22 / 24
2
(誰も、いない……)
入ってすぐ、イブキは安堵というより、肩透かしに近いものを感じた。怯えながらも覚悟して踏み込んだのに、部屋の中は至って普通だったのだ。普通に作業用の簡素なデスクがあって、それほど高さも容量もない普通の本棚があって、部屋全体が普通に綺麗だ。内観を壊すような大量のモニターなんてのも、勿論ない。
窓辺では清廉な白のカーテンが揺れている。ほんの少しだけ窓が開いているらしい。肩の力が抜けたイブキは、はあぁ~~~っと息を吐いて、床にへたりこんだ。
「なーんだ、全然血なまぐさくないや。まったく余計な心配させて、寿命縮んじゃったよ……」
この様子だと、本当に単純に出かけているだけなのかもしれない。寝室を確認したらとっとと退散しようと決めたイブキは、キャスター付きのワークチェアを支えにして立ち上がる。
すると、デスクの真ん中にぽつんと手帳が置いてある事に気が付いた。印刷された夜明けの空の写真が目を惹いたので、表紙のタイトルを攫ってみると――
「『明日の君へ』? ……出版されたものとは違うな。作品作りのために使ったメモとか?」
よく見ると、副題に「始まりの物語」と意味深な文字が記されている。これを見て何かピンときたイブキは、ページを開いてみる事にした。
『明日の君へ――始まりの物語』
――大地と大空というのは、似て非なるものだ。
我々の頭上に広がっていて、その日の気分で笑って泣いて、笑顔や悲しみをもたらす美しき無秩序と、陰も陽もすべて吸収して抱きとめようとする、堅牢な秩序。――どちらも雄大な時の経過を経て生まれたもので、影響を受けやすく、姿形を変える。一方で決定的に異なる部分も枚挙にいとまがない。厳密にいえば、陸地は地球の半分にも満たないし、片方はじゃりじゃりごろごろと感触があって、片方はない。味がある。味がない。手が届く。届かない。
果てしなく、境界があやふやなままどこまでも平行線を辿る者同士を結びつけるには、取り持つ存在が必要となる。私とイブキを結びつけたのは美海という、海原にも蒼穹にもなり得る少女――私の妹だった。――
(美海……)
読み進めて、これはフィクションではなく現実にあった物語であると理解すると、イブキは続きを追う。序盤の流れは父親から聞いていた通りだ。転校してきたイブキが美海と仲良くなり、美海はイブキを好きになって行ったこと、肝心のアイ自身は特に接点はなく、数ある生徒の一人程度にしか思っていなかったらしい。
――〇月×日。美海が病院で息を引き取った。元々長くは生きられないと宣告されていたのだ。両親は隠していたつもりのようだが、子供というのは案外空気を察せるもので、端々で格差の匂いを感じ取っていた。いつも美海中心にものを考えていて、こちらには「我慢してね」とか、「ちょっと待ってて」、「向こうで遊んだらどうか」と、やんわり避けている。病弱だから仕方ない? いいや違う。病を盾にしている感じだ。
人一倍体裁を気にする家柄同士が結ばれたのだから、無理もない。兄は健康的で、男なのに女のようにも見える、アンバランスで気味の悪い存在。片や妹は持病持ちでありながらも、素直に可愛いと誉められるような存在だ。兄なら他の者に任せて教育させておけば立派に育つだろう、妹の事も当然大事にしてくれるだろうと思っていたようだ。
甘すぎる。私は両親からダメだと言われた食べ物を「内緒だよ」と言って口にさせたり、鬼ごっこやかくれんぼ、缶蹴りの輪の中に入れて遊ばせた。ちょっとした憂さ晴らしのつもりだったが、美海は喜んでいた。今思えば、彼女もやりたい事が出来ずに窮屈だったのかもしれない。
私は邪念のせいで遊びの中でも容赦がなく、美海は負けが込む事があったが、唯一イブキだけは同級生の中でもどんくさかったので、よく美海のターゲットとなっていた。おそらく、そこから親近感が沸いていったのだろう。私の代わりに年長者として気遣う面もあったので、美海はイブキに懐くようになった。イブキが卒業して別々になってしまった時には、もう学校にも通えなくなるほど容体が深刻化してしまったので、一生の別れになると悟っただろう。
急な死去ではなかったので、失ったものは大きいが、両親も前を向こうとしていた。一人息子となった私に、今更ながら偏っていた愛情を捧げようと気を遣う日々。美海ありきで生活していたから、成長した息子は何が好きで何が嫌いなのか、何を考えているのか、どう接したらいいのか分からず困っていたようだ。
血の繋がった兄妹であるせいか、私を「美海」と間違えて呼ぶ事が多くなってくる。「なぁに?」と訂正せずに返事をしていると、とうとう両親はおかしくなっていった。現実を受け入れるより、「美海は生きている」という思い込みによって傷を埋める手段を取ったのだ。私は美海の真似を強要され、女装をし、家では病でこもり切りの美海として、外では大空として生きる事になった。
私は――大空としての私は、ようやく欲していた両親の愛情を一心に受ける事が出来て、喜んでいた。曲がっていてもいい。クリームソーダが好物になるのも不自由になるのも、「お前はイブキくんの事が好きなんだ」と洗脳教育されてもいい。兄らしく振舞えなかった、些細な意地悪が寿命を縮め、二人をこんなふうに捻じ曲げてしまったのだという罪の意識から、使命感を感じていた――
「洗脳教育……使命感……」
読み上げると、イブキの心はズキズキとした痛みを訴えた。詳細は伏せられているが、禍々しい字面に、被害者でありながらも気が滅入って来る。
だが、イブキがアイとの間に感じていたものは、他人に強制された過去に基づくものには思えなかった。深い理解と寄り添う気持ちがあり、心の底からイブキの事を好きだと思わないと、お互いに意見が噛み合わずに傷付くばかりで――イブキ自身も、ここまで惹かれなかった。ひどい事をされて尚、真相を探ろうとしたり、部屋に突撃して危ない橋を渡るなんて、お人よしだからという理由だけでは片付けられない。
引き続き文章を辿ると、別々だった中学時代はイブキに対し、「結婚を(親との間だけで、イブキの気持ちも中身も知らずに)約束している」というところまで膨れ上がっていたらしい。薄っぺらい割に強固な共通認識である。
とはいえ、家の外に出れば両親からの圧もなかったので、「大空」のスイッチに切り替わり、「イブキが好きな美海」と「別にそうでもない大空」の人格が形成されていったそうだ。
しかし中学三年に上がると、アイの身にまたしても大きな転機が訪れる事になる。――両親の事故死だ。かつて四人で食卓を囲んでいたテーブルには、「ごめんなさい」「すまなかった」という謝罪の遺書が残されていたという。
ともだちにシェアしよう!

