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 突然会議室に現れた、眼鏡をかけたスーツ姿の人物に、一瞬誰だか分からなかった。が、室内を突き進んで四人の前に立つと、イブキは目を見開いた。 「アイです。中森さんの援護として参上いたしました」 「アンタ、何でここに!? しかも敵の陣営に付くですって!?」これには思わずチハルも声を張る。 「話し合いがあるという相談は受けていた。争点に挙げられる事は想定済み。ボクもリングに上がらせてもらうぞ」  アイが静かにミーティングチェアに座ると、左からアイ、イブキ、猫嶋の並びとなった。  イブキは猫嶋に、アイが参戦する事を知っていたか、こっそり尋ねる。彼は昨晩のうちに連絡があったと答えた。  イブキはアイにチラッと心配そうな顔を向けた。助けに来てもらったのはありがたいのだが、巻き込んでしまった事を申し訳なく思っているもよう。アイはにっと口の端を上げると、テーブル上に散らばっている情報から状況を見極めて、真剣な顔つきでチハル達に向き合った。 「――中森さんとの関係ですが、それについては単なる相談相手に過ぎません。部屋が隣同士になったのをきっかけに、飲み友達となりました。二人の事は弟や妹のように可愛がっているつもりです」 「不城氏からも概ね伺っております」と虎丸。「まずは〇日土曜日の行動について共有致しましょう。ご覧の映像のように、あなたは10時に部屋を出発。通常見られる服装と異なり、帽子や目立たない色の服装を選んでおり、まるで誰かと密会しようとしているかのようです」 「私と中森さん、不城さんの三人で出かけた際、不城さんの友人に目撃されて、私の方が彼氏であると勘違いされてしまったためです。以後、素のままで出歩く事をなるべく避けるようになりました」 「なるほど、一旦そういう事にしておきましょう。――あなたが出て行った約一時間後、中森氏はひどく慌てた様子で部屋を飛び出しています。不城氏は別件で出ていたという事なので、相手は彼女以外の誰かという事になりますが――」 「まどろっこしいな。お宅は探偵も兼業しているのか?」アイは口調を崩した。「結論から言うと、イブキと合っていた事は認める。だが、それはすべてチハルのためだ。チハルとの仲が少しこじれていると相談を受けたから、ボクは料理を作ってチハルに出したら、最高のサプライズプレゼントになると提案し、積極的にバックアップした。……女装についてのツッコミも用意してあるのだろうが、それも当日までチハルにバレないようにするためだ。だから、ボク自身もやりすぎだと思う程に女装と男装を併用した。――まあ、チハルの身勝手な行いのせいで、無残にもポシャってしまったわけだが」  アイは腕を組み、理路整然とした口調で答える。アイの話を聞いたチハルはハッとした。そういえば、確かにその日の夜、イブキは「スペシャルディナーを用意する」……みたいな事を言っていたような……。 (適当に返事して、昼頃まで眠って、暇だったから遊びに行っちゃったけど……まさか、料理を作ろうとしていたの? 米すら炊けないイブキが? こいつらの間には本当に何もないって言うの!?) 「イブキがボクに料理を習っていたという証拠もあるぞ。仕事部屋にある本棚の裏には料理本が、冷蔵庫にはボクと飲むために作り置きされたつまみのタッパーが隠してある。イブキはもう、米すら炊けないと愚弄されるような奴ではなくなった!」 (くうっ!!)  凛としていたチハルの表情が歪み始める。イブキの方を見やると、肩を持ってくれるアイを真っ直ぐ見つめ、首ったけになっているのは明らかだった。  腹立つっ!!! 「――ふふふ。アイさんったら、随分とイブキにお熱なのね」チハルはニッコリ。「イブキは初めから料理上手だったわよ。公然と印象操作しないでほしいわ」 「ハァ!?」イブキは夢から覚めたように大声を出した。「そんなのでたらめだ! 僕はチハルの前で料理を披露した事なんて、一度もない!」 「な~によ~、毎朝必ずご飯作ってくれたじゃない。でもほら、女の私より男のイブキの方が料理上手なのって、ちょっと格好がつかないじゃない? だから今まで他言しなかったのよ。なのに、今更アイさんのところに習いに行くだなんて、どう考えてもそれ以外の目的があったとしか思えないわよねぇ~?」 「毎朝って、トーストだけじゃないか! 何でそんな酷い嘘をつくんだ!」  チハルの大胆な嘘に、皆唖然とした。イブキの悲痛な訴えから、主観ではあるが、真相を知らない猫嶋、そしてチハル陣営の虎丸でさえも「多分イブキ(こっち)が正しい事言ってるんだろうな……」と同情している。  