッチンで手を洗う時の妙なぎこちなさで腑に落ちた」 「これは……き、気付いていたんですね」 「お前は本当に心の綺麗な奴だよ。――引き留めて悪かったな。存分に腕を振るってこい」  迷いが解かれたアイは、優しい目をするようになっていた。イブキの頭を撫でた後、背中をポンと押して身を引く。イブキは三度目の礼を深々とすると、部屋を去って行った。  ――午後6:30分  帰宅したイブキは玄関の明かりをつけ、靴を脱ぎながら、「ただいまー!」と明るく言い放った。レジ袋の中で食材などが騒ぎ立てる音が気になり、慎重に運ぼうと努めるものの、「早く料理を作ってあっと驚かせたい!」という気持ちから、声色を例に頭が回っていない様子。  リビングへのドアを開けて、もう一度「ただいま」を言うイブキ。しかし、返事は返って来ない。リビングは人気がない事を突き付けるように暗闇に包まれており、カーテン越しの外部の明かりだけがチカチカと瞬いていた。  どうやらチハルはどこかに出かけたらしい。玄関に戻ると、お出かけ用の靴がない事に気付く。書置きか何か残されていないかと探してみるも、見つけられたのはテーブルの上にぽつんと置かれたイブキのメッセージだけだった。  ――午後6:51分  ソファに座ってチラチラとテレビ画面に記された時刻を確認しながら、「そろそろ食事の支度を始めようかな」、「いや、7時くらいまで待とうかな?」と、落ち着かない様子のイブキがいた。メールは送っているが、返事は返ってきていない。  ――午後8:22分 「しまった! つい寝てしまった!」と、イブキはソファから飛び起きた。つけっぱなしのテレビの時刻を確認して青ざめると、ずっと握っていたリモコンを放り投げたり、立ち上がろうとしてテーブルに膝を打ち付けて痛がったりと、ものすごく焦る……が、徐々になぜこの時間まで起きれなかったのか理解してくると、イブキは冷静に騒ぎ立てた後始末が出来るようになった。  腹が空いた。  ――午後9:13分  風呂から上がると、イブキはまずスマホを手にした。相変わらずメールの返信はない。電話が吐くのはコール音のみ。何かチハルの身に起こったんじゃないかとも思ったが、ラインの既読文字がそれを否定した。  だが、それだけでははっきりした安否確認にはならない。何とか連絡を取りたくて、思いつく限りの手段を試そうと試みる。ついにはチハルの実家にまで電話口で頼ったが、「珍しい事ではないから、その内ひょっこり帰って来るだろう」と、意外と楽観的だった。  腹が空いた……。  ――午後10:44分  チハルのSNSページが更新。楽しそうにシャンパングラスを掲げている写真を見ながら、サラダチキンを齧った。コーンの缶詰を掻っ込んで、パックのスープを胃に流し込む。  腹は空かなくなった。  ――午前04:44分  酒の空き缶が転がる中、イブキは重い腰を上げると、誰かに電話をかけ始めた。散らかった部屋を捨て、隣りの部屋に転がり込むと、出迎えてくれた人にすがりついた。  いろんな感情が止めどなく溢れ出した。情けなくてどうしようもない醜い姿を全部晒したが、彼は黙って背中をさすって、受け入れてくれる。落ち着いてきた頃には温かい食事も出してくれた。  ああ、美味しい。  イブキはようやく、好きな人とディナーを楽しめるようになった。

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