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「イブキ」
「んん……」
二口目を飲もうとした瞬間、イブキは背後からすっぽりと抱きすくめられた。単に甘えられただけではない。イブキの肩に顎をのせ、片腕は胸下に、もう片方は腹に回して、絡みつくほどに密着している。
「ちょぉっ……、酔ってるんですか? じゃれつかないでくださいよ~」
まだ飲み会は始まったばかり。酔っていない事は分かっている。
アイは怪しく笑い、イブキのうなじ辺りに顔をうずめた。
「イブキ」
「み、耳元で囁かないでください」
「別に嫌じゃないんだろう? 嫌ならもっと拒絶するはずだしな、くく」
「勘弁してくださいって……」
アイはイブキの相談相手であるため、チハルとの関係が崩壊寸前である事を把握している。なのでこれ幸いとばかりに、隙あらばベタベタくっついてくるようになった。料理を作っている際の待ち時間に抱きしめてきたり、室内で映画鑑賞をしている時に太腿を撫でてきたり、更にはゴミ出しの時にも指を絡ませたりしてくるので、若干困っている。
こちらも好きで冷たくあしらっているわけではないのに、分かってやっているのが質が悪い……。イブキが振り払う動きをすると、アイの腕は簡単に解かれた。
だが、今回は少ししつこかった。イブキがソファに腰を下ろした直後、アイが正面から膝をついて覆いかぶさってきたのだ。
拒否する者と味わおうとする者とで体と体がこすれ合い、背中に回された手がシャツの中を通ってかき乱してくると、手の熱と、服がめくれた際に素肌に当たるソファの無機質な冷たさで、ぞくぞくと震えた。
「ちょっ、やっ、やめてください! 僕はまだ婚約期間中なんですよ!? 正式に別れたわけじゃないんです! やめてくださいってば!」
口では抗議しながらも、肌が露わになった首筋を舐められると、「くうっ!」と心の声が漏れ出てしまう。
分かってる! 分かってる! 彼はそれ以上の事はしない! 分かってる!
少しの間辛抱するだけだ! しばらく味わったら、きっと解放してくれる!
官能的な勢いに呑み込まれぬよう、イブキは歯を食いしばった。しかし、頬を喉元ごと大きな手でがっしり押さえつけられ、髪を乱して蹂躙に溺れているアイの瞳に本気の色が見えると、イブキは両手を突き出して強制終了を投げかけた。
「ダメですって!」イブキはぎゅっと目を瞑って顔を逸らした。「今、婚約破棄について動いている最中なんですから、そういう事はしないでください……」
悲鳴じみた声を上げ、きらりと光る婚約指輪を見せつけると、アイの動きはようやく収まった。互いに向き合った状態で、ハァハァとひどく粗ぶった後の呼吸音が、静まり返った室内に響く。
「はは……、ブレーキが壊れかけた」汗だくになったアイは、服の裾をパタパタさせて扇いだ。「頭を冷やしに、軽くシャワーを浴びてくる。お前もどうだ?」
「結構ですよ……。しっかり洗って反省してくださいね。僕は片付けしてますので」
先ほどまでの張りつめた雰囲気とは打って変わって、まるで冗談だったとばかりに二人は笑うようになっていた。言葉通り、アイは風呂場へ。イブキはソファから身を乗り出して、空いた皿やグラスを一か所にまとめる。
風呂場の扉が閉まったのを確認すると、イブキはすっと立ち上がり、ある場所へ直行した。トイレだ。頬を赤く染めたイブキは早々とズボンを下すと、タンクに手を付き、声を漏らさないよう襟ぐりをぐっと口まで引っ張って噛みしめながら、我慢の末に蓄えていたそれを便器に吐き出した。
「うう……、んっ! ――フゥ、フゥ、フゥーーー……」
他人の家でこんなはしたない事をするなんて、信じられない。罪悪感と苦しみからの開放感に打ち震え、涙目になりながら、体の異常事態に答え続けた。
やがて欲の限りを片付け終えると、イブキは疲れた様子でトイレから出てくる。リビングを見渡すと、そこはもぬけの殻。風呂場からはシャワーの水音がかすかに聞こえてくるので、イブキは今ここにいるのは自分だけなのだと分かり、一安心した。
片づけ中の体であるので、ジャーキーの袋をゴミ箱に捨て、ラグにコロコロを掛ける。その時、ふとアイの財布が向かいのソファの上に置いてあるのに目が行った。
(不用心だなぁ。ま、盗る気はないからいいんだけど)
財布がソファの色と同化しているので、気を利かせたイブキは財布をリビングテーブルの端っこに置いてあげた。
(信頼されてる証って思うと嬉しいかもな。―—ああでも、通路の奥にある部屋……あそこだけは立ち入り禁止だって言われてるんだよな……)
イブキは顔を上げ、リビングと繋がる通路を見やる。通路に隣接する部屋は三部屋。イブキとチハルの部屋で言うなら、一つはクローゼット専用、二つ目は寝室、三つ目は仕事部屋になる。うち前者二つはイブキらと同じ用途で使用していると確認済み。だが、三つ目の部屋は未踏のまま。家主の前でうっかり入るふりをしてのぶに手を掛けたりすると、あからさまに嫌そうな顔をしてきてちょっと面白いのだ。
(普通に考えたら仕事部屋として使っていて、作家である手前、シークレットにしたいんだろう。きっと大きな本棚とかあるんだろうな~。どんなデスク使ってるんだろう。 原稿用紙に書いてるのかな? それともパソコン? 愛用している機種は? ――って、全部口頭で済む話だな)
入るなと言われると気になって来るタイプではあるが、会社との信頼も絡んでくるし、興味本位で首を突っ込むのはよろしくない。イブキは興味を引っ込めて大人しくコロコロした。粘着ロールを剥がして捨て、グラス類をキッチンのシンクへ運んでいく。
(……あれ? このコップ、まだ水入ってなかったっけ?)
洗い物をしようとした時、イブキはシンクのそばに置いてあるコップに注目した。
それは先ほどイブキが心を落ち着かせるために口をつけたコップであった。アイの妨害によって飲み干せなかったはずだが、今は一滴もコップの中に残っていない。
まあ、あの時は正直水を飲むどころでなくなってしまったから、思い過ごしだろう。イブキはスポンジに洗剤を含ませて、食器洗いを開始した。
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