しかし、チハルの言い分を鵜吞みにして、「イブキは最初から料理めちゃうまスペシャルぽっぴっぽーだった」という事にしてしまえば、アイの証言がまるっと崩壊する。虎丸は「不城氏の発言以外にも、疑わしい点はあります」という切り口で波に乗っかり、ノートPCのパッドを操作する。 「こちらの写真は、道路に設置された防犯カメラ映像を切り取ったものです」  虎丸は写真をクリックしてサイズを大きくする。そこには桜並木の間を歩く女装したイブキと、女装を解いたほぼそのままのアイの姿が映っていた。 (そんな……! 道路の防犯カメラまで、僕達を陥れようとするのか……?)  写真は空しくなるほど綺麗にあの日の出来事を写し取っていて、イブキやアイだとはっきり分かるものや、互いの気恥ずかしげな表情、恋人繋ぎをしている様子まで露わにしていた。 「私、二人が仲睦まじげに歩いているところをたまたま目撃しちゃって、もう何もかもがどうでもよくなっちゃったのよ。婚約者の私を差し置いてデートしていただなんて、本当にショックだったわ。きつく当たり過ぎた事は反省するけど、でも、イブキは私を裏切らないって信じていたのに……。愛していたのにぃ……っ」 「よくもいけしゃあしゃあと! イブキは大事な弟分で、これも……単なる遊びの一環だ!」  悲劇のヒロインぶったチハルに、アイは負けじと噛み付く。しかし、大分苦し紛れの言い分だ。  アイの焦りがイブキにも伝わって来る。が、虎丸の攻撃はまだ終わっていなかった。 「おかしいですね。先ほどから『弟のように』と強調しておられますが――あなた中森氏と"同い年"でしょう」 「同い年だって(ですって)!?」  虎丸の爆弾発言に、イブキとチハルは衝撃を受けた。この事はチハルも初耳らしい。 「……どうやって知りえた」  アイは怖い顔で虎丸を睨む。その表情にイブキは震えた。年長者のように怒って注意する事はあったが、ここまで感情をむき出しにした事はなかった。 「情報筋がある、とだけ」虎丸は冷静に自身の手帳をめくる。「すべては依頼主のため。ですので、あなたの身辺調査も一通りさせていただきましたよ。――冬野大空(とうのそら)、〇〇年〇〇月〇〇日生まれの二十歳男性、四人家族だったが、妹は病で、両親は飲酒運転で事故に遭い、現在は独り身。〇〇県〇〇町の生まれで、高校は海原高等学校――」 (大空? 〇〇町? それに海原高等学校って……) 「本件と関係ありますか? プライバシーの侵害に当たりますよ!」  怒涛の情報量にイブキが考え込む余所で、強い口調で猫嶋が意見する。口を挟むタイミングが遅いが、呆気にとられていたらしい。虎丸は咳払いして手帳を閉じた。 「失敬。ですが、出身校が同じであったという点が肝なのです。どういった思惑の下かは存じませんが、高校三年当時を知る方から、冬野氏が中森氏をやけに気にしていたという話を伺っております。故に、私はその頃から二人、あるいは一方に恋情があったのではないかと睨んでいるのです」 「ぼ、僕は何も知りません!」とイブキ。「同い年だって事も寝耳に水ですし、クラスに『冬野』だなんて名字の人はいなかったと思います。三年生の時はクラス委員をやっていたので、記憶は確かです」  三年生どころか、こんなに綺麗な人は見た事がない。イブキ一人が気が付かなくとも、学校でアイみたいな人がいれば、良い悪い問わずたちまち注目の的だ。変装でも隠し切れない。イブキは一生懸命当時の記憶を掘り起こそうとしたが、やはり該当者は見当たらなかった。  思わぬ接点に、皆の視線は項垂れているアイに集中した。イブキに関しては、もう話し合いそっちのけで深掘りしたい気持ちの方が勝っていた。 「……イブキを気にしていたのは、死んだ妹が――美海が、イブキを好きだったからなんだ」  アイはついに重い口を開いた。 「病弱だった美海が死んでしまった事で、両親は……変わってしまった。女装に際して抵抗がなくなったのはその時の事で……イブキにはありえないと否定されてしまったから、サプライズの他に、意識を変える目的もあって強制させたんだ。恋愛感情はない」  重ね合わせた手を額に当て、アイは心底辛そうに身の上を話した。イブキがぼうっと呆けている横で、猫嶋は「その辺で」とアイを気遣う様子を見せる。  が、この独白は却ってアイを焚きつける事になった。ギロッとした目玉を虎丸やチハルに見せつけ、二人を怯ませる。 「そちらがそこまで都合のいいように事実を捻じ曲げようと画策するのなら、こちらは正面切って、決定的な証拠を出させてもらうぞ」  立ち上がったアイはスーツの内ポケットに手を入れる。