25 / 33
5
ガチャッ
「――鍵をかけ忘れるとは不用心な……靴? イブキ、いるのか?」
イブキが日記の、文章の途切れた部分まで辿り着くと、玄関の方からドアの開く音が聞こえた。ビニール袋や靴を脱ぐ音に紛れて、アイの声が仕事部屋まで届き、イブキは目を見開いた。
まだ、生きていた!
刹那、日記に没入していた意識がぶつんと途切れ、喜びに沸いた。キッチンバサミの紛失や家主不在の住居、書きかけの日記の不穏な締めに、ずっと恐怖が纏わりついて離れなかったのだ。アイから名前を呼ばれると、イブキは日記を持ったまま部屋を飛び出した。
「アイさん……! アイさん!」
跳ねっ返る勢いでドアを開け放ち、ギョッとしているアイの胸に飛び込んだ。感触がある。温かい。確かに生きていると、体全体で確認するように抱きしめ、アイの匂いを目一杯吸い込んだ。
「良かった……本当に良かった……生きてて良かった……!」
「お前、なぜここにいるんだ」アイは動揺しながらも、引きはがさず、落ち着かせようと背中をさする。「もう会わないと約束したのに、ふいにするようなことをして。死んだ扱いされた反応も気になるぞ」
「死んだ扱いも何も、死んじゃうかもしれないと思ったからですよ!」
プチ逆切れかましたイブキは、事の発端から現在までのいきさつをすべて話した。的外れとも言い難い根拠として、日記も見せつける。するとアイは気まずそうに表情を曇らせた。
「読んだ……のか」
「すみません。これ見よがしに置いてあったもので、つい」イブキは張り付いていた両腕を下す。「でもこの手紙、誰かに――"僕"に読ませるつもりで書いていたんじゃないですか? 次回作用のアイデア帳には見えませんでした」
「……別に。ただ振り返ってみたくなっただけだが」
肌寒いわけでもないのに、アイはやたらと片腕をさする。イブキの目をしても、本心を隠しているが見え見えであった。ムッと唇を引き結んだイブキは、負けじと食い下がる。
「『まだやらなければならない事が残されている』って、一体何の事ですか。終わったら何をするつもりですか」
「……マンションの退去しかないだろう。他に何がある」
「とぼけないで下さい。わざわざ取り上げる事じゃないし、文脈がおかしいです」
「考えすぎだ」
「考えすぎじゃない! 今、ここで話してください! あなたが僕にとって嫌な事を仕出かしそうだから、阻止するために聞いてるんです」
「しつこいな」
鬱陶し気に語気を強め、払うような動作をする。それでもイブキは折れずに、その手を握った。
「! 離し――」
「離さない。――確かに、どえらいストーカーに目を付けられてしまったって、ちょっと前まで悲観してました。僕なんて、特別秀でたところなんてない。チハルに貶される原因も一理あるぐらいのつまらない人間なのに、あそこまで粘着される理由がさっぱり分からなくて、気味が悪いとさえ思った」
戸惑いを見せるアイに、イブキは真剣な眼をぶつける。
「それでも思い返すと、あなたと過ごしている時間は楽しかった。飲み会をしたり、料理を教わったり。つまみを作って、うまいって褒めてもらえた時は嬉しかった。サプライズを口実に女装をさせられたけど、今まで味わった事のない体験をして、胸がドキドキした。トイレの一件で助けに来てくれた時、本当に、本当に心の底から安堵した。それもこれも全部、僕の気を惹かせるための罠だった、なんてあなたは言うかもしれないけど、僕はすべてが偽りだったとは思わない」
「イブキ……」
「じゃなきゃ、外面だけのド変態に弄ばれたって事になる! そんなの、あんまりだ!」
「……(汗)」
「日記で真相を全部知って、こんなふうに必死になってすがりついて……確信しました! 僕、あ、あなたに、き、消えてほしくないです!」
顔を真っ赤にして、唇を震わせて。
「ゆ、アイさんのこと、が、"しゅひ"れす!」
噛んだ……――! 面と向かう恥ずかしさや抑えきれない気持ちが溢れるあまり、口が付いて行けず、呂律が死んでしまった。チハル相手にプロポーズした時は、(何べんもタイミングを逃しはしたが)もう少し冷静でいられたはずなのに。
イブキは「やらかした」という表情を張り付けて落ち込んだ。恐る恐るアイの様子を窺うと、相手は目を見開いて言葉を失っている。せきを切ったようにしゃべりすぎたせいで、耳に入らなかったのだろうか?
