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■狂気の世界

「うっ……、くふっ……うあッ!」  ベッドの上に組み敷かれたイブキは、丸出しのイチモツ同士のキスで果てた。ぬるぬるとしたいかがわしい絡み合いとしごきの手さばきで堪えきれなくなった。棒の先端からは、受精した証とやらのミルキーな乳が溢れ出ている。アイは胸を激しく上下させるイブキを見て、腿にペンを走らせた。一本線にまた一本追加されて、「T」と記された。  このサインを肌に刻むからには、アイとしては何発も達するのを期待しているのだろう。たった二本線だけでは実に味気ない。だが、イブキのそれはもう、少し撫でただけでは勃たなくなっていた。自慰くらいはする事があっても、もっと先を経験した事がないイブキにとっては、二発ほとばしっただけで精一杯だったのだ。  それでも、アイの瞳には余裕がみなぎっていた。肩を寄せて、火照った耳元に囁く。 「イブキ、そろそろキス以上の興奮を味わってみたくはないか?」 「え?」イブキはギョッと見開く。「これ以上の? も、もう僕は十分ですよ。そろそろ帰ります」 「連れないな。そら、泊めてやるからもっと楽しんでいけ」 「元気ですねぇ……。でも、こっちの"僕"も疲れちゃってるみたいだし、出るものも出ませんよ。外も暗くなりましたし、ひとまず一旦は区切りを付けません?」  今何時だ? とスマホの在りかを探し始めるイブキ。アイが自身のスマホの電源を入れて掲げてくれて、眩しい光に一瞬目を細めると、7時50分のデジタル文字が飛び込んで来た。  イブキとしては、もうここまで深く繋がってしまったらと、今日限りの関係で終わるつもりはなかった。今更逃げも隠れもしない。泊めてもらえるというなら、夕飯を作りながらイチャつくなり、別の事をして恋人気分を楽しむでもいい。ふけった頃に再開しても構わない。  しかしアイは頑なだった。「今日――いや、今がちょうどいい時なんだ」と、訳の分からない事を口にしてイブキの手を引き、立ち上がらせると、強引にそのまま仕事部屋から――玄関から出た。"そのまま"というのは、靴も履かずにどころか、お互い下半身丸出し状態の事を指す。  とんでもない行動に、イブキはパニックになった。床に液が点々と垂れている。廊下には誰もいないが、防犯カメラはしっかり回っているはず。婚約破棄で争った時に自覚したのに、一体何をやっているのか。  嫌悪を露わにする間もなく、二人は目的地のドアに到着。その場所はなんと、イブキとチハルが住んでいた部屋の"左隣り"だった。空き部屋になったと聞いて以降、入居者が現れる事もなく、手付かずだったはずのそこは、鍵を差し込まれると簡単に開いてしまった。  背後に回ったアイに突き飛ばされるようにして入らされると、玄関先の光景にたちまち絶句する。イブキ達が普段リビングとして扱っていた広い一間は、うっすらとピンクだと分かる色の壁紙がはられ、ちょっと古臭くて女の子らしい小物や家具で溢れていた。女児アニメキャラクターがプリントされたベッドと枕、小学生くらいの年代の子が使いそうな勉強机と赤いランドセル、絵本や少女漫画が収まった本棚と、窓は一部がビリビリに引き裂かれたハート模様のカーテンで覆われている。ドールハウスやおままごと用のキッチンセット、髪の毛がボサボサになった人形や、片目のボタンがない、くまなどのぬいぐるみ類も部屋のあちらこちらに放置。まるで子供が遊び散らかした後のようだ。 「"子供部屋"よ」  施錠する音がした後、イブキの両肩に腕と、艶めかしく変貌した馴染みの声がかかる。 「二重の意味が掛かっているんだけど、イブキちゃんには分かるかしら?」 「な、何で口調を――」  イブキはハッと息を呑む。 「ま、さか、"美海"……さん?」  振り向くと、にんまりと口角を上げるアイが映って、瞬間ドンッ! と壁に体を打ち付けられた。後頭部の衝撃に呻く隙もなく、唇を塞がれる。