イブキと証拠について何も聞かされていない猫嶋は静観する。  アイが取り出したのは、ボイスレコーダー。ダンッ!とテーブルの上に怒りを乗せるようにして提出すると、嫌な予感を察知しているチハル達の前で、再生ボタンを押した。  そこにはアイと、アイを誘惑しているチハルの音声データが入っていた。 『――ねえアイ、どうして私を襲ってくれないの? もうずーっとアピールしているのに、女の私にこんな事言わせないで』 『恋人の不在中に何をふざけた事を言っているんだ、チハル! 悪酔いでもしているのか!?』 『酔ってるですって? うふふ、私は本気よ。今まで何人もの男と付き合って来たけれど、こんなに私に見合った男、他にいないわ。これで私より収入が良ければ最高なんだけれど……ねえ、付き合ってあげるから、うちの会社で働かない?』 『断る。チハルはボクの好みではないし、転職する気は毛頭。何より、イブキを裏切りたくない』 『私よりあいつの方が大事だって言うの? あの意気地なしのちん××野郎が? ……分かった、一発やればいいんでしょう? そうすればバカなあなたも私の魅力に気が付くわよね?』 『! やめろ、ちは――『た……、い、ま……』』  激しくもつれあっている物音に帰宅したイブキの音声が混入したところで、アイはボイスレコーダーを切った。状況からして、イブキとチハルの間に溝が生じた、あの日の夜に交わされた会話である。  イブキは当時の記憶が鮮明に蘇ってきて、青くなった。反対にチハルは怒りと恥ずかしさが入り混じって赤くなっていく。 「何でこんなものがあるのよ! 明らかにおかしいじゃない!」 「チハルの期待にそぐわぬとも、ボクは作家だからな。少しでも現実味のある作品に仕立てるべく、他人の何気ない会話や環境音をこっそり録音する事があるんだ。――あくまで資料としての用途だから、別に違法ではないぞ」 「違う! 私こんな事言ってない! 全部偽物の音声よ! 最近はその界隈の技術も進歩しているし、いくらでも捏造出来るわ!」 「反対に、作られた音声かどうかも足がつくようになっているぞ。――神に誓って断言する。これは〇月〇日午後八時二十六分、イブキが飲み会から帰る直前に録音された、正真正銘お前の声だ!」  ビシッとチハルを指さし、アイは声を張り上げた。ボイスレコーダーの内容は短いながらも、イブキを蔑ろにした浮気の示唆、肉体関係の強要、侮辱、アイの主張の正当性、酔った勢いでもない事、更にイブキの不審な外出があったと言い張る前の出来事だと確定するなど、チハル側の息の根を止めるような証拠のオンパレードである。これにはさすがの虎丸も険しい表情となり、二の句がつげなくなってしまっていた。 「面倒くさ」  水を打ったような静けさの中、チハルがぽつりとつぶやく。 「ハイハイ、もー私の負けでいいわよ、負けで」 「不城氏」 「あーーーあ、盛大に計画が狂っちゃったわ。会社の犬で金もこっち持ちで、仮に派手に遊んでる事がバレたとしても別れるデメリットの方が大きいから、なんやかんや関係を切れずに見過ごしてくれそうだと思ったのに。まっさか、隣に住んでた奴に足元すくわれるなんてね。あ~~~~ついてない!」 「不城氏!」  椅子に全身を預けてふんぞり返るチハルを虎丸は制するが、希望の芽を探っている彼と違って、チハルは完全に投げやりモード。怒りの感情をたぎらせて立ち上がると、イブキに牙を向け始めた。 「大体あんた、恋人としてつまんなすぎるのよ! くっさい加齢臭デブ(父親)に薦められて、最初は顔もまあまあ悪くないし、割と気配りも利くしで丁度いいかな~って思ったのに、いざ交際してみたら、キス一つするにも顔真っ赤っかのチェリー坊やって。デートのレパートリーもありゃしない。寧ろあんたも不倫出来るんだーwwって感心したくらいなのに、料理教室に通ってた? ハァ? 頭ん中お花畑か? あんたマジで私が付き合ってきた中で一番くっだらない男だわ!」 「イブキを……イブキの努力をくだらないだと!? お前、イブキがどんな気持ちで――」  チハルの苛烈な暴言に、アイは怒鳴り返そうとした。……が、それをイブキが止めた。アイはなぜ止めるのか理解出来ず、腕を掴む手を振り払おうとしたが、イブキの弱々しくも必死に制止を訴えかけてくる目を見ると、アイの中で燃え盛っていたものが水をぶっかけたように沈下していった。 「――チハル。僕は君に喜んでほしくて、料理を一生懸命勉強したんだよ」  イブキはぽつぽつと語り出した。 「確かに、至らない部分もあった。チハルは僕と違って、何をするにも堂々としていて、キラキラ輝いていた。