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■明日の君へ

 ――退去まであと三日。会社での引継ぎ作業が完了すると、イブキは職場を去った。  退職理由はチハルや会社のメンツのため、多くを隠して「他にやりたい事が出来た」とした。弁護士を交えてきっちり清算出来たので、それ以上の制裁は望まなかったのだ。  当人としては、自分が抜けても然したる問題もなく回っていくだろう、と気楽に考えていた。しかしいざ周囲に退職を表明すると、「本当にいなくなっちゃうんですか!?」、「残念です。もっと同じチームで仕事がしたかったです」などと惜しむ声が方々から上がって驚いた。まだ連絡を交換していなかった人とアドレスやラインIDを交換したり、女性社員達から贈り物を受け取ったり、送別会まで開いてくれて、決意が揺らぎそうになってしまった。  ――退去まであと二日。大型荷物の運び出しが完了し、あいさつ回りをしたあと、よく訪れていたスポットに足を運んだ。映画館やデパートに喫茶店、若葉の生えそろった街路樹通りなど、逐一チハルやアイとの思い出がついて回り、三人と過ごした日々を懐かしんで寂しくなった。依然二人とは一切顔を合わせていない。イブキにも自ら接触する勇気はなく、おそらく最後まで一言も言葉を交わせずに去るのだろうと思った。  残り一日はたっぷり睡眠を取って、家具が減った広々としたマンションでゆったりと過ごす事にした。退去日にはもうイブキ自身がいなくなる事しか残されていないので、事前に買っておいた食材と最後まで残していた調理器具を用いて、夕食に例のディナーを作ろうと計画していた。  が、夕方頃にいざ準備に取り掛かろうとキッチンに立ち寄ると、イブキはローズマリーのハーブ瓶を返却していなかった事を思い出した。料理が作れるという形跡を消し去るため、ハーブ瓶も食器棚の奥に隠してしまっていたのだった。 「どうしよう、これ……。会わないって約束を守ってくれてる人のとこに行くのは、気が引けるよな」  ていうか合鍵も返してないし。イブキはうーんと頭を悩ませる。こっそり部屋に忍び込んで、テーブルの上にでも置いてこようか? 「――いや、防犯カメラがあるし、玄関の隅に置いておけばいいか。合鍵は管理人さんに預けよう」  何とか会わずに事なきを得られそうで、イブキは胸を撫で下ろす。しかし、冷蔵庫に残ったつまみも食べてしまおうという考えに至ったその瞬間、イブキはゾクッと肝を冷やした。  ――キッチンバサミって、段ボールに入れたっけ……?  入れた覚えのなかったイブキは、すぐさまキッチン中の引き出しを開けまくった。ない。床や隙間に転がっている可能性も考え、スマホのライトで探し回る。ない……、ない……、ない……!  両親に荷物の中を確認してもらうか? ――いいや、量が多すぎる! そんな悠長な事はしてられない!  イブキの脳裏に、最後に見たアイの背中と言葉が蘇った。  ――なぜ、ボクは人の人生を滅茶苦茶にする事しか出来ないんだろうな。  ――二度とお前に近付かないし、危害も加えないと約束しよう。  ――すまないな、深く傷付けてしまったのに、こんな形でしか償えなくて。 「アイさん!!」  あのキッチンバサミは、二人の思い出が詰まった品だ。隠しカメラを部屋中に仕掛けるという異常行動を平気でこなす人のこと。最悪の決断をしかねない。  退去日までまだ時間はある。神様仏様アイ様! どうか早まった事をしないでほしい! 無事であってほしい! 乱暴に合鍵を取って勢いよく部屋を飛び出すと、イブキは震える手で隣りの部屋に鍵を刺した。  ドアを開けた瞬間、血まみれになって横たわる人物が……なんて嫌な想像ばかりしてしまって、踏み込むのが本当に怖かった。だが、ホッとするべきなのか否か、リビングには誰もいなかった。  キッチンに人影はなし。名前を呼びながらトイレや風呂場も覗いてみたが、そちらももぬけの殻。不自然に家具を動かした形跡はなく、生活感はそのまま残されている事から、家主だけが忽然と姿を消しているのが現状となる。 (薄気味悪いくらいに静かだ。出かけているのかな)  改めて玄関をチェックするが、靴棚にはきちんと靴が整列していてよく分からない。ここまで来ると、イブキの頭に帰るという選択肢はなく、安否確認の方が優先になっていた。 (寝室も確認させてもらおう。仕事部屋にこもっているなら、ノックをして……――!)  リビングから伸びる通路を確認した瞬間、直線状にある部屋――仕事部屋のドアが少しだけ開いていることに気付いた。室内の明かりがほのかに漏れ出ている。どこの戸もぴったりと閉められているのに、立ち入り禁止とされてきたそこだけ開いているだなんて。 (まるで僕を誘っているみたいだ。……怖い。亡骸があったらとか、隠しカメラのモニターがあって、閉じ込められたらとか考えると、怖くて堪らない。けど――)  イブキは一歩一歩に勇気を振り絞って歩んで行った。ドアに近付くたび、嫌な想像ばかりがどんどん膨らんでいく。それでも芯にはアイの無事を確認したい自分がいて、イブキは慎重にノブを引いていった。  果たして、部屋の内部はどうなっているのか。

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