沈黙があって、やがてアイはフーと重たげな溜息を吐いた。
「……お前の想像した通りだ。ボクは消え去ろうとしていた。この世から、永遠に」
肩を落としてそう呟くと、デスクの一番上にある引き出しを限界までこじ開ける。すると、ザーッとバランスを崩してぶつかり合う文房具に紛れて、思い出のキッチンバサミが姿を現した。イブキは凍り付く。
「自首なんぞ虚言だ。自ら人生の要だったイブキに嫌われるような真似をして、勝手に傷ついて、小説を書く気力すら消失して。すっかり空 になってしまった。イブキが越した後は、どこか人知れずの場所でヤケ酒して、火を放って、思い出に浸りながらハサミを――なんて、そんな悲劇の結末めいた事をぼうっと考えていた」
はは、と乾いた笑いを飛ばしながら、作業デスクの横に位置するベッドに座り込む。そして脱力したように仰向けになって沈んだ。まとわりつく長い髪を散らし、両目を左手で覆い隠すその素振りは、喜ぶでも安堵するでもなく、しょうもない事を考えるに至った自身を嘲るようだった。
複雑な思いに違いない。左手を取り去ったら、うっすらと涙を浮かべているかもしれない。そんな気弱さを感じたイブキは、アイの隣りに腰かけると、ベッドの上に投げ出された彼の右腕を引いて、両手でしっかりと握った。心配そうな視線を感じ取ったアイは、艶めいた両目から左手を解放してやり、イブキの頭の方へ移動させる。
イブキは頭を寄せた。指先でくすぐるように撫でられた後、導かれるようにしてアイの胸に飛び込んだ。
抱きしめられて、優しく頭を撫でられて、心が通じ合った甘い幸せを嚙みしめる。
ああ、そうか――
「僕、こっち側だったんだ」
「? 何がだ」
「リードする側じゃなかったんだって。チハルといる時、どこかしっくりこなかったんです。違うなぁ、向いてないなぁって」
「ようやく収まるところに収まった、と」
「はいっ。――で、その……アイさん、流石に僕の経験人数までは知らないです……よね?」
小さくニコリとするや否や、唐突な話題を上げるイブキ。目と目が合うよう、横並びに体制を変えて寝そべる中、もじもじと言いにくそうにしている様子を察したアイは、思わずにやけそうになって、推理する風を装いながら口元を手で隠す。
「さあ……? 見当もつかないな。チハルは奥手を匂わせるような発言をしていたが、あいつと付き合う前は流石に知らないな」
「ゼロ」
「ん……?」
「ゼロ。アイさんが……僕の初めての人になるんだ」
その場の空気とは恐ろしいものだ。後々思い返して、悶え苦しむ事になりそうな言葉が出てくる。どうでもよくなった。高揚した息がかかるほどの近距離で、服の上から人差し指でスリスリと乳首をいじられると、びくんと体が跳ねた。くすぐったいくらいのはずなのに、二人きりで、エッチな事をしている意識に痺れて、過敏になって来る。下半身に込み上がって来るものをぎゅうっと腿で引き締めて、イブキも同じようにやり返した。
「キスの頻度は?」
アイは更に身を寄せると、イブキの太腿にするりと手を差し入れて、ズボン越しに性器を指でなぞり始める。
「うッ、ねっ、ネットで軽く調べて、頑張って三・四回くらい……」
「舌での交尾は?」唾液をたっぷり含ませて唇の側面を舐めたり、角度を変えて、頬や顎に吸い付いてくる。
「こっ!? 深いのは、よく分からなくて。恥ずかしがっているところを可愛いって笑ってくれたから、まだいいかなって」
「それはお前……ふふ、チハルに愛想付かされるのも当然じゃないか?」
「ですよね」
「最高だ」
じらし行為による興奮値が最高潮に達した。アイはイブキの肩を抱き寄せ、食いつくように唇を重ねる。ねっとりとした舌触り、熱い息の乱れ合いに、イブキは素直に応じる。
「交尾」とまで称する通り、息つく暇もない。相手がどう感じているか、緊張で探り探りであったキスとは全く違う。自分自身の立場に合った、受け身での愛撫に体の奥底が沸いた。
これが欲しかった! 二人きりで飲み会して暴走しかけたあの時、本当は理性をかなぐり捨てて狂ってしまいたかった。
今、それが叶っている! 欲しい! アイさんの熱が、もっと欲しい……!
「ッハァ、ッハァ! あ、アイさん、僕もう我慢が……っ」激しい動きでこすれ合って、ぐちょぐちょにシミが滲んだそこに手をやる。
「キスだけで濡れてしまったのか? いいぞ。ボクにイク姿を見せてくれ」
アイは興奮した面持ちで、悶えるイブキのズボンのジッパーに手を掛けると、下着ごとズボンを下した。「あッ!」と呻くイブキ。ボロンと飛び出たものをすかさず口に含まれ、軽く吸引された瞬間、溜め込んでいたものが奥底から肉の先端まで駆け抜けて、一気に射出。ダメだとストップをかける前に、イってしまった。快楽で体がのけぞり、頭の中が真っ白に埋め尽くされる。
ベッドに疲れた体を横たわらせながら、イブキはぼやけた目でアイを見上げる。彼は酷く穢れたものを飲み込んだはずなのに、熟成されたワインでも味わうかのように舌の上で転がし、至福の表情を浮かべていた。髪に散った白濁まで指で掬い取り、糸を引いて唇にねじこむ様からは、男らしさというよりかは、挑発する女のような艶やかさを感じた。
「受精したな。オメデトウ」
「じゅ、せいって……」乳白が滴るそこを見やり、顔を赤らめる。「キスにやられただけでしょう。いちいち言葉選びがハレンチで、恥ずかしいんですけど……」
「物書きは発想力が豊かでないとな。それに、その言葉選びでお前は幾度となく夜中に鳴かされたのだろう。見ていたぞ」
「う、ぐっ、このド変態ッ!」
「光栄だろう。書籍のレビュー欄についたどの"感想"よりも、お前の"生の感想"の方が何倍も響いたんだからな」
クスクス笑いながら、アイはポケットから油性ペンを抜き取る。口でキャップを開け、汚れていない綺麗な太腿の内側に「一」と短い一本線を引いた。
一瞬、何を意味するのか分からなかった。が、デスクに転がされた抜き身の油性ペンと、アイの過去作に出て来たシーン、まだまだ物足りないといった眼前の男の表情が物語っていて、イブキは生唾を飲み込んだ。
ともだちにシェアしよう!