そんなチハルが眩しくって、僕が隣にいるのは相応しくないって何度も何度も落ち込んだし、つまらないって一蹴されるのも………………胸が痛いけど、当然だと思う。だけど、僕は真剣に将来を考えていたんだよ。だからアイさんに相談して手料理の案が導き出された後、チハルとのディナーに向けて、大量の野菜をキッチンバサミで切った。ミキサーやオーブンの使い方も学んだ。手が筋肉痛になるくらい練習して、軽い火傷をした事もあったけど、何も作れない、包丁すら扱えない僕がいきなり料理上手になったら、きっとびっくりするって、いつか二人で一緒に料理を作れたらなって考えると、何でも出来る気がしたんだ」 「料理で……繋ぎ止められるわけないじゃない」イブキの健気な想いに、チハルは折れかけている。 「そう、見事に信じ切っちゃって、我ながら浅はかだったかもね。――それでも、スペシャルメニューの約束をしたあの日……僕は君と一緒に食事がしたかったよ」  イブキは気持ちに区切りをつけるため、残された愛情をかき集めて言葉に乗せた。  チハル側に問題があった事が認められると、後始末はまた日を改めて話し合う事になった。意気消沈したチハルを余所に弁護士達と別れた後、すっかり辺りが暗くなった夜道を歩きながら、イブキとアイはタクシー乗り場へと向かう。イブキはもうくたくたに疲れていて、人でごった返す電車に揺られる気分ではなかったので、タクシー代を払うというアイに甘えさせてもらう事になった。 「ボイスレコーダーがあるなら、どうしてもっと早い段階でに出さなかったんです? そうすれば、アイ――冬野さんの身元を明かされる事はなかったでしょうに」イブキは疑問に思っていた事を尋ねた。 「チハルへの情けのつもりだ。あれはあいつにもイブキにもダメージがデカすぎるからな。素直に非を認めていれば、隠し通す気でいたさ。だが、お前が元から料理上手であったと大ボラを吹き始めてからは、もう容赦しないと決意が固まった」 「相手は本当に強敵でした。アイさんが来てくれなかったら、どうなっていた事か……あっ!」 「アイでいい」ふっと笑いかける。「とはいえ、出来ればそろそろ敬語が取れてくると嬉しいんだがな」 「ああ、同い年ですもんね」 「いや、もっと親密な関係を望んで……だ」  アイは肩を引き寄せようと、腕を回そうとする。イブキはビクッとしてその腕をはねのけた。 「あ、アイさん! 僕達は不倫関係を疑われているんですよ! また防犯カメラに映りでもしたら大変ですよ!」 「あ? ああ、そうだな……」  アイの手は大きくイブキの背中を通り過ぎていき、右ポケットの中に引っ込んだ。イブキはホッと胸を撫で下ろす。 「今後お前はどうする気なんだ? チハルとの共同生活は終了になってしまうわけだが、退去するのか?」 「僕名義で借りているわけではないので、そうなりますね。お許しが得られれば、転職先を探す数日の間だけ、そのまま居候させてもらおうかなと」 「転職先、という事は……」 「はい、会社も退職しようと考えています。せっかくいいところに入ったけれど、チハルにはいろいろ言われちゃいましたし、顔を合わせるのは避けたいです。……元々、周囲の期待値が膨れ上がりすぎてて、僕には重かったですしね」  イブキは明るく笑った。だがアイには無理やり作ったものだとバレていた。周囲関係なく、全部負担してやるから、金でも何でも発生すればいいと思うくらいに抱きしめたくて仕方がない衝動に駆られる。 「あまり気を落とすんじゃないぞ。思いつめなくとも、お前に見合う相手はすぐに見つかる。新たな恋に踏み出せばいい」  アイは再び手を伸ばした。しかし、返って来たのはバチッ!とちょっと痛いくらいのはねのけであった。  思いがけずだったのか、イブキは一瞬やってしまったというような表情を見せる。 「あ、アイさんってば、さっきダメだって言ったじゃないですかぁ。完全に決着がつくまで、しばらくは合わない方が賢明だと思いますよ」 「……そうだな。帰りも別々の方がよさそうだ。ボクは別のタクシーを捕まえるとしよう」  冷たい風がアイの髪を攫う。アイは財布から紙幣を取り出すと、タクシーに乗り込むイブキに手渡して、暗がりの中、一人でタクシーが小さくなっていくのを見送った。  一方でアイと別れたイブキは、座席に身を預けて緊張を解いていた。ふーっと天井を仰ぎながら深呼吸をして、次の瞬間にはすんとした、決意を滲ませた表情になる。  ――次はあなたの番だ。

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