ただぴったりと押し当てられるだけ。それなのに、熱烈に繰り出されるキスに、イブキは抵抗力をそぎ落とされてしまった。  唇を離し、アイは無邪気に、且つ恍惚に口端を舐める。 「ずーーーーーーーー~~~~~~っと、こうしたかったぁ。 やっと手に入れたぁ」  一つの人格に戻ったというのは、こういう事か。イブキは苦渋の表情を浮かべる。 「……スイッチの切り替えは、部屋ですか?」 「以前はね。でも、イブキちゃんに会いたくてどうしようもなくなると、外に出てきたくなってしまうの。体が弱いから、あんまり長い時間出てこれないんだけれどねっ」 「俗にいう、二重人格ってやつです?」 「そんなんじゃない。お兄ちゃんはしもべで、私はお姫様なの。しもべはお姫様に決して逆らえないのよ。愛しのイブキちゃんに接吻の雨を降らせたいって思ったら交代してくれるし、可愛いお洋服が欲しいって懇願すれば買ってくれる。お股の上の辺りがもぞもぞするって言えば、近親セックスだってしてくれるの」 「これは……相当こじれてますね」  大人のアイと小学生当時の美海が変にミックスされて、小難しい単語を口走っている。恐らくアイの中に兄妹の優劣が根深く残っていて、不意に我がままを囁いて来るのだろう。両親の期待に応えたくて、何年も美海を演じてきた事から、端々はおかしくとも、自然体でしゃべっているに違いない。  ……可哀想な人だ。一人芝居を打ち続けるアイに、イブキは憐れむ。どうしようもないこの人たちを――否、この人を解放できるのはきっと―― 「そんな事より、こっちに来てちょうだい。見せたいものがあるのよ」  美海の精神が混ざったアイは、イブキの意思を聞かずに強制的に連行する。まっすぐ行く先にあるのは、通常では互いに仕事部屋として利用している一室だが、このねじ曲がった狂気の世界では、どういった空間に変貌しているか分かったもんじゃない。  だが、用があったのは仕事部屋ではなかった。半端に開かれているドアから、監視室であると悟れるくらい大量のモニターが見えて、体が強張ったものの、横に導線が逸れて、ホッと一安心――  出来なかった。 「……は? 何で……?」  イブキが目にしたのは、かつてチハルと過ごした寝室そのものだった。二人で選んだダブルベッドも、タンスも化粧台も、イブキの私物どころか、チハルが愛用していたバッグ・コスメグッズといった細部に至るまで、完璧に再現されていた。室内からは、チハルが好んでつけていた桜の香水の香りまで漂ってくる。  一瞬、まさかこれらもキッチンバサミ同様に盗んで来たのかと疑った。しかしイブキ自身の家具類に限っては、きちんと引っ越し業者に頼んで実家に置いてあるのを確認している。なので、監視室でつぶさにブランドやメーカーを調べ上げて、同じものをセッティングしたと思われる。それはそれで理解しかねる行動力だ。  しかし一点だけ、馴染みのある品ぞろいの中に、寝室に置いていないはずの異物が置いてあった。50インチの薄型テレビだ。当然のごとく、三人で飲み会をしたリビングにあった、チハルの持ち物と同じメーカー産。なぜこんなところに?  チハルのイメージを連想させる空気を、極力吸い込まないように抵抗は出来ても、力では抗えない。イブキはベッドに座らされると、逃げ出さないように肩を固定されて、目の前のテレビに注目するよう圧を掛けられた。何も言えずに従っているイブキに満足すると、アイはリモコンを手に取り、電源スイッチを入れる。  もう勘弁してくれ……と、驚くのに疲弊した心が音を上げた。  画面に写し出されたのは、ソファに座ったチハルだった。赤いブラが透けた部屋着を身に着け、生足を組んでいる。イブキの私物がなくなっているので若干殺風景だが、位置的にテレビ側目線のリビングの光景だと、即座に把握できた。 『――ったく、退去日が今日だって聞いたから、わざわざ早めに切り上げて出向いてあげたっていうのに。あいつったらどこほっつき歩いてるのよ……』  カリカリとした不機嫌な顔をして、チハルはこちらを見ている。待ち人であるらしいイブキは目の前にいて、あろうことか隣人のアイと淫らな姿で共にいるというのに、言及してこないのはおかしいので、彼女自身は普通にテレビ番組を視聴しているのだと思われる。向う側のテレビのどこかに、盗撮カメラが仕込まれているに違いない。すべて撤去できていなかったのか。  ――だが、とっくに破局して、イブキに接触する理由もない彼女が、なぜ今あの部屋に? 『鍵が開いていたから、まだ帰省はしていないはずよね。最後にちょっと、言う事言っとこうとか、多少なりとも気持ちが残ってるなら、考えてやらなくもなかったのに……あんのクソガキッ!』  怒りをぶつけるように、直前に呑んでいた空の酒缶をその辺に放った。掃除夫の男は――「しょうがないなあ~」と言って片付けてくれる話し相手ははもういないので、缶は床に跳ね返って、もの寂しく転がるのみ。  チハルは物思いにふけったようにぼうっと見つめた後、フンッと鼻息を鳴らして立ち上がり、缶を拾ってその場を離れた。 「チハル……っ」  元恋人の胸中を知って、イブキの心が揺れ動いた。今、彼が置かれている現状を鑑みると、不安な気持ちを解消してくれそうなのは彼女しかいなかった。散々こき下ろされて、愛情が消え失せてしまったと思っていたけれど、後悔するような素振りを目の当たりにしたイブキは、ズルズルと項垂れていった。 「――まだ、僅かばかりの未練が残っているようだな? 純粋なやつめ」  抱きすくめられて、男のアイの声が耳に掛かる。 「イヤ! 私、あの女大っ嫌い。イブキちゃんに酷い事をしたんだもの。サイテーよ」  ぎゅうっと首筋に顔を埋め、甘えた声が掛かる。美海だ。 「ああ、分っているよ美海。イブキを幸せに出来るのはあいつじゃない。この"ボク"だ」 「ちょっと! この私を差し置いて、独り占めなんて許さない! イブキちゃんを独占していいのは私なのよ」 「ボクだ」 「私よ」 「ボク」 「私」 「ボ・ク」 「わ・た――」 「――も、もうっ……やめてほしい。頭がおかしくなる……」  弱った悲鳴のような声を上げて、一人で口喧嘩をしているアイを制する。彼の中では妹が生きているのかも知れないが、イブキは美海の記憶が飛んでいるので、いまいちペースに追いついていけない。何よりイブキとチハルのプライベートルームを模した事や、盗撮カメラを再び仕込むといった行動の意図が、一切読めなかった。チハルへの当てつけだけで済むのなら、まだマシであろうが……。  ――この人を、どうにか救ってあげないと。 「アイさん、精神科に見てもらいましょう。今のあなたは……見ていて痛々しい」  意を決したイブキは、アイの方を掴んで、真剣な眼で見詰めた。 「……痛々しい?」  アイは、すん……とした表情を見せる。 「すみません、僕は言葉遣いがうまくないんで、多少キツイところは目を瞑ってください」 「……」 「日記の独白に嘘偽りがないのなら、本来のあなたは美海さんではなく、あなた自身を認めてほしかったんですよね。寵愛を受けていた妹さんが亡くなってしまった事で、親の愛があなたに向くと思った。なのに叶いそうになかったから、気にかけてほしくて虚像を作ってしまった」 「まあ、そうだが」 「でも、もう演じる必要はないんですよ。自由になっていいんです。あなたを悲しませる過去の人たちは、あなたの元から旅立ってしまってどこにもいない。――未来を生きましょう。僕があなたのそばで、ずっと見ていてあげますから。周りを巻き込むのはやめましょう」  拙い言葉に、イブキはありったけの想いを込めた。チハルが態度を少し改めてくれたのは嬉しい。だが、一人で暴走するアイを放っておく事はできない。  ――僕が、この人を大事にしてあげなければ。愛してあげなければ――

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